4.天使、時々悪魔。

 バタン……


「ふう……」


 自分の部屋に戻って来た柊木ひいらぎ架純かすみはドアにもたれ掛かり大きく息を吐いた。



「また天馬さんとお話しちゃった!」


 頬が赤くなっているのを感じるが、それは夜の冷たい風のせいではない。ひとりになって分かる心臓の鼓動。か嬉しさなのか、手先も冷たくなっている。


「これ、食べなきゃね」


 天馬に買って貰ったのり弁をテーブルの上に置き、同時に卓上カレンダーを手に取る。そのカレンダーは三月。しかもの三月である。架純はそのカレンダーの中で赤丸が付けられた日にちを指でなぞり思う。



(時間は待ってくれない。少しでも天馬さんに……)


 架純は急に体を襲った震えに身をすくめ、瞳から零れ落ちそうになった涙を拭う。


(大丈夫、絶対大丈夫だから……)


 自分で自分を抱きしめ、架純は何度もそう頭の中でつぶやいた。






「ふわ~あ……」


 日曜の朝。すっかり日が昇ってから目が覚めた天馬がベッドの上で体を伸ばす。テーブルの上には飲みかけのビールの缶とつまみ。床には脱いだままの服。自堕落な独身男のテンプレの様な部屋である。



「いい天気だな、洗濯しなきゃ……」


 平日は帰宅が遅くなることもあって、週末に纏めて洗濯することが多い。家事がほとんどできない天馬であっても、全自動洗濯機のお陰で洗濯だけは問題なしにこなせる。

 カーテンの隙間から差す眩しい光。天馬はベッドから起き上がるとカーテンを開け青い空を見て言う。



「ほんといい天気だ」


 隣に住む架純は何をしているんだろう。仕事が忙しく毎日会うことはないけど、彼女の綺麗な黒髪や白い足、魅力的な唇にと少し気を許せばすぐに天馬の頭を彼女が占める。


(隣にいるんだよな……)


 そう思いながら開けたベランダのドア。瞬間、天馬が固まる。



(え?)


 狭いベランダ。物干しざおや室外機があるだけの無機質な空間の床に、はまばゆい光を放ちながら存在を誇示するよう落ちていた。



(ブ、ブラが落ちてるぅううう!? ええーーーーーっ!!??)


 女性の下着であるブラジャーがベランダの床に落ちている。真っ白なブラ。真ん中に小さなリボンがついた可愛らしいもの。固まったままの天馬が状況を考える。



(ありえん、ありえん、ありえないだろ!? 風で飛んできた? 酔った俺がどこからか盗んできた!? 下着泥棒が落として行った!!??)


 どれを考えても起り得ないこと。何をどう理由を考えてもここにそれがあること自体非日常である。



(と、とりあえず拾うか。持ち主に返さなきゃ、名前とか書いてあるのかな……?)


 二階建てのアパートなので上から落ちてくるはずはない。となると考えられるのはただひとつ。風で飛ばされて来たのだろう。天馬は震える手でゆっくりと落ちているブラをそっと持ち上げる。


(意外と固いんだな……、もっとふにゃふにゃかと思っていた……)


 生まれて初めてであろうその触感。アニメの中やショッピングセンターの下着売り場などで見かけたことはあっても触れるのは初めて。そして持ち主の名前がないかを探す。



(ええっと……)


 普通で考えれば子供じゃあるまいしブラに名前を書く女性などいないだろう。だが人生初めての『訪問者』に完全にのぼせ上っていた天馬にそんな冷静に考える頭はなかった。そしてある意味奇跡が起こる。



「あ、あった!!」


 驚くべきことに名前が記載されていた。ブラのひもの部分に小さく『かすみ』と書かれている。



(かすみ……? あ、やっぱり隣の柊木さんのだ……)


 興奮した頭でもその可能性しかないと思っていた。風で飛ばされたのかまだ確証はないが、隣のベランダから来たに違いない。


(か、返さなきゃ……)


 ブラを手に持ち部屋へと戻る天馬。そして興奮状態であった為か、こっそり伸びて来ていたの存在には気付かない。



(これが柊木さんの……、女子高生の……)


 部屋を歩きながら天馬は体が燃えるような興奮に襲われていた。故意ではない。事故だ。だが現実に彼女のブラが自分の手の中にある。急に吹き出す汗。手の感覚も無くなるような発汗を感じ、慌てて洗面台にある新しいタオルを掴んでその上にブラを乗せる。



(これ以上、直に触って汗でも付けたら大変だ……)


 だが異常な程興奮してしまった天馬には既に冷静な判断はできない。タオルに乗せられたブラ。『女子高生』柊木架純の下着。天馬の中で何かが音を立てて切れた。



(いい匂い……)


 思わず匂いを嗅いでしまった。

 止められない。触れない程度に鼻を近づけ息を吸い込む。甘い匂いではなく、スーッとした洗剤か何かの匂いだったが、天馬の脳は爆発するほどぶっ壊れそうになっていた。


「犯罪だよな、これ……」


 落とし物の匂いを嗅ぐ。これが検挙案件になるのか分からないが、女子高生の下着である時点で変態案件で検挙だろう。そう思うと急に怖くなってきて別の意味で汗が噴き出す。



(は、早く返さなきゃ……)


 天馬はこの下着が自分の部屋に長く存在するだけ罪の重さが増していくような錯覚を覚えた。もはや冷静な判断はできない。いい年したおっさんが寝巻きのまま部屋を出て、隣のドアのチャイムを鳴らす。



「はーい」


 すぐに中から返ってくる返事。架純の声だ。天馬は折り畳んだタオルの中にあるそれを見つめ、自分に『大丈夫大丈夫』と何度も言い聞かす。


 ガチャ……


 開けられるドア。そこに春物のスエットを着て、長い黒髪を後ろでひとつに結んだ架純が現れた。



(可愛い……)


 制服ではあまり目立たなかった架純の大きな胸が、薄い部屋着のお陰ではっきりと分かる。爆破され少しずつ修復していた天馬の脳が再び音を立てて崩れ始める。そんなよこしまな考えを持つ天馬に、架純はまるで天使のような笑顔と声で言う。



「あ、天馬さん! おはようございます!!」


 人生のすべてを捨ててもいいと思えるほどの笑顔。こんな掛け替えのない景色を造り出せる彼女に天馬はしばらく見惚れる。少し首を傾げた架純が尋ねる。


「あの、どうしましたか? まさか私に見惚れちゃったとか……??」


 そう微笑む彼女はまさに天使そのものだった。我に返った天馬が言う。



「あ、いや、あのさ。こ、これがうちのベランダに落ちていて……、柊木さんのじゃないかと思って……」


 そう言ってゆっくりと畳んだタオルを広げ中にあったブラを架純に見せる。



「あっ」


 それを見た架純が手に口を当てて驚いた表情で言う。


「ちょ、ちょっと入って下さい!!」


「ふわっ!?」


 ドアの外に立っていた天馬の腕を掴んで玄関に入れる架純。そして急いでドアを閉め大きく息を吐く。動揺する天馬に架純が言う。



「わ、私のです!! どうして……」


 タオルに挟んでいたブラを架純が取り、体の後ろに隠して真っ赤な顔をして俯く。天馬が慌てて言う。


「いや、違うんだ。朝起きたらベランダに落ちてて、見たら名前が書いてあって……」


 春だと言うのに全身汗だくになる天馬。俯き黙る架純。大変なことになった、と目の前が真っ白になった天馬に、架純が少し顔を上げ小悪魔のような笑みを浮かべて尋ねる。



「匂い、嗅ぎました……?」


(ぎゃあああああああ!?)


 天馬の中で何かが音を立てて崩れて行く。なぜ知っている!? なぜバレた!? 変態検挙案件。平凡で普通の人生を送って来た自分が犯罪者になる未来。返事をしない天馬に架純が言う。



「嗅いだんですね? もお、男の人ってほんと仕方ないですね」


 そう微笑む架純の顔はまだ天使のように可愛かった。だが彼女がスマホをポケットから取り出し、そこに映っていた写真を見せられた瞬間、その笑顔が全く別のものに変わった。



「良く撮れているでしょ~?」


「えっ、え、なんで……」


 それはベランダで架純のブラを拾い上げている自分の姿。いつの間に撮られたのか知らないが『犯罪者』のレッテルを張るには申し分ない証拠写真。天馬が何か言おうとするより先に架純が言う。



「天馬さんの弱点、み~っけ!」


 この時でようやく気付いた。全て嵌められていたことを。

 天使、時々悪魔。それでもにこにこと笑う彼女の笑顔が天使ではなく悪魔のように見えてもなお可愛いと思ってしまう天馬は、後にもうこの頃から自分の敗北は確定していたのだろうと思わざるを得なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る