7.ありがとう、天馬さん。

 ガチャガチャ…… 


 まだ静寂広まる早朝六時半。

 朝の支度をしていた架純は、突然アパートのドアから解錠する音に気付き身構える。



 ガチャ、ガチャ、ガチャン……


 解錠され、ドアが開かれる音が響く。

 誰かが玄関から上がってくる音が聞こえる。緊張する架純。ここに来る人物はひとりしかいない。



「お母さん……」


「ふん……」


 部屋に現れた不満そうな表情を浮かべた若い女性。それは架純の母、金色の長髪が美しい柊木ひいらぎ裕子ゆうこであった。

 架純は早朝現れた母親の裕子の顔をやや緊張して見つめる。長い金色の髪、大きく開いた胸元に派手な服。ツンとした煙草の臭いにアルコール臭。高校生の娘がいるとは思えないほど若くて綺麗な母親だが、架純の表情は依然硬い。

 裕子はじっと自分を見つめる娘の視線に気付き言う。


「なに? 何か言いたいことでもあるわけ?」


「あ、ううん。何もないけど……」


 架純がすぐに目を逸らし、床を見つめる。

 裕子がテーブルの上に置かれた食べかけのステーキ弁当に気付きまじまじと見つめる。昨晩、天馬に買って貰った弁当だが、多過ぎて半分ほどまた食べずに置いたままにしてあったものだ。裕子が言う。


「へえー、こんないいモン食ってんだ。なに? 便利なでもできた?」


 架純が首を左右に振って答える。


「違うよ。違う……」


 自分にとって天馬はそんな人じゃない。否定する娘を横目で見ながら、裕子は大きなボストンバックに入れた大量の服を取り出し架純に言う。



「これ、今週の分ね。洗濯よろしく」


「うん……」


 週に一度ほどこの部屋に戻って来て自分の服を架純に洗濯させる。夜の仕事をしている裕子は朝夜逆の生活をしており、ほとんどこの部屋にはいない。今は客としてきた若い男の部屋で半同棲生活を送っている。

 バックから取り出した煙草に火をつけながら裕子が言う。



「これ、今月の分」


「ありがとう……」


 机の上に置かれた数枚のお札。これでほぼひとり暮らしをしている架純は、家賃以外のすべてをこれでやりくりしなければならない。



(少ない……)


 ただそのお札を目にした架純はすぐに思った。毎月の金額よりも少ない。じっとお札を見つめる架純に裕子が煙草の煙を吐きながら言う。


「なに? 不満でもあるの?」


「ううん……」


 小さく首を振る架純だが、裕子は更に辛い言葉を続ける。


「こんないいモン、食ってるなら十分でしょ? これでも多いぐらいだわ」


「……」


 今年三十五歳になる裕子は、年下の男の気を引くために稼ぎの多くを彼に貢いでいる。それなりの給料を稼いでいる裕子だが、だと感じている架純に対しては自然と冷たく当たってしまう。

 煙草をキッチンのシンクに捨てた裕子が、金色の髪をかき上げながら玄関へ向かい言う。


「じゃあね」


「……」


 見送ることもなく黙り込む架純。そんな彼女にハイヒールを履きながら裕子が小声で言う。



「……ほんと生まなきゃよかった」


 バタン……


 小さなひと言。

 閉じられたドアを見ながら架純が両手で顔覆い、その場に崩れるように座り込む。



「ううっ、うっ……」


 我慢しても溢れてくる涙。声を上げて泣いたら天馬に聞こえるかもしれない。架純はそのまま布団に潜り込み声を殺して涙を流した。





 ガチャ……


「あっ」


 同時刻、会社に行くために部屋を出た天馬は、その滅多に会わない隣人の姿を見て思わず声が出た。綺麗な金色の長髪。朝なのに胸元が開いた大人の服装。天馬が反射的に頭を下げて挨拶する。


「おはようございます……」


 架純の母親であろう。見た印象から年齢的にはそんなに変わらないようだが、男を魅了する美しさはさすが。架純の母親というのも頷ける。裕子が人懐っこい笑顔で軽く会釈して言う。


「おはようございます」


 隣人などにあまり興味のなかった天馬がやや緊張する。面倒な近所付き合い。だが今は事情が少し違う。裕子は去り際にもう一度だけ会釈して笑顔のまま階段を降り、待たせてあったタクシーに乗って消えて行った。



(なんか変な緊張したな……)


 何も悪いことはしていない。だけど得体のしれぬ罪悪感が天馬を襲う。


「あ、会社行かなきゃ」


 時計を見た天馬が急ぎ階段の方へと向かおうとすると、背後から擦れたような女の声が掛けられた。



『……行かないで』


「え?」


 声を聞き振り返る天馬。



「……」


 誰もいない。

 そんなはずはない。確かに聞こえたどこか聞き覚えのある声。一瞬架純の悪戯かと思ったが彼女の部屋のドアはしっかり閉じられている。



(空耳……?)


 会社に遅刻すると思い歩き出そうとした天馬の足が、なぜか鉛のように重く感じる。天馬が顔を上げゆっくりとそのドアを見つめた。





 ガチャ……


「あっ」


 その三十分ほど後、学校へ行くためにドアを開けた架純は、目の前の廊下の柵にもたれ掛かっている天馬の姿を見て思わず声を出した。


「天馬さん!?」


「おはよ……」


 ドアの鍵を閉め架純が近寄って尋ねる。


「どうしたんですか? 会社は?」


「うーん、遅刻かな」


 意味が分からない架純。天馬が笑って言う。



「確か一緒の駅でしょ? その、良かったら途中まで一緒に行かないかなあって思って」


「はい!」


 架純はにっこり笑って昨晩同様天馬の腕に手を絡める。


「ひゃっ!?」


 サラリーマン姿の天馬に、スカートの短い制服姿の架純。朝からこのふたりが腕を組んで駅に向かうのはさすがに不自然だ。天馬が逃げるように離れようとして言う。



「ちょ、ちょっと今、これはマズいんじゃ……」


 頬をぷっと膨らませた架純が天馬を見上げながら言う。


「架純と一緒じゃ嫌なんですか?」


(ぐおおおおおおお!!!)


 可愛い。目に入れても痛くないほど可愛い。だがこの組み合わせは間違いなく変な疑いを掛けられる。検挙案件。



「つ、通報されたら困るから……」


「訳の分からないこと言ってないで、さ、行きましょ!」


 戸惑う天馬の腕を無理やり引っ張り歩き出す架純。彼女が思う。



(ありがとう、天馬さん……)


 架純は逃げようとする天馬の腕を引っ張り笑いながら駅へと向かった。

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