Bメロ
小宵は、飛翠と別れた後、飛ばすように自転車を漕いだ。でも急いでいるわけではなく、むしろ家までは遠回りした。夜風が顔に当たって痛い。でも夜風に当たる必要がある。顔に張り付いた涙を乾かさないといけない。情けない泣き顔を家族に見られちゃ困るから。
玄関で、ごしごしと目元をこする。「フー…」と息をゆっくり吐き、扉の取っ手に手をかける。
ガチャリ。
「ただいまー…」
なんでもない風に言ってみて、それから塾の用意をそこらへんに投げる。「おかえり」と弟がテレビゲームをしながら言った。「うん」と返事するが、顔は合わせない。すぐに「お風呂入ろうっと」と、ワザと独り言のように言って、風呂場に入っていった。火照った顔を見られないうちに、すぐに風呂に隠れてしまおうとしたわけだ。
風呂に入って、顔を何度も何度も洗う。風呂にいる間も、晩ご飯を食べている間も、歯磨きしている間も、寝るその直前までも、小宵はただ飛翠についてだけ考えた。
友人の抱えていた悩みを知った今、自分ができることは何だろう。何か、できるはずだ。それを、自分はする必要がある。
飛翠のことを考えると胸が締まる。あんな顔して、ずっと苦しんでいた。小宵といるときはいっつも笑顔なくせに、本当は苦しんでいた。許せない。許せないことだ。
「ヒスイ…」
次の日、朝、教室に入ると当然ながら飛翠はそこにいた。
「おはよう」
「おはようございます。」
にこりと笑ってくれる。
「ひどい顔…泣いたのって、明日になっても分かっちゃうんだね」
「えっ…!?」
彼女はぺたぺたと自分の顔を触る。
「…ねえ、昨日はその…その男と何かあった?」
「…いいえ。」
首を振った彼女を見て、小宵はとりあえずはよかったと安堵の息を漏らす。
「私に手伝えることがあったら何でも言って。手伝うから」
「そんな…やめてください。小宵さんを巻き込めるわけないです。」
「なんで!?私たち…友達だ!いや、友達じゃなくてもいい!私が一方的にヒスイのことを好きなんだってもいい!ヒスイの苦しみを…ちょっとくらい…っ、私にも分けてよ…!!」
言い切ってから、「はあ…はあ、」と呼吸を荒くする。
それを聞いた飛翠は、目に溜まっていた涙を手でぐしゃぐしゃとぬぐう。それから、こう言うのだった。
「じゃあ…放課後の、歌を作るのにこれからも付き合ってください。」
「え…?」
「放課後に小宵さんと一緒にいるときが、一番安心できますから。」
と言った彼女の顔は真剣そのものだった。
「わかった…」
それが彼女の頼みなら、聞く。聞くに決まってる。
ただ、それからの放課後はちょっと気まずかった。夕方になって生徒が全員帰る時間まで、二人は教室に残って一緒に歌を作って、おすすめの歌を教えあって、たまに勉強を教えてもらって、暇な時は絵しりとりなんかすることもあったけど、けど…。けど、毎回、帰る時間に近づくにつれて小宵は気が気でなくなってゆく。自分と別れた後、彼女は家に帰らず夜遅くまで公園で一人きりで過ごすのだと、今は知ってしまっている。
いつの間にか六月が終わりそうだ。セミの時代がやってくる。朝は朝の蝉が鳴き、夕には夕の蝉が鳴く。夕の蝉が、鳴いている。今日も放課後に終わりがやってくる。
「では…さようなら、小宵さん。」
「うん、またね。…ねえ、今日もこの後あの公園に行くの?」
「あはは……はい…。」
「そ、…か。そっか。気をつけてね」
「はい!ありがとうございます。それではまた明日…!」
「うん、また、明…日…」
次の日は塾だった。何もないまま一日が過ぎてゆく。
塾は午後7時からあって、8時には終わる。午後8時、今日もいつも通り荷物を通学鞄に詰め終える。
塾から出ると、外は真っ黒だった。都会だから、街灯だけが乱立していて、星はほとんど見えない。月だけが綺麗だ。一昨日に満月を迎えた月が、少し欠けている。
「(ああ…)」
怖い。
夜道が相変わらず怖かった。夜が怖い。
そして、夜が怖い自分のことを今初めて、嫌いになりそうだった。
「(ヒスイは毎日…毎日、こんな暗闇の中に一人でいる。今よりもずっと遅い時間まで、今よりもずっと暗くなるまで、ヒスイは一人で座ってるんだ。…どんなに辛いことだろう。なのに私は、家に帰るまでの小さな暗闇さえも怖い)」
なんて思った。
「…」
自転車に乗ると、数分間彼女は黙ってペダルを漕ぐ。そして、塾に通っている他の子の姿が完全に見えなくなると、一人、口を開くのだった。
「やってきた恐竜 街破壊 迎え撃つわたし サイキック…」
小声で歌ったまま、自転車を飛ばす。
塾から少しすると、やけに静かな住宅街が続く。チープなアパートが雄大に立っている。いくつかの部屋から黄色い光が漏れている。非常口だろうか、各層の階段が緑の光に照らされている。そしてぴっかりと白い外壁をしている。そんなアパートがいくつも続く。
道を曲がると、車の走行音も無いところだ。少しでこぼこした道の端の方を走る。小宵の自転車のライトも、ただ何もない地面を照らすばかりだった。
変な臭いのする、新しそうな小さな工場を通り過ごす。それから、大きな踏み切りの前で止まる。
カン、カン、カン、カンと大きく警報音が鳴ると、しばらくして電車が来る。電車が去った後、それを追いかけるようにゴオオオオオと風が吹く。…それらだけが、この夜道の世界で、唯一小宵の歌を邪魔するものだった。
踏み切りを超えると、スーパーや大きな雑貨店の光がようやく見える。ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、薬局、夜までやっている本屋、それらをどんどん通り過ぎてゆく。増えてきた人ごみを避けながら、誰にも聞こえない小さな声で歌を歌う。
家に帰るまで歌い続ける。
彼女は今日も歌を歌う。夜が怖いから歌を歌う。暗闇をごまかすために歌を歌う。
ガチャリ。「ただいま」と、なるべく気怠げに言う。自分が今様々な悩みを抱えていて苦しんでいることを、悟られてしまわないように。
「おかえりー」と弟が言った。弟は、珍しいことにテレビを見ている。いつもはゲームしてるのに。
「何見てんの?」
「ニュース」
「ニュースなんか見んだ」
「ニュースくらい見ろよ」
うるさい。
会話を早々に切り上げて、持ったままだった通学鞄のチャックを開ける。通学鞄から、学校で配られた予定表を机の上に広げる。明日は何かあったっけ、と確認する。明日は特に何もないらしい。
「そろそろ晩ご飯にするから、テーブルの上、片付けておいてね」
と母親が言う。
「はーい」
さっさと片付けよう。
サッと机を綺麗にして、鞄を壁にもたれさせておく。
窓の外を覗くと、夜はすっかり暗くなっていた。
夜が暗いと、飛翠のことを思い出す。暗ければ暗いほど。夜に雨が降っているときなんて特に。
「(ヒスイはきっと、まだ、あの公園に一人で座っているんだ…)」
セクハラ被害の話なんて、ニュースでしか見ない。テレビの向こうの話だと思っていた。
そういえば弟はテレビをまた見ていた。ニュースだ。ずっと見ていたんだろうか。
「まだ見てたんだ」
「んー…いや?さっきまで別のことしてたけど、今テレビつけた。だってホラ、これから飯だろ?ご飯食べてるときって暇じゃん」
「ご飯食べてるときにテレビ見るなよ」
「姉ちゃんだって見てるくせに」
うるさいな。
晩ご飯の前に、身体を洗いに浴室に行くことにする。今日はシャワーだけで済ませよう。
湯気を身体にまといながら浴室から出る。脱衣所においてあるカゴの中から、タオルを取って、てきとうに身体を拭く。それから用意されていた服を着る。
「はー…」
いくらかすっきりした。
脱衣所の扉をガラ、ラ、と開く。いい匂いが鼻孔を通り抜けてゆく。いつの間にか、晩ご飯がリビングの大きなテーブルの上に並べられていた。
2階で仕事をしていた父が下りてくる。ずんずんと階段を下りて、「おっ、しょうが焼きか…!」と嬉しそうに言っている。しょうが焼きだった。これから晩ご飯だ。
「「「「いただきます」」」」
「あれ、ニュース見てんの?バラエティーとかないの?」
「あらいいじゃない、あなた。私このニュース気になるわ」
「そうか?まあ別にいいんだけど。…あ、そういや小学校って夏休みいつからだっけ」
「7月21日から。あと1ヶ月も先だね」
「きっとすぐさ。小宵、お前んとこは?」
「7月の24…」
「へぇ…。よし。今年もおばあちゃんの家に行くか?」
「ホント!?」
「ああ」
「あら、そうだわ。お義母さんがスイカ送ってくれたのよ」
「今年の初スイカかぁ〜!そういや小宵、スイカ好きだったよな」
「うん…」
「…なんか姉ちゃん、ニュースをかじりつくように見てるね」
「そんな面白いニュースやってるのか?」
「『特集!セクハラ撃退劇』ですって。あなたも会社の子とかにしちゃダメよ」
「ばっ、お前バカ、バカ、誰がやるか…!」
「私もあなたと結婚する前にいた職場で、後輩の子がねぇ…セクハラに遭ってたのよ」
「それどうなったんだっけ?」
「私が訴えてやったわ!その上司は今でも路頭に迷ってることでしょうね」
「お前が一番おっかないよな…」
「そう?…あ、麦茶いる人」
「はい」
「はい」
「了解。小宵は?」
「いいかな別に…」
「分かったわ。でも、これから暑くなってくるから、水分補給は怠っちゃだめだからね」
「うん、ありがと…」
「あ、そうだ母さん、明日体育あるから。体操服の用意お願い」
「そうね。…最近体育多いわね?今 授業で何やってるの?」
「えっとー、運動会の練習かな」
「早っ!練習始めるの早いなぁ、最近の小学校」
「パパったら、昔は運動会が近づくと・・・、それも・・・」
「ちょ、その話は・・・、あれは・・・」
「えー?・・・」
「・・・」「・・・」「・・・」
「・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
もう、家族の話し声は小宵に聞こえていなかった。だって、かじりつくようにテレビの『特集!セクハラ撃退劇』を見ていた。今も、セクハラ撃退の方法を有名大学の教授が解説している。
それからいろんな人が、テレビの編集で声色を変えながら、自分の体験談を語っている。それらは短いドラマで再現される。それを小宵はまじまじと見ていた。
「ねぇ、」
小宵が口を開く。馬鹿馬鹿しいこと思いついた。それで、この馬鹿げた思いつきを──もし、もしもだけど、もし──実行できそうなら……
「ボイスレコーダーってウチにある?」
ピタリと空間が止まった。瞬間の静寂を挟んで、次に声が響く。
「「「あるけど」」」
三人の声が響いた。
…私の家族って、変なやつばっかりだ。そう思った。
なぜ家族全員が自分用に最低でも一機はボイスレコーダーを持っているのか。大変気になる。でも今はそれより、テレビをずっと見ていたせいで手付かずだった晩ご飯を…しょうが焼きを胃の中にかっ込む必要がある。
自分は、こんなに飢えていたのかと、その瞬間気付いた。肉を口に放り込んで、米を流し込む。丁寧に噛む代わりに一口は大きく、ご飯はみるみる減ってゆく。結局、家族の誰よりも早く食い終えて、開口一番、
「それ、今どこにある!?」
ボイスレコーダーは弟のものを借りることにした。弟が持っていたのが、一番新品に近くて、タイプも一番新しい。テレビゲームのカセットくらい小さくて、高音質で音を拾えて、その上「最大50時間連続で録音できるんだよねコレ」とのことらしい。
「なんでお前にこんなのが必要なんだよ」
「不測の事態のときのため」
「そんなとき来るの?」
「姉ちゃんに今 来てるってことじゃないの?コレがいる事態なんでしょ」
ありがとう。ありがたく借りることにするよ…!
次の日、七月が始まった。カレンダーのいつもは見ない六曜のところを見てみると、『先勝』と書かれていた。六曜は日にちの吉凶を占う指標のようなものらしく、その中で『先勝』はつまり、「何事も先まわりして行動すればいいことあるかもよ」とのことらしい。『午前中が吉、午後は凶』だと。
「フ、」
鼻で笑ってやろう。小宵が作戦に出るのは思いっきり午後だ。午後は凶。
「でも思い立ったが吉日!」
今日やる。今日上手くいかなかったら、明日もやる。成功するまでやってやろう。
学校では飛翠といつも通りに過ごす。ただどう見てもいつも以上にゴキゲンだった。
「小宵さん、何かいいことでもありました?」
「あった!」
「え、何ですか?」
「教えなーい」
「え〜教えてくださいよ。」
歌作りの方も少しずつだが進んでいる。やっぱり飛翠とこうやっているのが好きなんだと、素直に思うことができる。時間はすぐ過ぎてしまう。
今日は金曜日だったので、小宵は塾がある。そのため、いつもよりは少し早く学校から去る必要があった。
「それでは、さようなら。また月曜日に…」
「うん…!また、“この後”で…!」
「え?」
塾が終わると、小宵はすぐに自転車を飛ばす。抑えきれない興奮を、歌にのせて飛ばす。
「さよならできるか 隣り近所の心 思い出ひとかけ 内ポケットに入れて…!」
実は小宵が塾から家に帰るのに、あの公園を通る必要はなかった。この前のストロベリームーンの夜は、たまたま道路工事のせいでふだんの帰宅路を通れなかったから、代わりに通っただけだ。(すると公園に飛翠がいたものだから、信じられないくらい驚きだったものだ…!)
でも今日は、公園に確かな用がある。飛翠に会いに行かなくちゃならない。
「ハンドルもブレーキも 壊したキミを見て パラシュート外したら 叩きつけられたのさ…!」
歌を、飛翠にも届くようにと大きな声で歌う。あの山型の遊具の中で身を狭めているだろう、飛翠にも届くように。
公園の中へ入ってゆく。そして、あずき色のドーム型遊具の前で、自転車を止める。キィ、イー……ガチャン。
しばらくすると、驚いた顔をした飛翠がそろりとでてきた。身体全部を外に出すよりもすぐ、
「小宵さん…!どうしてここに来たんですか…?」
と言った。四つん這いのままで言った。
小宵はそれを聞くと、満足げに、通学鞄につけていたお守りを取り外す。お守りの小袋は少しふくれていて、中に何か入っているようで、それを小宵は開ける。すると、お守りの中からは黒いチップのようなものが出た。
小宵がその黒いチップを触ると、それは…
「『小宵さん…!どうしてここに来たんですか…?』」
と言った。さっきの飛翠の声を録音して、再生したのだ。
「え!?」
「ふっふっふっ」
「ボイスレコーダー…ですか?」
「正解!」
得意げに小宵はこう続ける。
「ところでヒスイの住んでるところ、私も遊びに行ってみたいな…?」
飛翠からしても、小宵が何をしようとしているかは見当がつく。そしてそれは正解だ。
ボイスレコーダーでセクハラ発言を録音して、証拠にして、訴えるつもりだ。
夜は更けてゆく。
自転車は、飛翠の住んでいる児童養護施設へと向かっていた。
「ねえ、小宵さん。やっぱりやめましょうよ…。」
自転車の後ろにのっている飛翠が、弱々しく言った。
小宵は励ますように返す。
「大丈夫…!今日だけだから。今日だけ、ヒスイがその施設まで私を案内してくれればいい…!」
「そんな…。」
「次の日からは、私一人で、私はヒスイの友達として施設に遊びに行くから」
「それがダメなんです!小宵さん一人であそこになんて、危険ですよ…?」
「うん、危険かもしれないね」
「じゃあ…!」
「じゃあ見過ごせばいいの?…お願い、止めないで。これは、私の勝手な行動だから…!」
「…」
それきり飛翠は黙ってしまった。
「ここが、ヒスイの住んでるところなんだね」
「はい。…あの、」
「分かってる。気をつける。本当の本当の本当に気をつけるって」
自分が今からやろうとしていることは、間違ってることかもしれない。それと間違いなく危険なことだ。
でも決心はできていた。これから…
「ボイスレコーダーでセクハラ発言を録音して、それを証拠に、訴える」
これからすることを、小宵は小声で言った。胸に誓うように、自分を励ますように、小声で唱えた。
「うん…よし!」
覚悟はできた。扉をくぐる。
施設の中を少し歩くと、女性職員と出会う。
「…はい、私はヒスイの友達です。…ええ、えっと、これからも遊びにきていいですか?……ありがとうございます!」
かくして、たやすくここに出入りする権利を手に入れた。
「…行こう」
「はい…。」
少し歩く。
「その男性職員には、引っ越した初めの日の後は、一回も会ってないの?」
「いえ…その人は午後10時には仕事を終えて帰るはずなのですが、たまに10時をまわってもまだいることがあって…。」
「で、はち合わせることもあるんだ」
「はい…。」
「そうか…」
それから、施設の中を飛翠に案内してもらう。飛翠の部屋にも少し寄った。ベッドがふかふかなのだけ確認して、飛翠の部屋を後にする。
廊下を歩く。…すると、飛翠の手に力が入った。繋いでいた小宵の手がギュ、と握られる。
「!」
その瞬間分かった。目の前にいるその男が…加害者なのだと。こいつが、飛翠を苦しめている奴なのだと。
「あ、こんばんは。ヒスイの友達です」
笑顔を見せる。
男が何か言った。どうも、自分は仕事を終えたのでこれから帰るのだ、と。今度はもっと早くに飛翠と遊べばいい、と。そう言って、最後まで飛翠の方を見ながら去っていった。
「…」
テレビで見たセクハラは大きく二種類に分けられていた。『加害者に自覚がない』のと『加害者に自覚がある』やつだ。あの男は後者だった。
あの男は、多分だけど、飛翠の怯えている姿も含めて楽しんでいる。
「ふっ、ふう…ふっ…」
隣で、飛翠が動悸のように息を切らしている。酸素が喉に詰まってしまった。
背中をさすってあげる。
「ごめんね…ヒスイ…大丈夫?」
「はい…ごめんなさい小宵さん…。」
次の日、土曜日だった。夜に、親に「行ってくる」と言って出て行く。
今日も児童養護施設に行く。
まだオレンジが名残惜しそうに残った空に細い月が浮いていた。ちぎったような雲もちらほらあるが、月を隠そうとはしない。細い月は、明後日にはすっかり消えてしまいそうだ。
今ごろ翡翠は、閉館した図書館から公園へ向かって歩いているころだろうか。これから、飛翠の住んでいる施設に行く。
午後6時、施設に着く。ひぐらしの鳴き声をくぐり、チープなピンクの門扉を抜け、その先の扉に手をかける。チャイムを押してしばらくすると大きめの扉が自動で開いた。ちゃんと職員に『施設の子の友達』として認識してもらえたらしい。
「お邪魔しま〜…す」
靴を脱ぐ。靴下で失礼させていただく。
小宵は通学鞄を背負っている。塾の帰りに寄ったという“てい”だ。無論、通学鞄についているお守りの中ではボイスレコーダーがしっかり稼働中。
作戦は、塾帰りに施設の子供たちと遊びにきたことにして、施設をうろつく。そこで、あの男とすれ違うこともあるだろう。そこで軽い会話を交わしていく。今日成功しなくてもいい。何日も会話を重ねてゆく。
「…!」
早速…あの男だ。立ち止まって、「こんばんは。遊びに来たんです」と自分がここにいる理由を説明をする。男は予想通り、飛翠がいないことについて聞いてきた。「一緒に学校の課題を準備してたんですけど、ヒスイはもう少し残ってするそうです」と言っておく。そうか、と男が低い声で言った。それから、今どこにいる、と聞いてくる。「えっと…別れたの、けっこう前の時間なので今どこにいるかは…」わからないということにしておく。それを聞くと男は無愛想に去っていった。
しばらく施設を見て回ることにする。まず、そこらへんにいる職員をつかまえて、話を伺う。「ヒスイって、施設じゃどんな感じの子なんですか?」なんて、なにげない話を交える。…しばらくして分かったことは、この施設の職員は大半が中年以上の女性であるということくらいだ。
「さて…子供たちの様子も見てみようかねー」
「施設の子供たちと遊ぶためにきました」ということにしている手前、少し様子くらい見てみることにする。…本当に子どもばっかりだ。今のところ、中学生以上の子を一人も見かけていない。
「…!こ…こんにちは。ヒスイお姉ちゃんの友達だよ。よろしくね」
「…」
今も一人、幼い子が自分を無視して走っていった。
帰りはいつも少し震えている。なぜって、単純に夜が怖いからだ。施設からは、遅い時刻に帰る。
「飲もう ライライライ みんなで踊れ ヒップホップ オー ピーポー かけてよミラクル ナンバー…!」
歌はすぐ夜に溶けていく。だから自転車で帰ってるとき、歌いっぱなしだ。
次の日も、あの男性職員となにげなく会話して、しばらくてきとうに過ごして、また帰る。
次の日も、
「あ、こんにちは。え?…ああ、はい。ヒスイはいつも遅くまで課題に取り組んでますよね」
次の日も、
「こんばんは。ヒスイがほんとは何をしているか?…さあ、今度覚えてたら聞いてみようかな」
次の日も、
「ああはい、こんばんは。え?似合ってますか?…それはどうも」
次の日も
「こんばんは。あはは…そうですね…。ヒスイってば、こんな時間までどこほっつき歩いてるんでしょうね」
次の日も
次の日も
次の日も
次の日も
次の日も、
次の日も、施設に通って、すれ違いざまに小さな会話を交えた。
「こんばんは。あ、見てください。これ、この前にヒスイと遊びに行ったときの写真で…え?送ってほしい?なんでですか?」
1日たりとも、ボイスレコーダーをオフにしたままここに来たことはない。
その帰りは、毎回歌を歌いながら帰った。
「みんなで行こう 僕たちの夢 ほら 広がる世界の先へ…!」
今日も歌を歌う。夜に呑み込まれてしまわないように。
学校では当然、以前通りに、飛翠と一緒に過ごした。放課後はできる限り最後まで、一緒にいたかった。あの歌だって完成させなきゃならない。
「小宵さん小宵さん、こんなフレーズはどうですか?」
「いいねこれ…!しかも、もしかして…歌詞一番のココと対応したフレーズになってる…!」
「やったっ…!」
「…そうだヒスイ、歌の題名の方はもう決まってる?」
「いや…まだです。歌詞の二番もそろそろ完成でしょうし、早く曲名も決めなければいけないかもですけど…。」
「ね。…夏休みまでには題名も決めちゃって、完成させたいね」
「ですね〜。」
セミの鳴き声を浴びて汗をかく。もう七月の中旬になっていた。夏休みも近い。夕立もたびたび来た。そのたびに…震える飛翠を見るたびに…彼女が愛おしくなる。そして苦しくなる。
思えば、出会って数ヶ月の仲なのに。かけがえのない存在となっていた。飛翠が大好きで、二人で作っているこの歌が大好きだ。
ある日…夕立の日。
豪雨に晒されたというのに、雨が止むとセミはすぐ再びうるさく鳴きはじめる。
「あ〜、あづい」
「暑いですね。」
夕立の放課後に、二人でこんなことを言った。
「…私さ、自分の名前好きじゃないんだ」
「…どうしてですか?『小宵』って…小宵さんらしくてかわいいのに。」
飛翠の「小宵さん」呼びはいつまでたっても変わらなかった。(いつだったか、「別に“さん”なんて付けなくてもいいのに」と言ったのだけど、どうしてかこの呼び方が好きらしい。)
「ありがと。でもやっぱり好きじゃないな…『小さな宵』だなんて、夜を怖がってる自分のことを、自分の名前にまでバカにされてるみたい」
「小宵さんは気にしすぎですね。」
「私は気にしすぎですか〜」
「ええ、気にしすぎかもです。」
くすくすと笑った。
「ヒスイは…飛翠っていう名前の由来とか教えられたの?」
「私ですか?…さぁ、聞く前に親は遠くへいっちゃいましたからね〜…。」
「あ、ごめん──」
「ううん。でも、私は、はっきりと言いますけど、この名前嫌いですね。」
「…えっそれまたどうして」
「だって、『飛翠』ですよ?『飛雨』と『翠雨』が由来に違いありません。…自分の名前の由来が雨から来てるなんて、やっぱり嫌です。」
「恵みの雨じゃん。いい名前じゃん」
小宵がからかうように言う。すると飛翠はまた、口角をちょっとだけ上げて、
「でも、小宵さんに『ヒスイ』って呼ばれるときだけは、自分の名前が好きなんです。」
なんて言うんだった。
さっきまでうるさかったセミの鳴き声が、妙に静かだった。
…そんな会話を放課後にした次の日だった。夏休みまであと数日となった日。朝から夜までずっと暑い日だった。いつものように午後8時40分過ぎくらい、施設から小宵は帰ってくる。
「新たな旅立ちに モーターバイク オンボロに見えるかい ハンドルはないけれど 曲がるつもりもない…!」
歌い始めた歌をストップして、自宅の扉を開ける。
「ただいまー…!」
今日はちょっと興奮気味だ。
「母さん母さん!」
叫ぶ。
しばらくして、お母さんが2階から下りてきた。
「しー…!大きな声出さない。今、お父さんが会社の人と電話してるんだから」
「それよりもこれ聞いて!」
母親の忠告を無視して、大きな声を出す。それから鞄からお守りを取り出す。中のボイスレコーダーを再生。
「『─────────────』」
その発言は、男の低い声で、下品な内容のものだった。
「あらまあ」
「これ…どう!?」
実は少し前に、事情を全部話した。「児童養護施設に通っている自分の友人がセクハラに遭ってる」と、食卓で話した。家族全員が協力すると言ってくれた。
つまり、小宵が、セクハラの証拠になり得る発言を録音できたのなら、お母さんが訴えてくれる。
あの男の飛翠に関する罵言。それをボイスレコーダーで再生していると、ソファに座っていた弟がこっちに来る。
「げっ、気持ちワリー。これあれば、この男、一発で刑務所だろうね」
と笑いながら言った。こいつもたいがい趣味が悪いな、と姉は思った。
お母さんはこう言う。
「ともかく、これは十分な証拠になるわ。…知り合いの弁護士にはもう、事情は話してあるから。この音声を提出して、本格的に勝負に出るわよ」
それを聞くと、小宵はその場にへたりと膝を崩す。遅れて、涙が走りはじめる。視界がぼやけ、何も見えなくなるので、目を閉じる。
「は、は…長かった…。…長かった…」
お母さんが背中に手をまわして、優しくさすってくれる。
「長かったよお…!」
わんわんと声をあげて泣く。涙が…溢れる。これまで…長かった。本当に長かった。
これで、これで、これで、飛翠を助けることができる。
もう大丈夫なんだよ、ヒスイ。明日学校で、早く伝えてあげたい。レモン色の太陽輝く早い朝から学校へ行って、伝えたい。明日の朝、きっと「おはよう」よりも先に「ヒスイ!」と言ってから話をしよう。「ヒスイ」…早く、彼女の好きな彼女の名前を、呼んであげたい。そう思った。
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