10.天使の部屋で朝食を。

(……あれ?)


 目が覚めた天馬は何かがいつもと違うこと、全身に痛みがあることに気付いた。


(!!)


 玄関。目に映るのは知らない玄関。

 そして頭には柔らかい太腿。目を閉じて眠る『女子高生』柊木ひいらぎ架純かすみの太腿。天馬は大声を出しそうになるのを我慢してそっと起き上る。



(俺、昨日酔って、柊木さんとここに……)


 記憶は意外なほどはっきりしている。疲れと睡魔と酔い。精神的な痛みも大きかったのだろう、あり得ないことだがに介抱されて眠ってしまったようだ。



(やべえことした……)


 玄関に座り壁にもたれて眠る架純を見ながら天馬が顔を青くする。多分何もしていないだろうがこの状況は非常にまずい。床で寝たせいで体の痛みは多少あるが、頭はあれだけ飲んだのに二日酔いも全く感じないほど冴えている。



「あっ……」


 どうしていいか分からず固まっていた天馬の目に、顔を上げて目を覚ます架純の顔が映る。もう何も言い逃れできない。天馬が言う。



「お、おはよ……」


 目をこすり小さくあくびをした架純が答える。


「おはようございます……」


(怒っていない……?)


 ひとまずいつも通りの架純を見て胸をなでおろす天馬。だがすぐに床に両手をつき深く頭を下げて言う。



「ごめんなさい!!」


「え?」


 突然の土下座に驚く架純。天馬が続ける。



「俺、多分酔っちゃって、その、柊木さんに迷惑を掛けちゃったと思うんで……」


「そんなことないですって。私が天馬さんをここに連れて来て……」


言うこと聞くんで、ごめんなさい!!」


 とにかく謝らなきゃ。その一心で口から出た言葉に、架純がすかさず反応する。



「本当に……?」


「はい……」


 頭を床に付けたまま天馬が答える。


「じゃあ、ちょっとそのままで……」


(??)


 意味が分からない天馬。だがすぐに聞こえて来た『シャッター音』を聞いて顔を上げる。



「げっ……」


 そこには土下座をする自分と彼女自身が映るようにスマホを手にする架純の姿。やられた。そう思った天馬だが時すでに遅し。架純が自分に向かって撮ったばかりの写真を見せながら言う。


「天馬さんの弱点、またゲットだぜ~」


 その写真は、何か酷いことを女子高生にしてしまい必死に土下座する自分。他者が見たら間違いなくそう映るだろう。半ば諦めに近い顔で天馬が架純に言う。



「柊木さん、もう本当にそれ勘弁してよ……」


 黒髪をかき上げ、寝起きの顔の架純がじっと天馬を見つめて言う。


「天馬さん、さっき何でも言うことを聞くって言いましたよね?」


「え? あ、ああ。言ったけど……」


 もはや嫌な予感しかしない天馬。架純が言う。



「じゃあ、とりあえずその『柊木さん』ってのを止めましょうか」


「え? どういうこと?」


 意味が分からない天馬が尋ね返す。架純が言う。


「私、その苗字あまり好きじゃないんです。だから私のことは『架純』って呼んでください」


「え、でも……」


 戸惑う天馬に架純が言う。


「何でも言うこと聞くんですよね?」


「……はい」


 もはや目の前の女子高生には逆らえない。架純が言う。



「じゃあ、言って見てください」


 少し時間を置いてから観念したかのように天馬が言う。



「……か、架純


 腕を組みそれを聞いていた架純が頬を膨らませて言う。


「ダメ。それじゃあ、なんか距離があります。他の」


 困った天馬が眉間に皺をよせながら考え、そして言う。



「か、架純……」


 首を左右に振りながら架純が言う。


「私は偉い人なんですか?? やり直し」


 遠からず外れてはいないだろう。弱みを握られていて逆らえないし。呼び捨ても無理。となればもうあれしかない。



「か、架純ちゃ、ん……」


 最後は消え入りそうな声でそう話すと、架純はようやく笑顔になって言った。


「はい! 天馬さん」


 ようやく戻った天使の笑顔。いや、もしかしたらそれは悪魔の笑顔だったのかもしれない。だが今の天馬にはそんな事はどうでも良かった。すごく迷惑を掛けた。ただそれ以上に、


 ――ありがとう


 あれだけ疲れて気が滅入っていたのに、今こうして彼女と会話していると不思議と元気が出て来る。これだけ色々されているのになんだろう、一緒に居ると癒される。架純が立ち上がり天馬に言う。



「よかったら一緒に朝ごはん食べて行きませんか?」


「え? でも……」


 そう戸惑う天馬の手を掴んで架純が言う。


「何でも言うこと聞くんでしょ? さ、一緒に食べましょ」


「うん……」


 自分は彼女には逆らえない。マイペースなのか何だかよく分からない架純。だがそんな彼女の突拍子もない行動も決して嫌ではなかった。




(質素な部屋だな……)


 同じワンルームの部屋。簡易的なキッチンがある程度の間取りだが、天馬が思っていた以上に物がない。生活感が薄いというか、参考書がたくさんあるぐらいで部屋にも女の子らしいものはほとんどない。元々一人暮らし用の部屋。ここに母親と一緒では狭いだろうと思っていたが、なるほどまさにその通りである。


「天馬さ~ん、何じろじろ見てるんですか~??」


 部屋の中をじっと見ていた天馬に架純が後ろから近付いて言う。


「うわっ! ご、ごめん!!」


 仮にもここは女子高生の部屋。おっさんが色々見ていいはずがない。下を向いて俯く天馬に架純が言う。


「クスクス、冗談ですよ! さ、部屋に入って座ってください」


「うん……」


 部屋には簡易的なベッドと中央に小さな丸いテーブル。ピンク色なのが辛うじて女の子っぽいところだろうか。キッチンから顔を出した架純が、髪を後ろで縛りながら尋ねる。



「天馬さん、パンとコーヒーしかないですけど、いいですか?」


「あ、うん! もちろんだよ!! ごめんね」


「なんで謝るんですか。いいから座っていてくださいね」


「うん」


 そう言って朝食の準備を始める架純。その姿はまるで新妻。ちょっと若すぎるけどまるで新婚生活のよう。



(ああ、なんだこれ……、こんなおっさんが、いいのかよ……)


 多分夢なんだと思う。女子高生の部屋に来て一緒に朝ご飯を食べる。多分価値的にはこれだけで数万円払わなきゃならない貴重な経験。



「はい、できましたよ~」


 コーヒーとパンの焼ける香ばしい香りが部屋に漂う。焼いたトーストにバターとジャム。簡単なものだが小さなテーブルに架純と向かい合わせで座ると、それだけで幸福度が爆発的に上がる。架純が申し訳ない顔で言う。



「ごめんなさい。こんな物しかなくて……」


「ううん。全然いいよ! ありがとう!!」


 そう言ってふたり一緒にパンを齧る。

 幸せ。おっさんなんかが感じちゃいけない女子高生とのこんな幸せ。だから知りたい。架純が自分に近付く理由。『助けて』と口にした理由。コーヒーをひと口飲んだ天馬が架純に言う。



「あのさ、……」


 それを聞いた架純がむっとした表情になる。すぐに間違いに気付いた天馬が頭に手をやり言い直す。


「あ、ごめん。その、架純ちゃん……」


「よろしい」


 頷く架純。天馬が言う。



「あのね、どうしてこんなおっさんの俺に……」


 そこまで言った天馬の言葉を塞ぐように架純が言う。



「ねえ、天馬さん。今度の休みの日に買い物に付き合って欲しいんですけど、いいかな?」


「買い物? 何を買うの??」


 架純が黒髪を耳に指で掛けながら答える。



「水着」


(!!)


 それまでの天馬の思考、考察がすべて吹き飛ぶ。

 白い肌を紅潮させてそう恥ずかしそうに口にした架純。やはり彼女は天馬なんかが敵わない、ずっと上を行く悪魔のような天使ちゃんであった。

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