26.有頂天
「おはようございます、天馬さん!」
翌、月曜日の朝。アパートのドアを開けた先に学校の制服に着替えた架純が立って待っていた。驚いた天馬が尋ねる。
「あれ? 架純ちゃんってまだ学校の時間には早いよね?」
天馬の方が少し早く出る。架純の登校の時間にはまだやや早い。
「はい。でも今日は一緒に行きたくて……、ダメでした?」
「いいよいいよ! もちろん」
ダメな訳がない。可愛い女子高生と一緒に出社できるなら朝からこれほど嬉しいことはない。
「じゃあ、行きましょ」
「わ、架純ちゃん!?」
そう言って当たり前のように腕を絡める架純。薄い夏服。架純の柔らかい胸が腕へと直に伝わる。
(これって、仲の良い親子とかに見えるのかな……)
架純と腕を組んで歩く姿は目立つ。美少女女子高生にうだつの上がらないおっさん。痛い視線をビシビシと感じるのだが幸い通報には至っていない。親子とみられているのだろうか。まあそれならその方がいいと天馬は思った。
「天馬さん。天馬さんって知っていたんですか?」
「え? 何を?」
通報の件かと思った天馬が一瞬焦る。
「あのバスケの時に来ていた隼人さんって人のこと……」
「隼人君? どうして?」
架純が鞄からスマホを取り出し天馬に見せる。
「今朝、隼人さんの記事が出てて……」
それを見た天馬が驚いて固まる。
『バスケ界期待のホープ瀬古隼人。インカレに向けて動き出す!!』
それは隼人が本格的にインカレ出場に向けて練習を始めたことを伝える記事であった。何度もその記事を読んだ天馬が驚いて言う。
「隼人君って、そんな凄い人だったんだ……」
まったく知らなかった。バスケ等とは関わることのなかった人生。どれだけ有名な選手でも天馬の耳には入らない。
(それなのに朝会えばいつもこんなおっさんに教えてくれた……、マジ感謝だな……)
「天馬さん、凄いですね! こんな有名な人とお知り合いだったなんて」
「いや、偶然朝の練習で一緒になって言葉を交わしただけだよ。俺も知らなかった。隼人君がこんなに有名だったなんて」
ちゃんとお礼を言わなきゃなと思っていた矢先の事実。また朝の練習にでも行こうかなと思っていた天馬の腕を架純が撫でながら言う。
「でも天馬さんって、バスケ始めてからすっごくイイ体になりましたよね! ほら、腕だってこんなに硬くて……」
「か、架純ちゃん!?」
天馬の全身は数か月に及ぶハードな練習で知らぬ間に鍛え上げられていた。腕の筋肉、脂肪が落ちた腹。おっさんにしては中々の肢体である。架純が腕やお腹を触りながら言う。
「男の人って、こんなに硬くなるんですね」
(お、おい……、朝から女子高生がなんて言葉を……)
天馬の頭に広がる妄想。もちろん架純にそんな意図はない。
「じゃあね!」
「お仕事頑張ってくださいねー」
朝から架純に翻弄された天馬がふうと大きく息を吐いてから会社へと向かう。ここから仕事モード。嫌な仕事だがやらなければ生きていけない。
無表情になった天馬が事務所に入ると、いつもと違う空気が漂っていることに気付いた。
「おはようございます。西園寺さん……」
そう挨拶して来たのは愛想だけはいい後輩の佐山。なんだか暗い。彼女と喧嘩でもしたのか、と思っていた天馬に専務が声を掛ける。
「西園寺、ちょっと来てくれ」
「はい?」
出社早々専務室に呼ばれる天馬。絶対イヤな案件だ。マジでうざい、と思いつつ専務の後について歩き出す。
「実はな、B工業をまたお前に任せたいと思っている」
「え?」
意外な言葉であった。B工業と言えば先に後輩の佐山に引き継がれたはず。驚く天馬に専務が先に起きた事情を説明する。
(マジかよ……)
B工業の社長はおおらかな性格で自分の禿げを自虐的に話題にする人だが、こちらから頭の話題は触れてはいけない。佐山はそれを犯し、社長の逆鱗に触れたとのこと。
「と言う訳だ。悪いがまた担当をやって欲しい」
「はあ、社長怒ってますよね?」
「まあな。カンカンに怒ってうちに電話かけて来たらしい」
再びそれを思い出したのか専務の顔色が青くなる。天馬が言う。
「とりあえず謝罪から始めなきゃいけないですね……」
「ああ、そうしてくれ。一応うちの社長が謝罪して許して貰ってはいるが、今後のことを考えるとお前しか任せられない」
「……分かりました」
天馬は内心ため息をつく。それでも後輩の尻拭いをしなければならないのはある意味先輩としての役目。天馬は心配そうな顔をする専務に頭を下げて部屋を出る。
「西園寺さん、すみません……」
専務の部屋を出た天馬に廊下で待っていた佐山が近付いて来て頭を下げて言った。天馬が彼の肩を叩きながら言う。
「まあ、気にするな」
「はい……」
さすがの佐山も今回の件の重大さに苛まれているようだ。B工業は大切な取引先。ひとつ間違えばそれを失う可能性もある。天馬が言う。
「上手く言えないけど、まあ気にすんな」
「すみません……」
天馬は十分に反省していると見えた佐山にはそれ以上何も言わないことにした。同時にこのような事態を招いた会社上層部の無能さにもいい加減呆れてしまった。
「架純、架純っ!!」
いつもより早く学校に登校した架純。まだ誰もいない教室でひとり座っていると、同じく早めに登校して来た友人の真由が息を切らせてやって来た。
「どうしたのよ?」
肩で息をする友人を見て架純が尋ねる。
「はあはあ、良かった。会えて」
「会えるに決まってるじゃん」
「違うのよ!! ねえちょっと聞くんだけどさ……」
真由は架純の隣の席に座り尋ねる。
「架純がいつも話している天馬さんって人、架純以外に付き合っている女とかは居ないんだよね?」
天馬と言う名前が出た瞬間顔つきが変わる架純。真剣な顔で聞き返す。
「居ないわ。それがどうかしたの?」
自信ある言葉。まるで自分が彼女のような圧。真由がスマホを取り出してある写真を見せながら言う。
「昨日、駅裏の通りにあるカフェを通りかかったんだけど、ほら見て。これってその天馬さんって人じゃないの??」
「……」
架純の視線が真由のスマホに突き刺さる。瞬きすらしない真剣な目。架純が真由のスマホを手に取りじっと見る。
「……天馬さん」
擦れるような小さな声。間違いなくそれは天馬。同時に注がれる一緒に座る黒髪の女性。架純が尋ねる。
「誰なのよ、この女?」
「え? 私知らないわよ」
知るはずがない。偶然見かけただけなのだから。真由が尋ねる。
「架純も知らない人なの?」
「……知らない」
明らかに怒りの籠った声。
「架純はまだ天馬さんと付き合っていないの?」
架純がむっとした表情で答える。
「膝枕したり、添い寝したり、朝まで一緒に過ごしたり、パンツ見せたり、水着で抱き合ったりしたけど、まだ付き合っていないわ」
「な、なにそれ……、付き合っちゃえばいいじゃん……」
想像よりも面白いことをしていると思った真由が苦笑いして言う。架純が首を振って答える。
「ダメなの。天馬さん、私に触れると『けんきょー』とか『つうほー』とか言って逃げちゃうし……」
「ああ、そうだったわね。でもそれって架純が高校生のうちは無理ってことなの?」
「かもしれない……」
架純に落胆の色が浮かぶ。そしてスマホを真由に返しながら言う。
「真由。その写真、私に送って」
「え? あ、うん。いいけど……」
そう言いながら真由が架純に写真を転送する。架純が写真が届いたことを確認しながら言う。
「今日、絶対問い詰めてやる。どんな女なのかって!!」
「そ、そうだね。応援するよ」
真由は何かの勘違いだと願いつつ、怒りに染まる友人の顔を見つめた。
「あ、架純ちゃん!!」
「こんばんは。天馬さん」
その日の夕方。架純から『駅で待っている』という連絡を受けた天馬が足早に会社を出て駅に着くと、明らかに不満そうな顔をした架純が改札横で立っていた。一瞬でそれに気付いた天馬。ややテンションを落としながら尋ねる。
「あの、どうかしたのかな……?」
架純はむっとしたまま表情を変えず、鞄から取り出したスマホの写真を天馬に見せて言う。
「この女、誰なんですか!!」
(うげっ!?)
天馬は特に悪いこともしていないはずなのに、不思議と『詰んだ』と思ってしまった。
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