19.天使のアンケート

 早朝の公園。まだ誰もいないバスケットコートにボールの音が響く。


 ドン、トントントントン……


「ふぅ」


 汗だくになった天馬がコートに落ちたボールを拾う。スリーポイントシュートの練習を始めて随分と時間が経ったが、当初よりはマシになったもののとても現役バスケ選手と戦えるほどではない。



(暑い……)


 すっかり夏になり流れ落ちる汗の量も半端ない。夜と早朝の練習。体は慣れてきたが、ここ最近の蒸し暑さはかなり堪える。




「あれ、また来てんすね」


 そこへ大学生のグループがやって来てひとり練習する天馬の姿を見て言う。彼らの練習は週に数回。行くと必ずいる天馬を見て茶髪の大学生が言う。


「それにしても下手くそだよな」


「ほんとそれ。センスがないってああいうのを言うんだよな」


 そうって笑いながら昨晩遊んだ女の話を始める。



「うるせえよ、お前ら!」


 それを聞いたメッシュヘアの大学生、瀬古せこ隼人はやとが睨みつけて言う。


「おっさん、下手かもしれねえけど、めっちゃ一生懸命やってんだろ? お前らこそまじめにやれよ」


「す、すんやせん。隼人さん……」


 学生達が頭を下げてから練習を始める。隼人がボールを持って汗だくで練習している天馬の方へと歩き出す。



「おはようございます」


「え? あ、ああ。おはよう……」


 声を掛けられた天馬が驚いて振り返る。それは良く見かける大学生のグループのひとり、マッシュヘアの似合う長身の男の子。


(お、俺とは真逆のタイプ。苦手かも……)


 天馬を陰キャとすれば、まさに今どきの若者を象徴するような陽キャっぽい隼人。背が高く中々のイケメンでもある。天馬が言う。


「あ、ごめん。邪魔だった? 今、退くよ」


 そう言って端のコートへ移動しようとする天馬に隼人が言う。


「あ、いいっす。それより、バスケ好きなんすか?」


「え? あ、うん。好きと言うかちょっと頑張らなきゃならなくなって……」


「頑張る?」


 そう口にする隼人に天馬が言う。


「うん。大切な人が喜んでくれる。その子に、褒めてもらいたくてね……」


 やや恥ずかしそうにそう答える天馬。隼人は小さく頷き、トントンとボールをコートについてから尋ねる。



「あの、もし俺で良ければ教えますよ。バスケ」


 天馬は驚いた。そしてここから架純と夏祭りで踊る為の大きな階段を駆け足で上がることになる。






「次、柊木ひいらぎさん。入って」


「はい」


 架純の高校。今日は午後から進路相談が行われている。高校三年の架純も当然ながら卒業の進路を決めなくてはならない。担任が座る椅子の前に、架純が軽く会釈してから椅子に腰かける。担任が尋ねる。



「柊木さんの進路希望は決まった?」


「あの、どこかで働きたいと思って……」


 架純に母親との会話が蘇る。母親の裕子は自分の生活を邪魔されたくないがゆえに、卒業後は架純にどこかでひとり暮らしをするように指示していた。つまり就職。高校生の架純にとってはそれに従うほかなかった。担任が言う。



「そうなの? う~ん、柊木さんの成績なら十分大学に行けると思うけどな。興味はないの?」


「いえ、興味はありますけど、うち、あまりお金がなくて……」


 担任が明るい顔をして言う。


「それじゃあ特別推薦で行ける大学なんてどう?」


「特別推薦?」


「そう。学費が四年間無料になるの。柊木さんの成績なら難しくないわよ」


 学校でも成績優秀の架純。母子家庭で育ち、将来はお金に困りたくないと幼い頃から勉強は必死に頑張って来た。だが大きくなると現実の厳しさに気付く。お金がないと何もできなのだと。


「でも……」


 学費は無料だが、四年間で生きなければならない。教科書代や毎日の食事、部屋だってない。結局は自分ひとりじゃ何もできない。だが架純が気付く。



 ――でも、誰かと一緒になれば


 母親の代わりに自分を支え、守ってくれる誰かが居れば。架純の脳裏に浮かぶ彼の顔。だがそんな我儘ばかり言っていていいのだろうか。そうでなくても彼には大変な迷惑を掛けるつもり。悩む架純に担任が言う。


「まだ時間はあるわ。どうしても就職するって言うならいいんだけど、大学も考えてみてね。簡単な面接だけで受かるから」


「はい……」


 架純は担任に頭を下げて教室を出る。



(大学か……、本当は行きたいな……)


 将来の夢はある。それには大学を出る必要がある。とは言えそこへ辿り着くには幾つもの障壁があるのも確か。架純が廊下を歩きながらつぶやく。


「天馬さんと一緒になれば、そのほとんどの障壁がなくなるわよね」


 母親とは別の青写真を描く架純。その顔は『天使のような悪魔ちゃん』になっていた。






「あ、架純ちゃん!」


「天馬さん!!」


 最近ほとんど残業をしなくなった天馬。主要な仕事を外されたことがその大きな要因だが、お陰で定時でまだ明るいうちに帰宅できる。駅の改札。事前に連絡を取り合っていた架純が笑顔で天馬を迎える。


(今日も可愛いなあ。架純ちゃん、マジ天使)


 周りの目もあり高校の制服姿はできれば避けて欲しいのだが、彼女の笑顔を見るとそんな気持ちもどこかへ吹き飛んでしまう。改札を抜けた天馬の腕に、当然のように手を絡めて来る架純。まだ慣れないそのスキンシップに戸惑いながら天馬が尋ねる。


「今日はどうしたの?」


 今日の約束は架純からの申し出。『会いたい』と。


「うん。天馬さんにちょっとお願いしたいことがあって」


「お願い?」


 一瞬架純の『小悪魔』を感じ取った天馬が構える。架純が言う。


「簡単なアンケートだよ。変なことしないから大丈夫」


 架純自身に、自分をからかうことについて『変なこと』と言う自覚があったことに天馬が苦笑する。


「そうなの? じゃあ夕飯はどこかで食べてく?」


「いいんですか?」


「いいよ」


 架純は笑顔でそれに応え、ふたりは近くのファミレスに入った。




「それで、アンケートってなに?」


 注文を終え、料理が運ばれてくるのを待ちながら天馬が尋ねる。架純が鞄の中から一枚の紙とペンを取り出し、真剣な顔で天馬に尋ねる。


「高校の授業で社会人の人にアンケートを取るって課題が出たんです。それで天馬さんに協力して欲しいなあって思って」


「なんだ、そんなことか。全然いいよ」


 架純の罠じゃないことを知り安堵する天馬。また『通報写真』を撮られては堪ったもんじゃない。架純が紙を見ながら天馬に尋ねる。



「じゃあ始めますね。天馬さんは今お幾つですか?」


「ええっと、三十二歳。ごめんね、おっさんで」


「問題ありません」


 表情ひとつ変えずに架純が尋ねる。



「お仕事は何ですか?」


「一応商社。小さいけど」


「はい。では次の質問。現在、彼女、またはそれに相当する特定の女性は居ますか?」


「は? いや、特にそう言う人はいないけど……」


 一瞬架純の顔がにやりとなる。戸惑う天馬に架純が尋ねる。



「長い黒髪の女性は好きですか?」


「ちょ、ちょっと架純ちゃん?」


 そう口にする天馬にをかき上げながら架純が言う。


「質問に答えてください」


 有無を言わせぬ圧。天馬が小声で答える。


「好き、です……」



「よろしい。では次、年下の女性は好きですか?」


「……はい、問題ないです」


「ひと回り離れていても?」


「向こうが良ければ……」


 架純は大きく頷いて何やら記載する。更に尋ねる。



「料理の上手な女の子は好きですか?」


「ちょっと架純ちゃん。それって本当に高校の課題なの?」


 架純が顔を上げて言う。


「質問はダメです。問い掛けに答えてください」


「ううっ……、そりゃ料理上手は助かるけど……」


「はい。では次の質問。パンツを見たり、ブラや洗濯していない体操服の臭いを嗅いだり、試着室に入って来てビキニ姿の女子高生に抱き着いたりした子に対して、どう思っていますか?」


「ぶーっ!!」


 天馬は思わず飲みかけていた水を吐き出しそうになる。



「か、架純ちゃん……?」


 何か機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか。焦る天馬を架純はじっと見つめる。


「え、ええっと、申し訳ないのと同時に、か、可愛いと思ってるよ……」


 最後は消え入りそうな小声でそう言う天馬に架純が顔を近づけて言う。


「最後、聞こえなかったです。もう一度」


「か、可愛いと思ってます!」


 小さな声。それでも先程よりはしっかりとした声。架純は椅子に座り直して言う。


「はい。よくできました。アンケートは以上です」


「架純ちゃん? それって一体……」



「スパゲッティ、お待たせしました!」


 そこへファミレスの店員が料理を持って現れる。架純が手を上げて言う。


「はーい、私です!!」


 そう言ってスパゲッティを受け取る架純。そして皿をテーブルに置いて天馬に尋ねる。



「天馬さん、この先もずーっと、ずーっと、ずっとずっとこうやって一緒にご飯を食べてくれますか?」


「え? あ、うん、いいけど……、ねえ、架純ちゃん、それもアンケートなの?」


 架純が嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに答える。



「これは、架純のお願いです」


 結局、そう微笑む『天使ちゃん』の前に、天馬は自分のどんな抵抗も無力なのだと改めて思い知らされる。それぐらい架純の存在は天馬の中で大きく、大切なものへと成長していた。

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