サビ
小宵は目を開けると同時に、さっきまで見ていた夢の内容を忘れた。にしても、やたら早起きしてしまった…と、近くの目覚まし時計を見て思った。窓から太陽の光が差し込んでいる。シャッ…と自分の部屋の小さなカーテンを開けると、雲ひとつない空に太陽だけが在った。
寝汗を乾かそうと、着ていたTシャツをぱたぱたとあおぐ。猛暑日だ。
猛暑日であり、そして終業式の日であった。つまり今日の午前だけ学校で変な式典をして、明日から夏休みが始まる。明日から約一ヶ月の夏休みが始まるのだ。
部屋のクーラーを消す。
「フン フフンフ〜ン ン フフン…」
昨日、飛翠と完成させたばかりの歌を口ずさみながら、部屋を出る。
階段を下りると、母親が既にキッチンに立っていた。朝早くからお疲れ様、と声をかけたかったが照れ臭くてやめる。代わりに、
「おはよう」
と言う。
「おはよう、小宵」
と返してくれる。
続けて母親はこちらを向いて、思い出したようにこう続ける。
「言い忘れてたわ、小宵の友達の…ひすい?ひすいちゃんの、セクハラの件だけど、今度弁護士がウチにくるから、その時はひすいちゃんもウチに連れてきなさい」
「ん、分かった」
母親の言葉は頼もしくて、それを聞いて笑顔になれた。
小宵は今、幸せだった。だって、唯一無二の親友と一緒に歌を完成させた。それに、その親友の悩みももうすぐ解決する。加えて、数時間後には夏休みが始まる。
静かな学校に着いて、教室の扉を元気よく開ける。
「おはよう!ヒスイ…!」
笑顔で朝の挨拶をする。すると親友は、笑顔で挨拶を返してくれる。
「おはようございます…!小宵さんっ。」
笑顔のまま、朝に家で聞いたことを彼女に話す。
「そうだ。ヒスイのセクハラの件だけど、こんど弁護士がウチに来てさ、なんか話するらしいから。その時はヒスイもウチに来てね…!」
「分かりました。…どきどきしてきました。」
「私も、わくわくしてきたよ。これで、ヒスイが夜遅くまで公園の遊具の中でひとりぼっちでいる必要なんか、なくなるんだ」
「はい…!」
飛翠の笑顔を見て、小宵は心から嬉しかった。世界はなんて美しいんだろう。生きるのはなんて楽しいんだろう。火照った頬に汗が伝って、気持ちがいい。
むんむんに蒸された教室にせめて風を通すために、朝早くに来た飛翠が、教室の窓を全部開けてくれていた。そこから風が入って、2人の髪を揺らす。窓の外では、さっきまで雲ひとつなかった空に、白くて大きい入道雲が浮いていた。2人で、それを見ながら風を身体に受ける。
「あの雲、でっかいなあー…!」
「おっきいですねえ…。」
「夏だなぁー…」
「夏ですねー…。」
セミが鳴く。入道雲から、ずぼっ…っと、突き抜けるように飛行機雲が伸びてゆく。それを見て、小宵はいろんなことを妄想する。
夏休みが始まっても、学校は開放されている。夏休みの間も、2人っきりで教室で新しい歌でも作りたい。また自分の部屋にヒスイを招き入れて遊びたい。ヒスイの部屋に遊びにいってみたい。夏祭りは2人で一緒にいってみてもいいかもしれない。そうだ、ヒスイは頭がいいから、勉強のときは教えてもらったりして。
夏休みが始まろうとしていた。
「夏休み、楽しみだなぁ」
「楽しみですね。」
「昨日、金曜ロードショーでやってた映画観たら、なんか『サマーウォーズ』も観たくなってきて。夏になると観たくなるんだ」
「あはは…見てるこっちまで熱くなっちゃいますよね。」
「ヒスイは見たことあるの?」
「こっちに引っ越す前に、私も金曜ロードショーで見たことあります。」
「いいよね。今年はテレビで放送しないからさ、夏が始まった気がいつまでもしなくって。…でもこれから夏休みってなって、ようやく夏到来って感じでさー…」
遠くで、ごみ収集車のあの音楽が聞こえた。
そのあと、少しずつ教室は人が増えていって、ちょっとずつ騒がしくなっていった。それを気にすることなく、朝のホームルームまでの短い時間を、2人はずっと一緒に過ごした。
1時限目と2時限目は、大掃除の時間で、クラスメイトがいくつかのグループに分かれて、トイレや廊下や教室を掃除した。小宵と飛翠は教室の窓拭き担当だった。教室は騒がしくて、自分たちの声が誰にも届かないのをいいことに、飛翠は『うたかたのうた』のメロディーを口ずさみながら窓を拭いていた。それに合わせて小宵が歌うと、飛翠は笑顔でこっちにウインクするのだった。
3時限目は成績表の返却が行われ、どこのクラスもうるさかった。
4時限目、校長、教頭、生活指導、生徒会長…の順番で話された長い話を聞き流す。体育館は蒸し暑かった。
終わりのホームルームは先生の「ハメを外しすぎないように」との忠告で終わった。
いつまでも太陽は輝いていた。
「…ふう〜っ!ついに夏休み、かぁ〜!」
通学鞄を背負ったまま、校門のすぐ外で小宵はそう言った。
飛翠も返事をする。
「そうですね。これから1ヶ月間もお休みって、ほんとはすごいことですよね〜。」
頷く。
「…ところで、夏休みは予定とかある?」
「いえ、全く。」
「じゃあさ、夏休みも会っていいかな?」
「はい…!ぜひ!」
とりあえず明後日に飛翠が小宵の家に来ることだけを決めて、2人はわかれた。
家に着いたら小宵は、「ただいま!」と元気に声を上げる。家の中から「あ〜…おかえり〜…」と、なんとも気の抜けた返事が返ってくる。リビングのテーブルで、弟が算数のドリルを開いていた。弟は、ドリルの問題を「簡単すぎてつまんない」とでもいいたげな顔で次々に解いていく。
「小学校の宿題?」
と小宵が聞くと、
「そ。これ終わったら、夏休みの宿題は後は…自由研究だけ」
と弟は返す。
小宵は、それを聞いて「やばい、私もいそいで宿題終わらせなきゃ」となるようなタイプでもなく、「へ〜」とだけ吐き捨てて、浴室へ向かう。
とにかくまずは、身体中の汗を、シャワーで洗い流したい。
シャワーは冷たくって、気持ちよかった。浴槽はぬるめのお湯が張っていて、長い間を浸かった。
浴室から出ると脱衣所には、いつの間にか新しい服が用意されていた。お母さんがやってくれたのだろうか。脱衣所から出ると、やはりリビングのソファで母親が座っていた。
「あ、ただいま」
「おかえりなさい。お昼ご飯、遅めでいい?」
「ん、うん」
「ありがと。助かるわ〜」
母はテレビをつけていて、外国のドラマを見ていた。画面下の方の字幕を目で追っている。
ふと気づき、小宵は尋ねる。
「そういえば、父さんは?」
「今日から少し出張みたいね。まぁ、一週間以内に帰ってくるんじゃないかしら」
「ああーなるほどね」
納得してうなずくと、母はため息をひとつつく。
「パパがいないと、車が使えないからね。お買い物いくのにも歩いてだから大変だわ〜…」
とのことらしい。
嘆いていた通り、昼ご飯を食べ終えた後、母はエコバックを背負った。これから買い物に行くらしい。「じゃあ、ちょっと言ってくるね」と言った母が出ていくのを、「いってらっしゃい」と手を振って見届ける。
それからちょっとすると、雨が降ってきた。
家の中に、ぽつ、ぽつ、という音がやわらかく反響する。
「わっ…雨か…。急だな…」
「んー…」
弟は興味なさげだった。
さらにちょっとして、雨はとても大きく成長していた。乱暴に家の扉が開いたと思ったら、そこには、ずぶ濡れの母親が立っていた。すぐに母は声を荒げる。
「もう最っ悪!!」
小宵はソファに座って、どうでもいいバラエティー番組の再放送を見ていた。
「はは、お疲れ様。洗濯物、取り込んでおいたから」
「あら小宵、助かるわ〜」
「洗濯物取り込んでおいたのは姉ちゃんじゃなくてオレだけど」
「ま、まあ、雨降ってるのに最初に気づいたのは私だし…」
母親が、キッチンにパンパンのエコバックを置く。水を含んで重たそうだった。
「…」
「…」
ふと気になって、小宵はこんなことを聞く。
「ねぇ、母さん、外の雨どうだった…」
母親は首をかしげて聞き返す。
「どうもこうも、ひどかったって言ってるでしょ?」
娘はそれを押し返して問う。
「そうじゃなくって…!これからもっとひどくなりそう?」
少し考えて、母は口を開く。
「そうねえ…きっとね。ゲリラ豪雨ってやつかしら。雨は一昨日とかもひどかったけど…今日のはきっと、もっともっと大きくなるはずよ。そう考えたら、この程度で済んだ私は不幸中の幸いかしら」
小宵は少し、まともな返事ができないでいた。
「そっ…か」
外の雨はすでにひどくて、雷鳴もあった。
テレビのリモコンに手を伸ばす。ふと、チャンネルを変えたくなった。この時間帯の、生放送のニュース番組にチャンネルを変える。
ざあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ
テレビの画面には豪雨直撃地の現場中継が映されていた。豪雨直撃地とは…ここのようだ。画面中央で赤いレインコートのリポーターがなにか言っているが、雨がうるさくてなにも聞こえない。画面の背景は、どす黒い雲、横殴りの大量の雨、遠雷、揺れる木々……今画面端で何か白い看板みたいなのが飛んでいった。
テレビ画面に映っているリポーターがまだ何か言っている。それに、家でも家族が自分に話しかけているようだった。
「あらこんなにひどくなってるのね。小宵、今日は塾は休みなさい」
「すげー雨だな、姉ちゃん…」
小宵は返事しない。ただ、いつの間にか立ち上がっていた。
「ん?…どうしたの、小宵」
「姉ちゃん、なんでテレビ見たままつっ立ってるの?」
でも何も聞こえなかった。
テレビの音も、
家族の話し声も、
外で降ってる雨の音さえも、
なんにも聞こえない。ここにある全部、聞こえない。なのに、なのに、遠くの誰かの声が聞こえた気がした。
気がしただけだ。小宵の気のせいだ。幻聴だ。
幻聴は…少女のソプラノをしていた。
幻聴に、声を投げかけるように、口を開いてしまう。
「ヒスイ…」
馬鹿だ。私は馬鹿だ。私は、大馬鹿だ…!!
公園の、あずき色のドーム型遊具の中で、一人で、彼女はきっと苦しんでいる。なんで気づかなかったんだろう。なんでそのことを考えなかったんだろう。
なんで私が、今、ヒスイのそばにいてやれていないのだろう…!!
それから瞬間の出来事だった。小宵は2階に駆け上がっていった。両親の部屋に入って、父親のものである大きなレインコートを引っ張り出す。自分の部屋の勉強机の上においてあった自転車の鍵と携帯電話を、ふんだくるように取る。すぐにリビングに下りてきて、通学鞄をひっくり返して中身を全部出す。それから母親のエコバックから、菓子パンだったり、ジュースだったり、とにかく食べ物をてきとうに取ってきて、通学鞄に詰め込む。
弟は、姉のことを異常者を見る目で見ていて、母は、小宵の名前と共に何か叫んでいた。
返事が思いつかず、こう言う他ない。
「ちょっと行ってくる」
つまり小宵は…あの公園のあの遊具の中にいるであろう、ヒスイに会いにこうとしていた。きっと震えているヒスイに。
ヒスイに会って、それからどうすればいいかは分からない。でも、震えているヒスイのそばにいてやりたかった。
膨らんだ通学鞄を背負って、レインコートを羽織って、ぴかぴかの白い靴を履く。
玄関の扉を開けると、その時どこかに雷が落ちた。かなり近くに落ちたらしい。
貫く勢いの雨があらゆるものに降りかかる。レインコートを貫くんじゃないかという勢いで雨が当たる。地面に対して鋭角を成して振る雨は、荒々しく、
雨に土が溶けたにおいが鼻をつんざく。どこからか、カビの生えたセッケンとスズメバチの死体が混ざったにおいがする。
空は真っ暗だ。だってもう、6時半を回っている。雨雲のせいでいっそう真っ暗だった。足がすくむように外は暗かった。もうすっかり夜だ。小宵の大嫌いな夜だ。
それでも小宵は、ヒスイのもとに行こうとする。小宵鍵を自転車に差す。ガチャン。ライトをつけ、自転車に乗る。
「(怖い…)」
こんなときなのに夜が怖い自分が情けなかった。
夜が怖い。夜が怖いとき、小宵はいつも歌を歌った。
今日も、そうすることにする。頭か心臓か心かどっかで、音楽が鳴り始める。心の中の自分が叫ぶ。
歌おうぜ、歌おうぜ、歌おうぜ、歌おうぜ、
歌おうぜ!!
誰のために歌うのかって?
「決まってるでしょ…!」
豪雨に向かって叫ぶ。
「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ!!」
自転車のペダルが重々しく、一回転した。その一回転をきっかけに、ペダルは高速で回転を始める。自転車が動き出す。公園へ向かって。
ヒスイは今この瞬間も、耳を塞ぎながら苦しんでいるはず。もしかしたら涙を流してすらいるかもしれない。そんな心配ばかりが胸を塞ぐ。
横殴りの雨がレインコートに当たって、ばしばしと音を立てた。
「涙の中にかすかな灯りがともったら…」
雨は鋭く、身体が貫かれるようだ。
「君の目の前で あたためてた事話すのさ…」
手足の先だけが濡れて凍えてゆく。
「それでも僕等の声が乾いてゆくだけなら…」
どす黒い空から豪雨が降り注ぐ。
「朝が来るまで せめて誰かと歌いたいんだ…!」
叫ぶように歌っても、雨音に流される。
「昨日のあなたが偽だと言うなら…」
太陽の存在が嘘だったみたいだ。
「昨日の景色を捨てちまうだけだ…!」
稲妻だけが輝きを放つ。
「新しい日々をつなぐのは…!」
逆風が重たい。
「新しい君と僕なのさ!」
待っててね、ヒスイ。
「僕等なぜか確かめ合う…!」
今、行くからね。
「世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ!!」
ヒスイ…
「心の声をつなぐのが…!」
ヒスイ…
「これ程怖いモノだとは!」
ヒスイ、
「君と僕が声を合わす…!!」
ヒスイ!
「今までの過去なんてなかったかのように歌い出すんだ!!」
ヒスイ!!!
風は毅然として強く吹き、雨はほとんど地面と並行に飛んできて、雷は鼓膜を破りにかかっている。雨に濡れた手足だけが凍えるようでかじかむのに、身体は熱く、息をするのも苦しい。でも自転車のペダルを踏む足を止めることはなかった。
「くそ…全然進まない…!」
家から出て何分経ったんだろう。さっき中学校を通り越したが、飛翠のいるあの公園にはまだまだ遠い。途方もなく遠い気がする。永遠に辿り着けないような気がする。
シャッターがどこまでも羅列する商店街は外から見ても不気味だった。歌を叫びながら、電気の消えた商店街を進んでゆく。前だけを見て進む。振り返ったら化物がいそうな気がした。
いつもは夜までやっている本屋も当然閉まっていて、吐くように歌っても本屋店主にすら聞こえないだろう。
薬局もファミリーレストランも大きな雑貨店もスーパーも閉まっている。コンビニエンスストアだけが不気味な黄色い光を放っていたが、今、空を駆けた稲妻に比べたら些細な光だった。雷鳴が小宵の声を掻き消す。
踏み切り前で止まって、警報音に負けないような大きな声で歌った。遮断桿がいつまでも上がらないから2曲も歌った。
変な工場が、雨に照らされて不気味にてかてかしていた。それを通り越し、また自転車を前に進める。
背中の通学鞄が重い。レインコートの内側に溜まった汗が、身体を濡らす。暑くてそれどころではないはずなのに、どうしようもなく夜が怖い。自転車のライトが照らした先も闇しかなくて、道は分かっているはずなのに、迷子になりそうだ。今、何時だろう。夜が恐ろしい。夜を越えるために歌うが、いくら歌っても夜が続くから……声が枯れそうだ。
『カサブタ』も、
『Butter-Fly』も、
『God knows』も、
『勇気100%』も、
『CRYまっくすド平日』も、
『真赤な誓い』も、
『無責任ヒーロー』も、
『立ち上がリーヨ』も、
『ミッドナイト・クラクション・ベイビー』も、
『現実という名の怪物と戦う者たち』も、
何でもいいから、自分を奮い立たせてくれるような歌を片っ端から歌った。だけども歌は全部、雨に掻き消されてゆく。夜に溶けてゆく。
ドン。ゴロ、ロ…。また、空が光った。雷がすぐそこの街灯に落ちたらしくて、そこにあった小さな光が一つ消えた。でも、そんなこと気にも留めない。小宵はボリュームを下げずに歌い続ける。
「(あとどれぐらいだ…!)」
立ち漕ぎで橋をのぼってゆく。こんなことなら、普段から運動しておくべきだった。橋の頂点につき、またすぐにくだってゆく。雨で滑りやすくなっているから、坂ではブレーキを軽くかけながら進まなければならない。急いでいるのにブレーキをかけるのが、歯痒い。
「(ヒスイ…!待っててね…!)」
橋を降りた先、寂れた住宅街をちょっと通って大通りに出る。大通りの、大きな横断歩道の前まで来た。この信号を越せば、公園まですぐだ!──信号の色を確認すると──
「(なっ…!ぐっ、こんなことって、あるか…っ!)」
黒だった。黒信号だ。信号が雷に打たれて停電しているらしかった。そのせいで車は停滞していて、皆が、どうすればいいか分からずにいるようだった。危なくて、横断歩道を渡ることはできない。
「ここまで来て…ッ!」
「(どうすればいい、どうするんだ。)」
「…ッ!」
考えた次の瞬間には、小宵は自転車から降りていた。がしゃぁん、と自転車をその場に倒す。これしか思いつかない。
「クッソォ!」
自転車を捨てて、近くにあった横断歩道橋に駆け上る。こっちなら、歩行者は信号の色に関係なく、道路を越えることができる。
カン カン カン カン カン!金属音を鳴らしながら階段を飛ぶように上ってゆく。歩道橋の上を、全速力で突き抜ける。
雨が嫌いな友達のため…それだけのためにここまでするのは、大げさなのかもしれない。でも小宵は…
小宵だけは知っていた。
雨が降っているとき、飛翠はいつも、肩を小さく震えさせていたことを。
「見てられないんだよ…!!」
でも…自分が歌っているとき彼女がいつも笑顔なのも知っていた。
「私はっ、笑っていてほしいんだよ!ヒスイ…ッ!!」
そうやって吼えたのはいいが、夜を越えるための歌のレパートリーは尽きていた。喉が渇いた。声が枯れてゆく。歌を歌う気力もない。…すると、どんどん身体が重くなっていった。
どうしても夜が怖いのだ。夜なのに歌っていないときは、こうやって、身体が動かなくなるのだ。
あと一曲、あと一曲歌っているうちに公園に着きそうなのに。さっきまで漲っていた勇気が、ほろほろと崩れてゆく。足が…重くなってゆく……次第に止まる………。
「はぁ、はぁっ、はぁ……」
歩道橋を下りてすぐのところで…立ち止まってしまった。ドッ、と、疲れが、洪水のように押し寄せる。一歩も動けそうにない。何十分もフルパワーで自転車を飛ばした、ツケが回ってきたらしい。脚の疲れと、夜に対する恐怖が、小宵を飲み込もうとしていた。
せめてあと一曲、自分に勇気をくれる歌を歌えれば、すぐに公園に…飛翠のもとに辿り着きそうなのに。
「(喉、こじ開けろ…。歌え、私。簡単なはずだ…好きな歌1コ、口ずさみながら、ちょっと歩けばいいんだから、)」
「…」
手を膝について、息を荒げる。地面は水浸しで、その上に更に雨がザアザア降って、沸騰するかのように地面で跳ねていた。雨粒は、弾けて、踊って、消えることもなく、いつまでも騒ぎ立てている。ぐつぐつ、と。ぶくぶく、と。しゅわしゅわ、と。まるで───
───泡沫みたいだった。
「…うたかた、の……」
顔を上げる。口を開けて呼吸をしていたものだから、横殴りの雨が容赦なく口に流れ込む。でもその雨は、潤いを与えてくれた。絶えることなく叫ぶように歌い続けたので、小宵の喉は枯れていたのだ。だがたった今、皮肉にも、自分を苦しめた豪雨が、自分に潤いを与えた。
歌える。
歌おう。
口を開ける。
静かに、イントロを、口ずさむ。いつもは、飛翠がリコーダーで吹奏してくれたメロディーだ。今ここには飛翠がいないから、ちょっと物足りない。
イントロは、序盤の山場を迎え、Aメロに突入する。
少しするとテンポが破れ、転調、Bメロへと変身する。
ある瞬間を機に、急加速で盛り上がっていく。そして、弾けたような…サビが始まった!
「(私とヒスイが作った歌…)」
「(ああ、)」
「(ああ…っ!…ヒスイ。ありがとう。ありがとう…ヒスイ…!!)」
「(あのとき、放課後に私を誘ってくれてありがとう…!)」
「(おかげで、一番好きな歌を、自分で…自分達の手で作ることができた…!!)」
「(おかげで、この雨がいつ止むのか分からないけど、きっと自信を持ってこう言える)」
「(雨が止むまで、そばにいるから…!夜が明けて、そのときやっと雨が止むのだとしたら、朝が来るまで、そばにいるから…!!)」
歌は、美しい言葉をひたすら紡ぐだけの歌だった。
(言葉は、口に出したら短時間で消えてゆく。泡沫のように。それなら…それなら)
言葉を、消えないようにと、繋ぎ止めるように歌にしてしまえばいい。言葉がすぐに消えてゆくのなら、いつまでもこうやって歌っていればいいのだから。いつまでも湧く泡沫を歌えばいい。
足が軽い。飛ぶように走れる。走っていると、向かい風を受けて、レインコートのフードの部分が外れる。あらわになった小宵の頭に、雨は容赦なく降り掛かった。雨は矢のように鋭い。でも、それがどうした。風を、雨を、夜を切り裂いて駆けるだけだ。
足元で泥水の踏みにじられる音がする。ばしゃばしゃと音を立てながら、小宵は飛ぶように走る。窓の灯ひとつついていない不気味な小学校を通り過ごし──小綺麗な住宅の並んでいるのを駆け抜けて──色褪せた看板のスナックを後ろに──小さな工場の裏っ側へと──。あと少し、あと少しだ。それ、行け。
「(公園に着いたとして、どんな風に声をかけよう。そのあとどうすればいいんだろう。…いや、そんなのどうでもいいか。雨が止むまで、私と一緒にいよう。そうだ、雨が止むまでずっと一緒に歌でも歌っていようか)」
鈍い銀色の溝の蓋を、ぴょんっ、と、飛び越える。ばしゃん。もうそこは公園だった。公園の地面は水を含んでぐちゃぐちゃになっていた。…ざぷっ、ざぷっ、と音を立てながら、ゆっくり歩く。公園の中央へと進む。
「はぁ、はぁ…」
あずき色の小型の山みたいな遊具に、小宵は声をかける。
「ヒスイ…そこにいる?」
すると、次の瞬間、やっぱり綺麗なソプラノが、ほのかに雨音に混ざるのだった。
「小宵さん…。」
ひどく、弱った声だった。でも、確かな声だった。そこに在る声だった。
「大丈夫?」
遊具の洞穴の中を覗く。…すると、やっぱり彼女はいた。膝を抱えて、小さくまるまっていた。ずいぶん弱っていた。そして、頬が、涙と雨を混ぜたもので濡れていた。
…でも、小宵はすぐに気づく。
「あれ。震えてないね。てっきり、もう震えて、泣いてで、ダメになっちゃってるかと思ったよ。…良かった。ヒスイ。思ったより大丈夫そう?」
そう、飛翠は震えていなかった。小宵は、思ったよりも大丈夫そうな飛翠を見て、安堵の息を洩らすと共に、自分の心配は杞憂だったかな、と思った。
「とにかく無事で良かっ──」
「まさかっ!!」
小宵の声を遮るように飛翠は叫ぶ。そして、続ける。
「まさか。大丈夫なわけなかったです。…あはは…実は、さっきまで、号泣しながら、震えてたんですよ…?小宵さんに見られずに済んでよかった。……ちょっと前に、震えも涙も止まっちゃったんです。」
小宵は、小さな笑顔を見せながら、レインコートを脱いで、遊具の洞穴に入ってゆく。
「へえ、それまた、どうして?」
飛翠は笑顔を見せる。持ち上げられた頬の上で、雨が、涙の粒が、翡翠の珠のように輝いた。そして、こう言った。
「歌が聞こえたからです。ちょっと前にその歌が聞こえ始めてから、この雨も、もう大丈夫になっちゃいました。」
飛翠は少し奥にどいてくれて、小宵が座れるくらいのスペースをソコに作ってくれた。そこに座って、小宵は首をかしげる。
「えー?私、そんな大声で歌ってたかな…」
というか、どんなに大きな声で歌っても、きっとあの豪雨と雷鳴に掻き消されて声は届かないはずだ。
でも、飛翠は「いいえ、確かに聞こえました。」と首を横に振る。飛翠のしっとりとした香りが空間に充満する。
こちらを見た飛翠の瞳は、太陽のように輝いている。そして、真っ直ぐだった。それと、うずうずしているようだった。溢れんばかりの感謝をこれから伝えようとしている…そんな感じだった。さっき起こった素敵なことを、母親に話すときの、子供のようだった。
「ああっ!ホントだ…!考えてみたら、こんな雨の中で歌声なんかここまで届くわけないのにっ!」
だなんて、ほんとに、子供のように言う。
それからヒスイはこう続ける。
「…でも、でもっ、確かに聞こえたんです!私の一番好きな声が…!小宵さんの歌う───」
うたかたのうた。
おしまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます