第90話:追えなかった者

 ナナが走り去ったあの日以降も、イツキはいつものパチンコ屋"NESSE"に通い続けていた。もちろん、ナナを見かけることは一度もなかった。


 イツキにしてみれば、ナナと知り合う前からこうしてパチンコ屋に1人で通っていたので、少し前の日常に戻っただけである。ただ、やはり大事な存在を失ったという気持ちが大きかった。


「人の気持ちは言葉で伝えないと分からない。」


 大学で尚也に言われた言葉がイツキの頭をよぎる。まさにその通りだ。きっと、そうなんだろう。


 しかし、走り去るナナの背中になんて言葉をかければよかったのか。いまなら、どんな言葉をかけられるだろうか。いまの自分の気持ちはなんと表現できるだろうか。その肝心のところがいまだにわからない。まして、ナナの彼氏でも何でもないパチ友の自分に何かを言う資格があるのだろうか、という迷いもイツキの中にはあった。


 そんなことが気になって、大好きなパチンコにも身が入らない。楽しいはずのパチンコが、ちっとも面白くない。果てには、当たってもイツキのテンションは上がらず、嬉しいはずの出玉が増えるのに比例して虚しさが増えていく気さえし始めた。


 江奈もそんな様子のイツキを後ろから眺めては、「はぁ、これだから設定1は…。」とつぶやくしかなかった。


 イツキは家に帰ってからも、ナナに対してどこで何を伝えるべきかを考えた。悩みがあるだけですぐに眠れなくなるくせに、狭いキッチンでつくるインスタントコーヒーはもう3杯目だった。


 マグカップを片手に、ナナを前にした時に発する言葉をひたすらにシミュレーションするイツキ。


(たまたま、パチンコ屋のトイレを借りたってことにするのはどうですか?)


 いや、嘘は良くない。


(彩乃さんと麻呂さんは、ナナさんの趣味を分かってくれるんじゃないですか?)


 いや、違う。


(もういっそ、彩乃さんと麻呂さんにパチンコの楽しさを教えるのなんてどうですかね?)


 いや、ハードル高いか。


(ぼくや江奈のことは気にしなくて大丈夫です!)


 いやいや、そもそも自分のことを気にされてる前提なんておこがましい…。


 イツキがふと気がつくと、ぼーっとしたまま一点を見つめ、10分も20分も時間だけが過ぎていることもあった。


 小学生の頃の20分休みはとても長く感じられ、20分あれば世界の一つや二つくらいは変えられそうだった。それが、いまでは大切な一人にかける言葉すら出てこない。イツキの中には、舌打ちにすらならないもどかしさや苛立ちだけが募った。


 結局、イツキの1人会議は夜遅くまで開催されていたが、"これだ!"というしっくりくる案は1つも出てこなかった。そして、仮に伝えたい気持ちや発する言葉が決まっても、どこでナナを捕まえるかという問題がイツキをさらに悩ませていた。


 ナナはもうパチンコ屋には来ない。大学にはいるだろうが、連絡先をゲットしに行くチャレンジャーだとみんなに注目される中での会話は気がひける。最寄駅が一緒なので、待ち伏せもできるが、もはやこれじゃストーカーみたいだ。


「多少の痛みなら我慢するから、もういっそ前みたいに石でもぶつけてくれ。」


 ナナと話す機会を欲するあまり、イツキは家の中でひとりぼやいた。


 カーン ) ) ) ) ) )


 もちろん、そんなぼやきは叶うはずもなく、外では何者かがミラーの鉄柱に石をぶつけた音だけが寂しく響いていた。

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