36.その願い、天に届け。

 それは突然やって来た。



 ガチャガチャ……


(えっ、誰……!?)


 架純は動揺した。

 夕方も遅い時間。外は真っ暗で静かな部屋に誰かが玄関のドアを開けようとしている。



(こんな時間にお母さんが来るはずないし……、誰なの……)


 母親の柊木裕子は、通常この時間帯は夜の仕事に出ている。絶対に彼女が訪れるはずがない。薄い暗い部屋。架純が部屋の隅へ行き小さくなる。



 ガチャン……


 無情にもアパートのドアは解錠され、ギギッとスチールのドアが開く音が暗闇に響く。




「おい……」


(!!)


 男の声。知らない声。架純の体が小刻みに震える。男は玄関に上がり明かりをつけて言う。



「いるんだろ? 出て来いよ」


 架純は体の震えが止まらなかった。玄関に上がった男。その顔は見たことはないが、すぐに誰だか分かった。



(お母さんの、再婚相手の……)


 金髪で真っ黒に日に焼けた顔。土木関係の仕事をしているとかで細い割には体格の良い男。その情報だけで架純は、彼が裕子の再婚相手の馬場信二だと分かった。



(なんで、どうして、ここに……??)


 架純が息を殺して相手の様子を見つめる。

 どうしてここにやって来たのか。なぜ鍵を持っているのか、全く理解できない。信二が言う。



「出て来いよ。お前がいることは分かってんだぞ? おい!!」


 ドン!!!



「きゃっ!!」


 信二が玄関の壁を蹴る。その大きな音に驚いて架純が思わず声を上げる。



「やっぱりいたか」


 そうつぶやくと、信二は架純のいる部屋に入り隅で怯えるように座る彼女を見つめる。


「やっぱりお前か。ふん、裕子の奴、だなんて嘘つきやがって!!」


 その声には怒りの感情が強く込められていた。架純と信二を会わせないようにするために『息子』だと嘘と付いていたことが、更に彼を激怒させた。架純が震えた声で言う。



「どうして、どうしてここへ……」


 信二が部屋の入り口に立ち、腕組みしながら答える。


「裕子の言動が怪しかったからここ数日見張ってたんだよ。このアパートを」


「!!」


 架純の体の力が抜ける。監視されていた。全く気付かなかった。


「そうしたら案の定これだ。裕子はお前のこと息子だって言い張っていたが、どうもおかしいと思ってな。そうしたらこんな上玉が部屋に入って行くじゃねえか。まあ興奮したぜ」


 架純が無言になる。そして心底恐怖を感じる。


「あいつにはまた別でお仕置きしてやる。それより先にだ」


「い、いや……」


 ゆっくり迫りくる信二に架純が左右に首を振る。信二が言う。



「さあ、楽しませて貰うぜ。裕子は仕事中だ。誰もここには来ねえ」


 架純は恐怖で声も出なかった。ただ半分開かれたままのドアの向こうに誰かが歩く姿が見える。



(あ、あれは隣に住んでいる男の人……)


 面識はない。話したことはないが、独身っぽい男性が住んでいるのは知っていた。信二がドアが開いていることに気付き玄関に行きドアを閉めて鍵をする。



(助けて、お願い誰か助けて……)


 架純は思った。こんな事になるなら隣の男性と知り合いになっておくんだった。異常を感じてすぐに助けてくれるような関係を作っておくんだと。信二が架純の前に立ち言う。


「騒ぐなよ。騒いだら、殺す」


 架純は恐怖でもう何も抵抗ができなかった。





(何も感じない……)


 その翌日、架純は無表情のまま駅近くにあるビルの屋上に立っていた。突然現れた信二に暴行され、その心は既に壊れてしまっている。


 ザザッ……


 架純が屋上のフェンスに手をかけゆっくりとよじ登る。



(風が冷たい……)


 何も感じなく、何も考えなくなっていた思考に風の冷たさだけはひとつの電気信号として架純の脳に伝えられた。時々強く吹く風に艶やかな黒髪が靡く。架純が目の前に広がるビルの群れを見ながら思う。



(さようなら、私を知らない人。さようなら、私と違う場所で生きていた人……)


 目を閉じた架純。

 ビルに吹く風と共にその細い体が宙に舞った。






(……涙)


 自分の部屋の布団の中で目を覚ました架純は、眠りながら涙を流していたことに気付いた。全身を覆うような汗。生々しい感覚。そのすべてがそれを証明していた。


 ――正夢


 架純は布団に横になったまま動けなかった。自分が母親の再婚予定の男に乱暴され、その後ビルから飛び降り命を絶つ。布団の中で涙を流し、心の中で叫ぶ。



(どうして、どうしてなの!!)


 これまでの人生で幾度となく見て来た正夢。それが本当になってしまうと気付いてから、恐怖と感じるのに時間は掛からなかった。まるで未来を見て来たかのような感覚。予知夢。タイムループ。様々な言葉が架純を襲った。



「回避しなきゃ」


 布団から起き上がった架純が机の上に置かれたカレンダーを手にする。


「三月二十五日……」


 来年のカレンダー、そのXデーに丸を付ける。この日までに何かを変えれば生きられる。まだ時間はある。やるべきことは明白だ。




 バタン!!


 その時外から彼女の耳に勢い良く閉じられるドアの音が響く。架純はカレンダーを持ったまま窓の近くへ行き、カーテンの隙間から駐車場を見つめる。


「やっべ!! マジ遅刻だっ!!!」


 それは隣人の独身男性。まるでマンガの様にパンを咥えて走って行く。



「隣の男の人……」


 架純の脳裏に、夢の中で信二が部屋にやってきた際に開いたドアの向こうに見えた男の姿が思い出される。



「あの人だ……」


 架純がカレンダーを持つ手に力を入れる。この瞬間、天馬の隣に棲む『天使の作戦』が始まりを告げた。






「架純ちゃん、どうかしたの??」


 元旦。架純と一緒に近くの神社に初もうでに来た天馬は、急に悲しそうな顔になった彼女を心配して尋ねた。

 小さな地域の神社だが、年一度のこの元旦の朝だけは大勢の人で賑わっている。冷たい風が舞う中、ふたりは腕を組んで一緒に並んで歩く。架純が答える。


「大丈夫です!」


 そう無理して作った笑顔で答える架純。天馬が言う。


「大丈夫じゃないんでしょ?」


「……大丈夫ですから。きっと」


 架純が腕を組んで手に力を入れる。天馬が言う。



「もうちょっとだね」


「はい」


 神社の社の前にできた長い行列。みな参拝をする為に順番を待っている。架純が尋ねる。


「天馬さんは何をお願いするんですか?」


 そう尋ねられた天馬がやや困った顔で答える。


「俺? うーん、そうだな……、架純ちゃんは決めたの?」


 色々あり過ぎて決めかねていた天馬。架純が答える。


「はい。私は、この先ずっと天馬さんとこうしていられるようにってお願いします」


「あ、ありがとう……」


 お互いの気持ちを確かめ合ったふたり。天馬としては改めてそう言うのを口にするのは恥ずかしく思っていたのだが、彼女は違うらしい。


「天馬さんは違うんですか?」


「い、いや。同じだよ」


「良かった。この願いがちゃんと天に届けばいいですね」



「届くよ、絶対」


 ふたりはそう話しながら良く晴れた空を見上げた。

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