誘魔の湖畔
都姫湖遥
追憶への手向け
空は深い青緑で、ぼやけた銀色の月明りが
何かを感じ取ったように、突然バサリと飛び立った鳥の、
薄暗い中、
男がこんな時間に舟を出しているのには理由があった。というのも、今朝男の元に一通の手紙が届いたのだが、優美な文字で書かれたそれによれば、突然のことで申し訳ないが少しばかり仕事をしてくれればそれなりの報酬を約束する、とのことだったので、男は、この冬の寒い真夜中に、手紙に書かれた通りの場所で、舟の乗客を待っているのである。
息は白く、顔は皮膚を裂かれたようにじんじんと痛む。早くも待ちくたびれた男は、持ってきていた水筒を取り出して、中のウイスキーを少し飲んだ。
──そもそも、こんな夜中に舟を使うなんてろくな気配がしねえし、さては、何かのいたずらで騙されたのかもしれない。男は、帰るきっかけを決めようと、辺りを見回した。──それじゃあ、あの家の灯りが消えたら。……いや、家主の気まぐれで一晩中点いているかもしれないぜ。そうなったら凍え死んじまう。
「ごめんなさい、こんな時間にお呼びして」
男が顔を上げると、舟着き場に下りる階段から一人の女が姿を現すところだった。
奇妙なことに、女の服装は昼間の貴婦人が着る形式のものだったし、それなのにその色合いときたら葬儀の参列者のようだった。
女は左手に、花束を持っていた。黒いドレスに引き立てられた白い花は、女の奇妙さをより確かなものにしていた。
「お代は先払いにさせていただきますわ。これでよろしかったかしら」
女は約束通り、多すぎるくらいの金を出した。寒い中待たされて不服に思っていた男も、これには満足した。
「毎度あり。そんで、どの辺まで行かれるんで?」
「この川のあちらのほうに、大きな石橋があるでしょう。その下を通って、しばらく行った先の、北の岸で降ろしていただきたいのです」
「はあ。ですが、北の岸っていうと、今いるこっち側ですぜ」
「ええ、わたくし、橋の下を通りたいだけですもの」
女は帽子の
妙な女だ、と男は思う。こんな時間に従者もつけず、この貴婦人は橋の下で何がしたいのだろう。
「それでは、お願いいたしますわね」
女が乗り込んだので、男は黙って舟を漕ぎ始めた。
暗い空を映す水面。舟を漕ぐたび
「あるとことに、しあわせものの娘がおりました。娘は田舎の裕福な旧家の出で、聡明で温かい女に育ちました」
女は前置きもなく、淡々と話しだした。
「娘は恋をしました。相手もまた、育ちの良い紳士で、娘のことを愛しておりました。ふたりはなんの障害もなく、両家の人間たちから祝福され、結ばれました。娘は夫人となり、ふたりの間には女の子も産まれました」
「そりゃ、めでたいですね」
「けれど、夫は病気に
先ほどまで点いていた南岸の建物の一部屋の灯りが、ふっと消えた。
「……そりゃ、気の毒ですね」
「ええ、本当に気の毒なこと。夫人は、ひどく取り乱し、心を病んでいきました。あの人がいなければ、生きてゆけないと」
女は、手に持ったままの花束を眺めていた。華やかな純白は、ここが人々で賑わう街中や
「夫人は、川へ身を投げました。冬の真夜中の、冷たい川に。彼女の心残りはただ一つ、立派な貴婦人となった娘とお茶をすることができなかったことでした」
舟の上から少しずつ、月明かりが失われる。頭上には、大きな橋が架かっていて、積まれた石の面に、水の姿がゆらゆら揺れている。
見えないはずの川底を、女はまるで
女は、手に持っていた花を川の中へ投げた。水面に浮かんだ白い花は舟から響く波紋に押され、遠ざかっていった。
「夫人は、まめな人でした。夫の死に心を乱されようと、そのことすらも、日記に記しておりました」
女は華奢な身体を
「私には視えるのです。あの橋の上に、母が」
男も釣られて視線を同じ方向にやった。緑の空を背に、立派な石橋が建っているだけだった。
「わたくしでは、母の傷を埋めることができなかった」
初めて、女の声に悲哀の感情が浮かんだ。
「いっそ、一緒に殺してくれたなら。独り残される苦しみを、母は知っていたはずなのに」
「そりゃ、気の毒ですね」
適当な相槌を打つのには、慣れていた。
空の小舟が、舟着き場の前で密やかに揺れている。
確かに長い時間、舟に乗っていたはずなのに、いざ終わってみると、どれだけ鮮明に思い出しても全てが一瞬のことに思えた。
「急な依頼でしたのに、ありがとうございます」
「いえ、これが仕事ってもんですから」
男は軽い口調で答えた。女のほうも泰然とした態度を取り戻していたが、表情は先ほどまでより柔らかかった。
「それとお客さん、あんなこと言っといてなんですけど……気の毒かどうかは、自分で決めるもんですぜ」
「あら、素敵なことをおっしゃいますのね」
女は貴婦人然として微笑んだ。
階段を
「……今日のこと、今後お気になさらなくて結構ですからね。気まぐれに話した、独り言のようなものですから」
「乗客の言葉なんて一々覚えてちゃあ、それだけで足りねえ頭が一杯になっちまいます」
「ふふ。そう言われると、少し寂しいですわね」
女は
男は、夜に溶けてゆく背中を見送りながら、彼女の幸せを精一杯願ってみたりした。
万が一、あの橋の下を通るたびに黒いバッスルドレスを着た女の霊が見えるようになるようなことがあったら、たまったものではないからだ。
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