飛翠は、たまに施設の女性職員にこう言われる。

「あの小宵って子、いっつもここに来てるけど…飛翠ちゃんの友達らしいけど…一緒には遊ばないのかい?」

と。

 いつも

「一緒に遊んでいますよ。学校とかで。施設で遊ぶことは、あまりありませんけど…。」

と答えるようにしている。

 それを聞くとおばさん職員たちはたいがい「そうかい」に準ずる返事だけして去っていく。そういうとき、そのたびに、小宵に想いを馳せた。

 自分は施設に身を置くだけで苦しいのに、小宵はいつもここに来てくれる。(私のいないここに、私のために来てくれる。)…小宵が自分のために戦ってくれている。


「う、ん…。」

 目が覚めると、空は白かった。時計を見ると、(それでも早いのだけど)いつもよりは遅い時間だった。

 コト…。手に取った赤い置き時計を、元の位置に戻す。

「(ちょっと眠りすぎてしまいましたね…。)」

 身体を起こし、カーテンを開ける。小雨が降っている。

 小雨。大雨は大嫌いだけど…小雨は小雨で飛翠は嫌いだった。ここからじゃ雨音だって聞こえやしないけど、雨はそこにある。


 施設の外を出ると、雨音が耳をくすぐる。

 学校まで徒歩で数十分はかかる。雨の日、飛翠はよく歌った。小宵が夜に呑み込まれないように歌を歌うのと同様…飛翠は雨に溺れないように歌を歌う。

「どうしてこんなに私の胸 優しい誰かを待ってるの 教えて素敵な未来 Moonlight moonlight sleepin'…」

 “雨”は…“夜”と違って、毎日来るわけじゃなかった。例えばここ最近は晴れていた。雨は久しぶりだったものだから……彼女は歌い方を少し忘れていたようだった。


 学校に着く。まだ生徒会の役員たちが校門で挨拶している時間よりはずっと早い時間だった。

 教室は朝一番早く来た者が開けることになっており、職員室に教室の鍵を借りにいくことは、彼女にとって日課に等しいことだった。

 こんな早朝、廊下には人っ子一人いなくて、職員室に教員が数人いるだけだった。職員室だけから人の声が聞こえる。その扉を3回ノックして扉を開ける。「失礼します。3年の飛翠です。教室の鍵を取りにきました。」と言って、扉のすぐ横のコルクボードから、自分の教室の鍵を探す。コルクボードには各教室の鍵がかかっていて、朝には、各クラスの“登校最速”が鍵を取っていく。いつも飛翠が全学年全クラスで一番登校が早いものだから、いつも各教室の鍵が1つも欠けることなく羅列されているのを見ることができた。ソコから、飛翠が最初に鍵を取り、ずらりと並んだソレに最初に穴を開けるのだった。いつもそうしていた。

が、

「あっ…。」

ない。

「しっ、失礼しました。」


 自分のクラスの鍵だけなくなっていた。

 つまり、(信じがたいことだけど)…自分より先に誰かが教室にいるということだ。

「一体誰なのでしょう…。」

と考えて、すぐ考え切る。考えついた。

 どうせ、先生だろう。クラスの担任の先生が早朝の教室に用でもあったのだろう。以前も一回、そういうことがあった。あのときは「おお、飛翠か。いつも早いな」とか言いながら、教室天井についているエアコンをいじっていた。教室に居るのは先生だろう、どうせ。

 渋い橙色の手すりを握りながら、灰色の階段をゆっくり登る。自分の足音だけが階段に染みていくので、かえって今は静かであることを自覚させられ、かえって小さな雨の音が大きく聞こえる。

「ふう…。」

 階段を上り切ると、次はここの廊下を少し歩くとすぐ着く。廊下の壁には大きな窓がいくつも並んで付いていて、見たいと思わずとも、外の景色が目に入る。

 外。…空は、灰をひとつまみ混ぜたような白をしていた。


 教室に先にいるのだろう先生に挨拶するつもりで、「おはようございます。」と言いながら扉を開ける。

 しかし先生から挨拶は返ってこなかった。そしてその理由はすぐに分かった。

 それは、


「遅いよ」


少女のアルトだった。

 芯の通っているが、どこか幼さの残った声だった。

 先生ではなく

「小宵さん…。」

 彼女が私の席に座っていた。


「早いですね。おはようございます、小宵さん。」

 改めて挨拶する。先生用の凝り固まった挨拶ではない。いつも彼女と朝の一番に交える、柔らかい挨拶をする。

 小宵が挨拶を返してくれる。

「うん、おはよう。」

 飛翠が鞄を机に下ろすと、小宵は席から立ってくれて、すぐ隣にひょこっと移動してくれる。

「どうしたんですか?今日は。」

「きっといい日になると思ったんだよ、今日は」

…はて。

「なんでですか?」

「じゃん」

 小宵が、丸まっていた左手をパッと開く。チロルのチョコレートくらいの、小さくて黒いものが乗ってあった。それは、

「ボイスレコーダー…?」

それに違いなかった。

 飛翠の疑問符の付いた返答に満足して、小宵は話を続ける。

「そ。ボイスレコーダー」

「それがどうしたのですか。」

 小宵は、おどけたように、少し皮肉っぽく

「録れたよ。証拠。証拠が録れた。…つまりこのレコーダーの中に今、ばっちしゴリゴリのエグいセクハラ発言が入ってるってこと」

と言った。

 わざわざふざけたように言った彼女は、どうも少し照れを隠しているようでもあった。だから、そのあとにした真面目な顔はギャップがあった。恐ろしいほど真剣な顔に見えた。

「え、と…」

 飛翠が何か言ってしまう前に、小宵はけらけらしていた顔を引き締めて、

その真っ直ぐな瞳をこちらに向けて、

その柔らかい手でこちらの手を握って、

その少し濡れた唇を開いて、

「セクハラを訴えよう。今、私の家族が、家族の知り合いの人たちが、ヒスイのセクハラを訴えるために動いてる。あとは、ヒスイの意志だけだ…!」

と力強く言う。続けて、

「…飛翠まで、夜に震える必要はないんだ」

なんて、言うんだった。


「あ…」


聞いた瞬間。

 感情が、入道雲のよう大胆に…だけどきめ細やかに…膨らんでいくのが分かった。雨を内に孕んだ感情は、とどまることを知らず、熱を伴って膨らんで、しまいに、雨を降らせてしまう。ぽたぽたと雫が落ちる。飛翠は…涙を流しているようだった。

「ありがとう、ごめんなさい、ごめんなさい、小宵さん、ごめんなさい…。」

 小宵が小さく「うん」…なんて言ってくれた気がした。


「あ、ああ…私、は…」


愚かだ。なんて、愚かだ。きっと、自分のために最初に涙を流してしまった。もう助かるんだ、なんて思って、涙を流してしまった。夜を恐ろしがる貴方が、夜に戦ったのに、貴方の為に涙を流してしまう前に、自分の不甲斐なさを嘆く前に、自分の幸福を思い浮かべてそのために泣いてしまった。ごめんなさい、そして、ありがとう、小宵さん。弱い私のために、私が一度聞いただけですくんで動けなくなってしまうような言葉を、きっと毎日施設で聞いて、貴方は。

私のために涙を流してくれた貴方に、

放課後だけの顔を私にだけ見せる貴方に、

私を「ヒスイ」と呼ぶ貴方に、

歌を歌ってくれた貴方に、

手を握ってくれた貴方に、

夜が怖い貴方に、

貴方に、

私は、弱い私は涙を流すことでしか感謝の意を示せずにいる。

ああ、この気持ち全部、全部伝えたい。


「ありがとう…小宵さん…。」

 小宵が小さく「うん」…と言ってくれた。


「ひどい顔」

 廊下にある水道の前で小宵が、飛翠を見ながら言った。

 あの後ずっと泣きじゃくった飛翠は、小宵に袖を引っ張られながら、廊下を少し歩いたところにある水道まで連れてこられた。そこで今、2人並んで顔を洗っている。涙が乾いて頬に塩をつくってしまう前に、顔を洗ってしまわなければならなかった。

「小宵さんこそ。」

 小宵もひどく泣いたものだから、こうやって、飛翠と並んで顔を洗う。

 飛翠の涙がようやく枯れたころ、「クラスメイトにバレたら恥ずかしいから…」なんて言いながら飛翠を水道まで引っ張っていった彼女は、今、ごしごしとレモン色の石鹸を両手で擦り合わせていた。柑橘系の香りのするようになった手で、また水をすくって、顔を洗う。

「ふーっ」

と言いながら頭を上げる。洗い終えたらしい。いつもの小宵の顔だ。

 飛翠も一緒に、背筋をピンと張って顔を上げると、小宵に「もうちょっと洗った方がいいよ…。泣いたのバレバレ」と言われてしまう。仕方なく、また腰を曲げて、水道の蛇口のハンドルを回す。銀色の細長い管から、冷たい水が再び流れ出る。

 両手をお椀のようにしてすくって、自分の顔に思い切り叩きつける。まとまっていた水は瞬間で弾ける。

 冷たい。

「ほら、ハンカチ」

「ありがとうございます。」


 2人とも相当早くに教室に来たものだから、しばらく誰も来なかった。彼女たちの次に誰か教室に入るまで、飛翠はずっと小宵に感謝しつづけた。

 小宵は「うん」とか「はいはい」とか「わーーーかったって!!」とか言って、でも、ずっと飛翠の言葉を聞いていた。飛翠がお世辞でもなんでもなく、心からの感謝をずっと言うものだから…小宵は止めづらかった。

 しばらくして教室に誰か入ってきたから小宵は「もうこの話はやめよう」と目で訴えてきたとき、ようやく、飛翠は名残惜しそうにゆっくり口を閉じたのだった。


 それから、

「ああ…セクハラ問題解決するためには、弁護士と一緒に加害者と示談?とかいうのをするらしいんだけど、それまでちょっと日数かかるからね。そんだけ」

「分かりました。本当に…ありがとうございます。」

「ん」

という会話を交えてすぐ、朝のクラスルームが始まった。


 帰りのクラスルームでは担任の先生が「そろそろ夏休みだけど、受験もあるからな、遊んでばっかじゃないように」とか言っていた。先生は袖をまくって、薄いシャツをパタパタいわせていた。

 朝から降っていた雨は3、4時限目に急に大きくなって、それ以降蒸し暑さが続いていた。放課後雨が止むと、豪雨からバトンタッチしたようにセミがうるさく鳴き始めた。

 水分を含んでちょっとだけうねりをともなった飛翠の長い髪を、小宵はじっ…と見つめた。

「どうかしましたか?」

「いや…ヒスイの髪、見てた」

 放課後、これからのことをちょっと話した後、小宵は「じゃ歌つくろう、歌。すぐに夏休みになっちゃいそう」と言った。それからはいつものように歌をつくった。2番の歌詞もそろそろ完成しそうで、そうなったらいよいよ曲名…歌のタイトル決めだけが残された課題となる。

 気分転換に挟む小話も、全て、小宵と過ごす時の全てが楽しかった。

「最近オススメの曲とかある?」

「オススメの曲ですか?」

「うん」

「ラジオで最近聴いたものだと…『NONA REEVES』の『夢の恋人』ですね。知ってますか?久々に、アルバム…CDを買おうかなって思うくらい好きなんですよ。」

「へぇー…CD…あ、そか。ヒスイはCDプレイヤーもってるんだっけ」

「はい。ポータブルの…。」

「今度、聴きに行っていい?」

「え?施設にですか?」

「うん」

「…分かりました。きっと、聴きにきてください。」


 その日は小宵が塾に行かない日だったから、遅くまで、最後まで教室に二人でいた。

 市立中学校特有の小さな運動場には、もう運動部員の一人もいない。教室どころか、学校どころか、世界に二人きりになった気分だ。

 だから六時半の、生徒強制帰宅時間を伝える放送の声は、二人をひどく現実に引き戻した。

「じゃあね!また明日!」

「はい!また…明日。」

 すっかり雨は止んでいて、持つ意味もなくなった傘を持っている。小宵に背を向けて歩き始める。ふと、ちらりと振り返ってみると、たまたま小宵も振り返ってこちらを見ていたらしく、目が合ってしまった。

 手を口にあてて、小さく笑う。彼女が手を振ってるのが、小さく見えた。

 こちらも大きく上げた手を振って返事し、また、前を向いて再び歩き始める。少し歩いたところ…ここを、右にまわる。そのとき、思いついたように口を開く。

「何十回 何千回の 最高な体験は 目には見えなかけがえのない いつも共に歌う…」

 こうやって口ずさみながら公園に向かうのも、あと数回となってしまう。そう思うと…少し…少しだけ声を張り上げて歌いたかった。


 次の日も雨だった。朝の新聞では、今日は満月の日とのことで、雨雲に隠されて満月は見えないと分かると残念でならなかった。

「バックムーン…。」

新聞で紹介されていた、七月の満月の異名を口に出して言ってみた。丁度一ヶ月前…ストロベリームーンのあの夜を思い出す。

 また、七月ももう終わりなのだということを、新聞の日付を見るたびに思い出す。でも、日付を見るまで忘れているようでもあった。三日後には学校で終業式があり、そこで一つの学期が終わって、夏休みが始まる。入道雲の時代が始まる。

「あの丘の向こうに 僕らの夏がある 変わらないもの 美しいもの…」

 学校へ行くまでの間を…傘の下で歌って過ごした。

 教室には一番乗りで、しばらく一人で歌を考えていた。もう歌の完成はいよいよ近そうだった。なおさら歌の題名…曲名を考える必要がある。

 その後、教室に小宵が入ってきて、朝のクラスルームの始まるそのときまで、二人で曲名を考えていた。

 放課後には「今日決めてしまおう」と小宵が意気込んでいたが、なかなか決まらず、小宵の『歌詞ノート 2冊目』には、曲名候補ばかりが増えていった。

 そうこうしてる間に、歌詞は全て完成した。リコーダーを咥え、小宵の歌に合わせて吹いてみる。

「ふう。どうですか…?」

「さすが。私…この歌が好き」

「私もです…!」

 あとは曲名を添えるだけだった。ただ曲名だけがいつまでも決まらなかった。なぜなら、小宵は飛翠の考えた名前から選ぼうとしていて、飛翠は小宵の考えた名前から選ぼうとしていたからだった。曲名だけが永遠に決まらずに、二人でいつまでも考え続ける…というのも悪くない。なんて思った。


 次の日も雨だった。7月…それも終盤。7月の終盤に3日連続で雨が降ったというのはどういうことだろう。梅雨はもう去ったはずだ。

 仕方なく彼女は、今日も歌を歌いながら学校へ向かうのだった。

「くちびるつんと尖らせて 何かたくらむ表情は 別れの気配をポケットに匿していたから…」

 お気に入りの歌を静かに歌う。その歌が流行ったころなんて、生まれてすらなかったはずなのに、なぜか懐かしいその歌は、歌っていて落ち着く。きっと深い意味のある歌詞。でも歌詞の意味を探る前にメロディーで泣きそうになってしまうその歌…その歌を、ただ雨音をごまかすためだけに歌う。

 七月第三木曜日。雨の木曜日。学校では、木曜日なので体育の授業があった。しかし雨なので外を使うこともできず、頼りない屋根の体育館でバレーボールをすることとなった。屋根の上で雨が蠢くように跳ねて、気持ち悪い。

 ただバレーボールの授業は嫌いではなかった。こういう団体競技では、体育の出来の悪い飛翠や小宵は用無しのようらしく、サボっててもお咎めなしだ。雨が二人の声をかき消すのをいいことに、授業中、二人はずっと体育座りで話していた。互いにおすすめの歌を十数個教えていたら、授業はいつの間にか終わってしまっていた。

 六時限目・体育の終了を告げるチャイムの音と共に、二人はゆっくり立ち上がる。

「くう、う…」

 小宵は両手を組んでいっぱいに背を伸ばし、疲れを口から吐く。

「ふう。…お疲れ、ヒスイ」

「お疲れさまです。」

「うん。やっと放課後だね。今日は塾ないから、六時半まで残れるしね」

「それじゃあ…」

 飛翠が次の言葉を拾おうとしたその時だった。ドン!ガラガラガラ…。空が鳴った。雷だ。音と光がほとんど同時に爆発し、雷鳴に次いで、クラスの女子たちが甲高い声を上げた。

 雷鳴が消えたあと、雨の音がいっそう強調されたようだった。小宵は冷や汗を一つ垂らしながら、飛翠の顔を覗いて、

「わー…すっごい雷だったね。…雨が強くなってきてる」

と言う。声色は、自分のことを心配してくれているものだった。

「は…はい。かなり大きな雨ですね。」

「大丈夫?ヒスイ。ほんとに大きな雨だ…」

「だ、い…じょうぶです。教室に向かいましょう。」

「うん…。」

 体育館を出ると、校舎まで少し外を歩く。トタンの薄い屋根だけのある、コンクリートでできた廊下。そこを歩く必要があるのだけど、そこは壁などないものだから、こういった横殴りの雨は遠慮なく体に当たる。当たるたび、まるで矢に貫かれたような気分になる。

 だいじょうぶ。大丈夫。私は大丈夫だ…。自分に言い聞かせるが、足は思うように動かない。足取りの重い自分に合わせて、小宵がゆっくり歩いてくれている。

「ごめんなさい。急ぎます…。」

「いや、ゆっくり歩こう。私もそんな気分だから」

「ごめんなさい…。」

 まったく何なのだろう。自分はいつからこうだったのだろう。どうしてこうも雨を嫌っているのだろう。…母親が死んだ日に雨でも降っていたからだろうか。…いや、違う。だって母親が死んだ日は晴れていた。思考が溶けてどろどろになって混ざって変な色になっていく…そんな気がして気が気でない。

 身体から垂れているこの液体は、飛んできた雨なのか、暑さからくる汗なのか、冷や汗なのか、わからない。頬を伝う…正体不明の液体が不快だ。

 決して雨が怖いわけではない。怖いんじゃなくて嫌いなのだ。視界を曇らせる空一面の雨雲が嫌いだ。耳から侵入する雨の音が嫌いだ。鼻をつんざく雨の匂いが嫌いだ。身体にへばりつく雨の粒が嫌いだ。

「…着いた。教室だよ、ヒスイ」

「あ…そうですか。今、入ります。…よし。……よし!」

 自分の両頬を両手でパチンと叩いて、気合を入れる。

 体育の授業から帰ってきて、教室には、小宵と飛翠が一番早くに着いた。誰もいないことをいいことに、小宵が小さな声で歌を歌っている。

 小宵の声が好きだ、と思った。雨の音はいつまでも耳に残るのに対して、小宵の声はすぐに消えていってしまう。まるで泡沫のように。だから小宵が声を繋いで…声が消えていかないように…歌にしてくれると、とても心地が良かった。


 終わりのホームルームをてきとうに聞き流して、放課後を迎える。いつものように自分の隣に小宵が座ると、飛翠は声を張り上げる。

「歌のタイトル…今日こそ決めてしまいましょう!」

「うん」

と言って、小宵は歌詞などの書かれたピンクのノートを開く。

「私はやっぱ、ヒスイの考えた…これとか、ここの、とか、これとかがいいと思うけど」

「ありがとうございます。でも私は、小宵さんの…これ。これが特にいい気がするんですよ。曲名を見るたびに、サビの部分の盛り上がりを思い出します。」

「ありがと…。悩みどころだな〜」

 う〜ん、とうなっていると、あ、と突然、小宵が声を漏らす。続けて、

「そうだ。思いついたらぽんぽんと口に出していこう。連想ゲームみたいにぽんぽんっ…って。何気ない一つの言葉が、逆にいい、なんてこともあるかもしれないし」

「そうですか?…やってみましょう。」

 それから、二人はつぎつぎと、思いついた言葉を、思いついたフレーズを、思うままに言い合った。


「星!」「満点の星。」「夏の大三角形」「流星群。」「お願い!」「え〜っと…海の願い。」「海…海の幸!」「ええっ?ふふっ…。海の幸せ。」「海の見える街」

「海の光。」

「深海」

「青い波。」

「青い泡」

「泡…泡の喝采。」

「泡のお祝い!」

「バブルセレブレーション…とか?」

「いいねそれ!英語もオシャレだな〜。スターなんとか…とか」

「スターダスト。」

「スターダスト…星屑…星の屑」

「星屑のテーマ。」

「ん〜……ほしくずのうた」

「あっ、それいいかも。好きです、それ。」

「えっ、ホント?」

「はい。」

「ほしくずのうた、ね…。なんか童謡っぽいな。ヒスイは童謡とか好きだからな〜」

「童謡とか好きです。」

「童謡…ほしくずのうた…」


 2人はいつまでもそうやって言葉をラリーするばかりだった。


 雨は降り続けた。午後六時から特に強くなった。どしゃ降りだ。雷鳴も大きい。

「わ〜…雨が強いにもほどがあるよね。ね…?」

と、小宵がこちらを、心配そうに見てくれる。

「そうですね…。」

 自分の声が細くなっていることに気づく。また雷が大きく空に轟いた。カーテン越しに光が教室を包み、視界を一瞬だけ真っ白にしてゆく。そのとき、教室の扉がコンコン、と叩かれた。

「「!」」

 ビクッ。二人は一瞬だけ、身体をこわばらせる。すぐに溜息を吐き、小宵が、

「きっと先生だ」

と言う。

 すると、先生の声で「入るぞー?」と続いた。扉の向こうにいるのはどうやら先生らしい。

「ほんとだ。先生ですね…。どうしたんでしょうか。」

 二人に見守られながら、教室の扉がガラリと開かれる。扉の向こうにいたのは、やっぱりクラスの担任の先生だった。

 先生はこう言う。

「あー…お前たち。やっぱり教室にいると思ったよ。…これから強い雨が長引くから、しばらく学校にいなさい」

 もう少し学校にいなさいと言われても、もうすぐで生徒は帰宅を強いられる六時半になる。

「もう少しで六時半ですけど…。」

 不思議がる飛翠の目を見ながら、先生は大雑把に答える。

「ああ。もう少しで生徒強制帰宅の六時半だが、今日は六時半以降も、雨が落ち着くまで学校にいなさい。危ないから。…何かあったら職員室まで来なさい」

先生はそう言った。

 それから先生は「保護者に電話しておくぞ」と言ったので、二人で「はい。」と返事をすると、それを聞いて先生は「うん、それだけだ」と言って教室から出ていった。ガラガラ…ガトン。扉が閉められる。

 すぐに教室は、二人きりに戻った。

「外、そんなにひどいんだね、雨」

「そうですね…。帰宅が遅くなってしまいますけど、小宵さんは大丈夫なんですか?」

「大丈夫!なんか…ちょっと新鮮で楽しいとか思っちゃったり」

「あはは…そうですね。」

 教室は電気がつけられていて明るい。カーテンも閉められている。公園よりずっと快適だ。上手く……息苦しさを隠せそうだった。


「…ヒスイ」

 あるとき、急に声をかけられた。雨が続いて、午後七時をまわった頃くらいだ。外はすっかり暗いが、カーテンを閉めているので、雨と夜が直接見えることはなかった。たまに雨の具合を確かめようと小宵がカーテンを少しめくって、窓越しに外を見たが、そのたびに「うわっ、すっごい雨」と言うのだった。

「ヒスイ…!」

 もう一度、少し強い語調で彼女が自分の名前を呼んだ。返事をしなければならない、と思う。

「はい…。」

残り滓が絞り出されたような声を出す。

 それを聞いて、小宵はいっそう力強い語調となった。

「すごい汗だ…!ヒスイ!気分が悪いの…!?」

「い、いえ…。」

「いえ、ってそんなワケないだろ…!どこか気持ち悪いの?職員室にいってこようか?」

 立ち上がった小宵のスカートの端をつかみ、「本当に大丈夫です…。」と言う。それから、弁解を添えることにした。

「…笑わないで下さいね。雨が嫌いってだけで、身体がこうなってしまうんです。」

 本当のことだった。こんな大きな雨の前では、こうやって、足がすくんで動けなくなってしまう。息苦しくなって、吐き気がしてくる。それほどまでに、雨というものは飛翠にとってストレスだった。

 すぐに小宵は叫ぶ。怒りと心配の混じった声だ。

「誰が笑うんだ…!…ねぇ、私にできることがあったら、何でも言って…」

 雨はまだまだ続きそうだった。


 午後八時とちょっとになって、雨が止んだその刻まで、小宵はずっと飛翠に声をかけつづけてくれた。雨が弱まっていくにつれて飛翠も元気を取り戻していったので、雨が止むころの彼女の顔を見て小宵はホッとした様子を見せた。

 ご心配をおかけしました。励ましてくれて…ありがとうございました。でも、あの…そんなに心配するほどでしたか?

「そりゃね!あんな顔してたら心配するよ!…ヒスイのあんな弱った様子はもう見たくない」

 ごめんなさい…。…ありがとう。


 その後 飛翠は、小宵を家まで送ってあげた。それが、夜を怖がる小宵に、飛翠のしてあげることのできる、今思いつく最大の恩返しだった。


 あの大雨の次の日、手のひらを返したように空は晴れた。三年生一学期終わりを告げる終業式の、1日前の日。夏の前日だ。明日は午前だけ終業式があって、それを皮切りに、1ヶ月近くの長い長い夏休みに入る。

 最近は朝から雨が降っていることが多かったので、今日起きて、窓の外があたたかいレモン色をしているのを見たとき、飛翠は嬉しくてつい小声で歌を口ずさんだ。

「女の子は誰でも魔法使いに向いている 言葉を介さずとも肌で感じているから 淋しさへ立ち向かうにはぜんぶ脱いで…」

 朝、まだ誰も起きていない児童養護施設を飛び出して、学校へ向かう。

 太陽はさんさんとしていて、空気がゆらいで見える。遠くの陽炎を眺めながら、なるべく物陰のあるところを歩く。昨日すごい雨だったのに、地面には水溜りがほとんどなく、そのことが太陽の存在を証明するのだった。

 教室に着く。少しして、小宵も教室に入ってくる。

「「あっ」…。」

 2人は同時に声を出す。

「「昨日はありがとう」ございました。」

 またしても言葉がかぶる。それがなんとなく面白くて、2人は、草が風によってさやさや揺れるような声で、小さく笑い合った。

 雨が降ったときは飛翠のそばに小宵がいてくれて、夜が来たときは小宵のそばに飛翠がいてあげた。あの時となりにいてくれたことをお互いに感謝する。それが少し楽しかった。


 早朝で、教室に2人きり。


 ふと、小宵が、

「ねえ、歌のタイトル決めちゃおう。まずは昨日やった方法と同じ方法で、曲名を考えてみよう?」

と言う。

「そうですね!」

 昨日の方法とはつまり…単語でもフレーズでも、思いつくままにぽんぽんと言い合う。そんな曲名の決め方だ。


 小宵が最初に「星の瞬き」と言ってから、それは始まって、二人はずっとそれを続けた。

「海底の宝石。」

「海の底の輝き」

「え〜っと…深海の星。」

「深海サイダー」

小宵のその曲名案を聞き、

「深海ラムネ。」

と飛翠が返す。

「あっ、ラムネの方がいいかもね。ラムネ…ラムネ…」

「えっと、あわあわラムネ…!」

笑顔でそう言った飛翠を見て、小宵は「くふっ」と小さく笑ってから、

「おいおい、かわいいな、それ。あわあわラムネねえ…。あわ…泡ってのがいいね」

なんて言う。

「そうですか?」

「うん。いやホントに、泡って言葉は、この歌にピッタリかもしれないよ」

「泡…。」

「うん。泡がこう、しゅわしゅわって、湧くような歌だなって思うもん」

「そうですね…イメージとしては、泡のように消えてゆく言葉を紡ぐ歌…かもしれませんね。」

「そうそう!そのイメージ!私たちのつくった歌は、泡のように消えてゆく言葉を紡いでいく歌なんだ!」

興奮して小宵が立ち上がる。

「じゃあ、“泡”って字は曲名に入れたいですね〜。」

「うん!えっと、泡…あわ…あわの……」

「あわの…あわ…うたかた…泡沫…泡沫の……」




「「うたかたのうた」。」




 ふと、2人の声が揃った。一言一句、全く同じで、少女のアルトとソプラノが重なった。

 その瞬間、歌が完成した。

「…いいんじゃないですか!?とっても…!!」

隣で立ったままの小宵に、笑顔を見せる。小宵は笑顔を返す。

「うん!…これにしよう!!」

 小宵と飛翠の、初めて二人で作った歌が完成した。『うたかたのうた』が完成した。

「うたかたのうた。」

「うたかたのうた…!」

 嬉しくて、何度もその名を呼ぶ。舌の上で転がして、その曲の名前を反芻する。『うたかたのうた』…きっと、大した曲名じゃない。この曲名に決まった理由は、本当は、ふたりで一緒に思いついたからってだけだ。ただ、たまたま、同じ瞬間に思いついたというだけの曲名だ。だからこそ何よりも美しい響きをもっていた。

 これ以上ない…“ふたりでつくった”ということの証明に思えた。


 興奮冷めぬまま、学校生活の1日が過ぎてゆく。放課後いつも「ねえ、あの歌、演奏しよう」で2人の活動は始まったが、今日は違った。終わりのホームルームを終えて、先生と生徒たちが去った後の教室で、小宵は嬉しそうな声でこう言うのだった。

「ねえ、うたかたのうた、演奏しよう…!」


 飛翠がリコーダーを咥え、小宵は右手を自分の胸に軽くあてがう。飛翠のリコーダーの音色にのせて、小宵が歌を歌う。泡沫のように消えてゆく、そんな音色が、そんな声が、消えてしまわないようにと紡がれてゆく。サビの部分で、泡が湧いたように盛り上がって、また静かに消えてゆく。暑い日の宵のような涼しさと、暑い日の飛行機雲のような爽やかさがあって、(そしてどんな表現をするよりも)…まるで暑い日に飲むラムネのように弾ける音楽だった。

 この歌が、好きだ。


 この後塾なので早めに教室を去った小宵を見送った後も、誰もいない教室でひとりで口ずさむ。

「フン、フフンフ〜ン、ン、フフン…」

 学校を出て公園へ向かって歩き始めたときも、ひとりで口ずさんでしまう。

 夕日に照らされて街全体にオレンジの輪郭ができる。宵に鳴くセミの声が少し涼しくて、長い髪がたなびく。垂れていた汗が徐々に乾いていって、そこに風があたるとひんやりとした。遠くで子供と子供が遊んでいる声が聞こえる。彼らの夏休みはもう始まっているのだろうか。

 うたかたのうたが、彼女の胸の中だけでいつまでも響いた。



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