普通を求めたお嬢様のたった一度の非行

かかみ かろ

普通を求めたお嬢様のたった一度の非行

「お前の婚約者が決まった。異論は無いな」


 品の良い調度で飾られた一室に響いたのは、四十路を数える男の淡々とした声。綺麗に染められた黒髪はきっちりと整えられており、鋭い眼光が適度な明るさを保たれた部屋の明かりを遮る。未だに老いの見えないその身に纏う濃茶のスーツは、襟首から袖口まで寸分違わないサイズで、誰の目にも明らかな高級感が漂っていた。


「はい、お父様」


 同じく何の感情も感じさせない、しかし凛とした声が返す。その声の主を見れば、万人が万人、納得と共に魅了されてしまうだろう。それ程の美貌。

 けれど今、その顔に張り付けられているのは無機質で能面のような表情。唯一、思慮深さの窺える切長の目の上で長い睫毛が揺れ、その心の内を映していた。

 ただ一人彼女の内心を見てとれた男は、無言で手元の書類に視線を戻す。


「失礼します」


 世間一般の父娘とはかけ離れたやり取りだった。

 

 父親の秘書が社長室の扉を閉めるのを確認すると、彼女、峰宮麗華(みねみやれいか)は小さく溜め息を吐く。有無を言わせない父、貴男(たかお)の物言いに不満があった訳ではない。麗華の十九年の人生において彼はずっとそうだったのだ。今更だ。ただ、彼女の人生の大半を男手一つで育てた実の父が相手であっても、いや、だからこそ緊張してしまう。

 殆ど足音の鳴らない廊下を歩きながら彼女がふと左手を見れば、大きな窓の下に東京都心の街が広がっている。動き回る小さな点は、その他大勢で数えられてしまうような人々。『特別』に生まれ『特別』に育った麗華とは、異なる世界に生きる人々だ。

 ―― そういえば名前も顔も分からないままね。


 視界の端に大きな看板の中で笑みを浮かべる彼女自身の顔が見えて、思い出した。けれどそれっきり気にした様子もなく、また前を向く。

 誰もが認める『特別』。その彼女の行く末が決まったのは、よく晴れた秋も終わろうかという日のことだった。


 数日が経った。穏やかな日の光に照らされて道を往く人々は薄手のコートを羽織っており、中にはダウンジャケットを着ているような気の早い者もいる。週末だからか、スーツ姿の人間は稀だ。

 麗華は車の窓越しにそんな人々をぼんやり眺めながら、専属の運転手が運転する車に揺られていた。


「麗華様、今夜の会食の予定ですが、大塚(おおつか)様が体調を崩されたとのことでキャンセルになりました」


 秘書兼マネージャーの女性が、助手席から告げる。今現在向かっているドラマの撮影現場でディレクターを務める男の名だ。主演女優の座を容姿と類稀な演技力によって勝ち取った彼女だが、無下には出来ない。しかし楽しい相手ではない。そんな、麗華にとって決して望ましくない会食ではあったが、中止になってもまた別の日に再度予定を組まれるだけだ。彼女自身よく分かっている話であったから、ただ「そう」とだけ返した。


「代わりに御門啓介(みかどけいすけ)様との会食となります」

「……誰だったかしら?」


 聞き覚えの無い名前だった。女優として、また世界的な大企業の社長令嬢として人の名前と顔を覚えることは得意な彼女だが、いくら記憶を掘り起こしても見つからない。御門という姓のみに関しては心当たりがあったが、知っている顔は父と近い年齢でライバル企業のCEOを務める男くらいだ。


「麗華様の婚約者様です。本日自宅に資料を届けると聞いていますので、会食前にご確認ください」

「分かったわ」


 あまり乱暴な人で無いと良いのだけれど、と心の中で呟く。仮にそうであっても、麗華には結婚以外の選択肢がないのだから。何かあるとしたら、親同士の間で何かあった時だ。

 ――それにしても、御門グループね……。


 彼女自身期待していた訳ではないが、似たような『特別』が相手と知って視線が下がる。両サイドにソファの備え付けられた、揺れの殆どないゆったりした車内であるから、ずっと下を見ていても酔うことはない。ただ、そんな姿を見られては父に怒られてしまうと彼女はすぐに視線を上げ、手元に用意されていたお茶を口に含んだ。


 ドラマの撮影自体は恙無(つつがな)く終了した。ゴールデンタイムに放映されるようなドラマであるから、出演する演者も実力のある者ばかり。話題性重視のキャスティングもあったが、そのアイドルは多くの人にとって幸いなことに演技にも定評があった。強いて言えば、撮影現場にあった落書きをどうするかで一悶着したくらいで、それも五分と掛からず解決している。


 夕方、秘書の開けた扉から麗華が自宅に入ると、自室には既に会食に着ていくドレスが用意されていた。秘書の手伝いを受けながら深紅のカジュアルドレスを纏い、ドレッサーの前で化粧を直してもらう。ドレッサーの台上には、これから顔を合わせる婚約者の資料が置いてあった。

 ――ふーん、顔はそれなりに整ってるのね。母親の血かしら?


 顔見知りの御門グループ会長の顔を思い出しながら考える。麗華で無くても見目麗しいと評すには難い男だったと記憶していた。

 ―― 23歳、オックスフォードの経済学部卒、既にグループの一企業で社長を務めている。経営成績も良い。分かりやすい程に優秀。


 表には出していないが、麗華は歳の近い相手に安堵していた。跡取りを求められている事は分かっている。麗華だって相手が誰でも大丈夫というわけではない。余りに歳上では世間一般の印象が良くないとは言え、一回り程度は覚悟していた。


「間も無く御門様が迎えにいらっしゃいます」


 ドアをノックする音の後、使用人の女性の声が聞こえた。彼女専属の使用人だ。


「あちらの希望?」


 父や御門の会長が指示するとは思えなかった。


「はい。御門啓介様たっての希望です」

「そう」


 そういう男は前にもいたが、これまでは貴男の指示で断られていた。

 ――一応は婚約者ってことね。


 次に使用人が麗華の部屋を訪れたのは、五分後だった。啓介が見えたと言う彼女に連れられて玄関を出る。彼は、本来なら家族の車以外が入ることの無い庭のポーチで待っていた。


「初めまして、麗華さん。御門啓介です」

「ええ、初めまして。峰宮麗華よ」


 二人は互いに張り付けていると分かる、しかし多くから見れば完璧な笑顔を交わす。赤の華やかなカジュアルドレスに身を包んだ麗華と、紺のタートルネックの上から同系色のジャケットを羽織った啓介。啓介の後ろにある国産の高級車と合わせて、側から見ればそれだけで完成された一枚の絵画のような光景だ。


「立ち話もなんですし、お店へ向かいましょう。乗ってください、どうぞ」

「ええ、ありがとう」


 啓介のエスコートに従って麗華は助手席へ乗り込む。質を重視した高級だと謳っているだけあって、シートの座り心地は普段乗る特注車と遜色ない。啓介は運転席へ回り込み、麗華には意外なことに、教習所で習う通りの手順で車を発進させた。

 ――この人も、『特別』に作り上げられた人間なのかしら……。


 人々の模範たれ。『特別』な存在として、世間一般の注目を集める麗華に貴男が言いつけた言葉だった。


「だいたい十五分くらいで着きます。フレンチはお好きですか?」

「ええ、まあ、それなりに」

「それは良かった」


 にっこりと笑う啓介の運転は丁寧で、麗華には取り繕っている風に見えなかった。夕飯時で交通量も多い時間だが、不安はない安全運転だ。仮にこの場で化粧をすることになっても困りはしないだろうと、彼女はぼんやり考える。


「麗華さんはまだ大学生でしたね。女優業の傍らとなると大変でしょう」

「そうでもないわ。最近はオンラインでの授業も多いし」

「確かに。良い時代になりました」


 心からそう思っている風だ。経営者としてなのか、個人的な理由からなのか、麗華には区別がつかない。


「今の時代、ネットがあれば割となんでも出来る」

「そうかもしれないわね」


 普通の人は。その言葉は口にしない。大抵のことはお金で解決できるので、麗華が困るような事はそう無い。ただ、彼女の立場が許さないだけだ。

 啓介は許されたのだろうかと、麗華は考えながら、また道往く人を眺める。そこにいるのは普通のサラリーマンに、普通の家族。どこにでも居そうな普通の人々。その他大勢で数えられる、大多数の内の一人。

 そうやって、主に啓介の問いに答えている間に二人の乗った車は目的のレストランに到着した。そこは数ヶ月先まで予約で埋まっていることがザラな星付きのレストランで、麗華も何度か利用したことがあった。それは啓介と同様のようで、他に誰も居ない二人きりの個室の中、特別な感動もなく食事を楽しむ。お酒は、運転をしなければいけない啓介は勿論、麗華も彼に合わせて飲まなかった。彼女があまりお酒に強くないことも理由の一つであった。


 コースのチーズの皿が下げられ、デザートを待っている時、啓介が不意に雰囲気を変えて話し始めた。


「実はね、もし今日、貴女のことが気に入らなかったらこの婚約は弟に押し付ける気でいたんだ」

「そう」

「思った通りではあるけど、本当に薄い反応だね」

「私は結婚相手が誰でも構わないもの。ただ峰宮麗華として、役目を果たすだけ」


 麗華はノンアルコールのカクテルで唇を濡らす。


「峰宮は相変わらず徹底している」

「別に私は満足しているわ」


 彼女自身、少し早口になってしまったのを自覚した。


「その割に、貴女が道往く人々を見つめる目は冷え切っていない」


 初対面でズカズカと踏み込んでくる人だと、彼女は思った。不快になってもおかしくない。けれど、彼女の思っていたほど悪い気がしていなかった。

 麗華はまた、甘みの強いカクテルに喉を鳴らす。


「聞かせてくれないか。貴女が羨んでいるものを」

「私が、羨んでいる……?」


 彼女はむしろ、多くの人から羨まれる側の人間だ。特別な存在だ。他でもない父によってそう作られた。自分でもそうあらねばならないと言い聞かせてきた。けれど、今、気づいてしまった。気が付かないようにしてきた、それに。


「そう、ね……」


 いっそ、告白してしまっても良いのではないだろうかと、麗華の心が囁く。どうせ嫌でも夫婦としてやっていかなければならない、一蓮托生の相手だ。

 個室の扉が開き、デザートが運ばれてくる。リリオペの花を模ったケーキだ。麗華はそれを一口だけ、口に運ぶ。


「……私は、その他大勢になりたい。普通になりたい。何にも縛られず、ただ唯一の存在ではない、大多数の中の一になってみたい」


 麗華がそんな事を言ったと知れば、多くの人々が唖然とすることになるだろう。憤る人間もいるだろう。受け入れる人間もいるだろうが、炎上は避けられない。SNSのトレンド欄やネットニュースの見出しを飾るのは間違いない。麗華はそう言う存在だ。

 その麗華の告白に、啓介は「ありがとう」と笑みを浮かべた。


「ただまぁ、率直な事を言わせてもらうと、麗華さんほどのオーラを隠すのは難しい。どれだけセンスのない格好で顔を隠したとしても、きっと麗華さんは目を引いてしまう」

「この場合は、ありがとうと言った方が良いのかしら?」

「はは、ようやく冗談を言ってくれた。それは兎も角だ」


 続きをもったいぶるように、啓介は一般人が耳を疑うような値段のミネラルウォーターを飲んで喉を潤す。それをただ待っている事が出来なくて、麗華も彼に倣った。


「最近、面白い話を耳にした。バンクシーって知っているかい?」

「ええ。今日ちょうど撮影現場でそれらしい落書きが見つかって騒ぎになったわ」


 イメージにそぐわないから消すべきという主張と、バンクシーの作品に見えるから残すべきだという主張がぶつかったのだ。後者の主張をしたスタッフは熱狂的なファンだったようで、かなり熱くなっているのは離れたところで見ていた麗華にもよく分かった。すぐに加工で消すことで落ち着いたので余り影響は出なかったが、麗華としては正直、印象の良くないものとして記憶に残っている。


「なかなかタイムリーだね。顔も名前も性別も、何もわからない正体不明の画家バンクシー。その作品は世界中に点在している訳だが、麗華さんは、その全てを一人の人物が描いたと思うかい?」

「どうでしょうね。偽物が混ざっていてもおかしくは無いと思うけれど」


 気負うことなく答えた彼女の回答に、啓介は我が意を得たりとばかりに、そしてイタズラ小僧のように笑みを浮かべた。この時点で麗華は、彼の言いたい事を何となく察していた。


「そうなんだ。実はね、僕の大学時代の知人が愚痴を溢していたんだよ。軽い気持ちで真似をして描いたら、本物だって騒がれて困ってるって」

「貴方は、私に大学時代の知人になれと言っているの?」

「そういう事。まあ、貴女の求めるその他大勢では無いかもしれないけど、多くの中の一にはなれる」


 麗華がまず心に浮かべたのは、彼の提案そのものへの感想ではない。落書きが違法行為という事実に基づく何かでもない。羨ましいという、たった数文字の感情だった。同じような立場にありながら縛られていない啓介の自由さを、羨んでしまったのだ。提案について考えたのはその後だ。

 本物では無いにも拘らずバンクシーと呼ばれてしまっている集団の一人になる。それは、麗華にとっては甘露の如き囁きだった。


 麗華が考え込んでしまっている間にも会食は進む。運ばれてきたのは紅茶とスコーン。コースの最後の皿だ。彼女には珍しく、それらを食べ終わっても尚結論を出せないでいた。

 

 そして今、彼女は都内某所、自宅から幾分離れたその場所を歩いていた。少し寄り道をすると啓介に連れられてきたのだ。


「ああ、あった。あれだ」

「これがバンクシーの作品?」

「そう言われてるね」


 壁に描かれた鼠の絵。麗華の目には、特別難しい技法を使っているようには見えない。

 ――これを私が描く……。


 彼女は当然、それが違法行為だというのは理解している。建造物等損壊罪や、器物損壊罪などに該当する可能性がある。共に刑法に記された罪だ。もしやるのであれば、絶対にバレてはいけない。


「……帰りましょう」

「了解、お嬢様」


 この日、彼女は寝付けなかった。暗い自室の、ベッドの中。自分のスマホに『バンクシー』の五文字を打ち込んで、出てくる画像をひたすらに眺め続けた。幸いだったのは翌日が休日で、人に会う予定もなかったことだろう。


 ひと月後、麗華と啓介は何度目かの食事の席に着いていた。場所は都内の料亭。卓上には二人分のお猪口と日本酒の入った二合瓶がある。


「それで、気分はどう?」


 啓介はスマホの画面を見せながら麗華に問いかける。画面に映っているのは、『都内にバンクシー、再び』と見出しのつけられた記事だ。


「そうね、案外、なんて事ないわね」


 港から直送された平目の縁側に山葵を乗せながら、麗華は笑みを浮かべる。


「なんて事は無いけれど、悪い気はしないわ」

「それは良かった」


 啓介が手をつけた刺身は、寒鰤だ。それを火にかけた鍋の出汁に潜らせて、口へ運ぶ。


「うん、美味しい」

「母がまだ生きていた頃に三人で来たのよ、ここ。お気に入りよ」

「なるほどね、これは確かに、麗華さんが気に入るのも分かる」


 でしょう? と微笑む姿は年相応のもの。完璧な笑みとは決して言えないような、無邪気なものだ。


「多数の中の一って言っても、あんまり変わらないのね。結局、私は私だった。私が多くの人にとって特別なのは事実だとしか言いようが無いけれど、他の人も、きっとその人自身にとっては自分が特別な一人なのね」

「この流れでその結論になるのも凄いけれどね」

「あらそう?」


 互いの言葉に含みは無い。ただ自然な表情で二人は語らう。


「でも、そうね、もう一つ手に入れたものがあったわ」

「うん?」

「なんだと思う?」


 特別に向けられた特別な、悪戯っぽい笑みに啓介は顔を赤らめ、料理へ視線を向ける。そんな未来の家族の様子が面白くて、麗華は「ふふ」と笑い声を漏らした。


「ん-、ちょっと分からないな」

「あら、じゃあ、秘密よ」


 啓介以外に向けられることの無い笑みが、また一つ。鮮やかな紅に彩られた口元に人差し指を立てて添え、彼女は目を細める。それからお刺身を一切れ、口に運んだ。

 啓介も彼女が口を割る気がないのだと悟って肩を竦め、次の料理に手を伸ばす。今度はどこにデートへ行こうかと問いかける口の端は、柔らかに歪められている。

 

 広くも狭くもない畳の部屋に二人だけ。気兼ねのない、普通の食事風景に麗華はまた、自然と笑みを浮かべた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

普通を求めたお嬢様のたった一度の非行 かかみ かろ @kakamikaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ