弟子入り

「あ? まだいたのか」

 三時間経ってホテルから出てきた男は、ぼくを訝しげな顔で見た。

 美和さんは三十分ほど前にホテルを出ている。申し訳程度の時間差退出。彼女には声をかけなかった。

「あの――」

 夜の十時のホテル街はそれなりに人通りがある。仲睦まじいカップルが、ホテルの前で対峙するぼくたち二人を不思議そうに見ながら横を通り抜けた。

 ぼくはゆっくりと息を吐いて、言う。

「ぼくを、にしてくれませんか?」

 男の双眸が一瞬だけ大きく見開く。

「オマエ、オレが誰か知ってんのか?」

 その問いかけを無言で肯定すると、男は髪の毛を掻き揚げてから、気怠そうに「来い」と言った。


 男は影山虎治かげやまとらじと名乗った。灯りの下で見る彼は想像よりも老けていて、三十代後半から四十代に見える。今年で二十三歳になるぼくとは、二十年近く離れていてもおかしくなさそうだった。

「名前は?」

似鳥恵一にたどりけいいち。歳は二十三歳」

「十五歳差か。で、オレのことはどこで知ったんだ?」

「ネットの書き込みです。金を払えばどんな女性も魔法のように寝取ってしまう、『寝取り師』がいると。依頼人は、寝取ってほしい女性本人や性癖の歪んだ男性だけじゃなく、対象に恨みがあり浮気の事実を作ろうとする第三者まで色々」

 影山さんは大きくため息をついて、コーヒーを啜った。

「まあ、依頼は基本ネット経由だからそこに不思議はないな。でもどうしてそれがオレだと? そもそも、オマエが美和をホテルに連れ込もうとしたところにオレが通りかかったのはたまたまだったろう」

 ぼくは頷いた。

「美和さんを取られた瞬間は怒りで頭がいっぱいでした。でも、少し経ってあなたが寝取り師なんじゃないかって思ったんです。あそこまで鮮やかに女性を寝取る人は見たことがありませんから。だから、カマをかけてみました」

「……カマ? オマエもしかして」

「はい。ホテルの入り口では、まだあなたが寝取り師である確信はなかった。実を言うと今も決定的な証拠は持っていません。でも、影山さん。あなたが寝取り師なんですよね」

「ふー」

 影山さんは天を仰いだ。長い髪の毛が揺れる。

「まあいい。そうだ、オレが寝取り師だ。で、なんだ? 弟子入りしたいってのはどういう意味だ」

「そのままの意味です」

 ぼくはまっすぐ彼の目を見て言う。

「ぼくは――寝取り師になりたい」

「……ふうん。理由は」

「言えません」

「理由は言わないのに、弟子になりたいと」

「はい」

 目線がぶつかったまま数十秒が経過する。

 先に折れたのは影山さんだった。

「本気だな」

「ええ」

「昔は弟子なんて下らんと思ってたが……この年になると後進を育てたいという気にもなってくる。いいだろう、オマエに寝取りの全てを教えてやる」

 ぼくは机の下で拳を握った。

 彼は指を一本立てて「しかし」と言う。鋭い声。

「二度と、あんな寝取りはするな」

「……あんな?」

「オマエが美和にやった寝取りだ。対象に『嫌』と言わせるなんて言語道断。二度とするな」

「……」

「影山流寝取り術、その根底にある考え方を教えよう」

 影山さんは厳しい顔のまま、言った。

。復唱」

「お……男には最大限の絶望を。女には最大限の幸福を」

「そうだ。ちなみに男や女って言うのは便宜上だ。女から男を寝取ってもいいし、男から男を寝取ってもいい。オマエと寝る相手には、最大限の幸福を提供しろ。そして取られる人間には最大限の絶望を与えろ。これを満たせない寝取りは、カスだ」


 こうして、ぼくは影山さんに師事することとなった。


 男には最大限の絶望を。女には最大限の幸福を。

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