目的
「よお。お疲れさん」
バーの重い扉を開くと影山さんがひらひらと手を振った。流れるように隣に座ってジントニックを注文する。
「どうだった?」
「満足して帰っていきましたよ」
「それは大前提だよ」
「だったら何を聞きたいんですか」
「そりゃオマエ……いや、確かになにを聞きたいんだろう。別にその子の具合とかが聞きたいわけでもないしな。忘れてくれ、社交辞令だ」
影山さんは真面目な人だった。
真面目な人だったからこそ、寝取り師なんて酔狂な職についたのかもしれない。いや、真面目な人が寝取り師なんてやってたまるか。
ジントニックで唇を湿らせ、インターネットでレビューを確認した。
匿名の新着コメントはさっきの女子大生だろう。評価は見るまでもなく最高点だった。
「しかし、レビューシステムとはよく考えたもんだ」
「影山さんが疎いだけですよ。どのラーメン屋もやってます」
「寝取り師とラーメン屋を同列に並べたか今」
「結局口コミが一番の宣伝ですからね。満足した客がレビューを書く。そのレビューで客が集まる。商売の基本です」
「そういうもんか」
逆に言えば、ろくな宣伝もせず本当の口コミだけで寝取り稼業を成り立たせていた影山さんは化け物だ。
しかし、今や影山さんの都市伝説を囁くものはいなくなった。巷で寝取り師と言えばぼくを指す。影山さんは寝取り師の仕事で稼ぐことがめったになくなり、今は数人の女性のところを転々としている。
「影山さんはもうしないんですか、寝取り」
「オレぁもう四十だぜ。それに、こんなにもよくできた弟子がいる。サチたちのお陰で日銭には困らねえ。やる意味がねえよ」
サチというのは、影山さんが絶賛世話になっている女性である。
影山さんがウィスキーを仰いだ。
ペースが速い。
「よくできた弟子、か。影山さん、どうしてあの時、弟子を取ろうって思ったんですか?」
ラブホテルの入り口での一件を思い出す。
「あ? 弟子に志願してきたのはお前だろう」
「でも、断ることはできたはずです。っていうかあの日、すごい嫌そうな顔してたじゃないですか」
影山さんは頭を掻く。長い髪の毛が揺れた。
「まあ、悩んだけど」
そう前置きをして、彼は言葉を続ける。
「恵一、オマエにとって寝取りってなんだ?」
「……」
「オレにとって寝取りは、青春のすべてだった」
「青春」
「十代の頃からどうもオレは人に頼られることが多くてな。色んなヤツの悩みを聞いているうちに、何度もそういう関係になった。確かに最初の方は罪悪感があった。でもオレにはセックスの才能があったらしい。オレと寝たヤツは満足げに帰ることが多かった。女だけじゃなく、男とも寝た。そのうち高校でも大学でも噂が広まって、それが寝取り師の原型だよ」
ジントニックに口をつける。影山さんもつられるようにウィスキーを飲んだ。
「これで食っていこうと決めてからも、根底にある想いだけは忘れたくなかった。それが、オマエに何度も言った絶対ルールだ」
「――男には最大限の絶望を。女には最大限の幸福を」
「ああ。時々金銭の絡まない純粋な寝取りもやったけど、その時も絶対にそのルールだけは逸脱しないことにしていた。その言葉に従って、二十年以上人を寝取ってきた。でもやっぱり思うんだよ」
影山さんは少しだけ寂しそうな顔をする。
「周りのやつはどんどん肩書とか立場を得ていく。仕事で管理職になったヤツ。表現者として一流になったヤツ。子どもと楽しく過ごしているヤツ。でもオレは? オレには何もない。オレには何も残らなかったんだ」
「……」
「だからせめて、寝取りの技術は誰かに継承したい。心のどっかでそう思ったんだろう」
「だからぼくに寝取りのいろはを教えてくれたんですね」
「ああ。だがオマエの人生はオマエのもんだ。もしオマエが今の話を聞いて思うところがあったんなら、こんな稼業は早めに足を洗ったほうがいいぜ」
そう言って、彼はグラスをカラン、と揺らした。
憑き物が落ちたような顔をしていた。ずっと抱えていた思いをようやく吐露できたのだろう。
ぼくは静かに息を吐く。
これで、ようやく目的が果たせる。
影山さんがぼくの方を向いた。
「逆に聞くが、オマエはなんで寝取り師なんかになりたかったんだ?」
ぼくは笑って言った。
「ぼくはね、あなたに復讐するために、寝取り師になったんです」
「――は?」
「覚えてますか。九年前、あなたが寝取った女子高生を」
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