破
飛翠は、小宵が去ってからもそこにいた。そっと手を耳にあてがうと、世界中の…全ての音がくぐもった。金属音のような、電子音のような、高音の耳鳴りだけが鮮明に聴こえる。大変不快だが、雨音を誤魔化してくれるのだからそれでもありがたい。
五分前、小宵が去った教室。五分前まで小宵が座っていた椅子は、当然だが、彼女のぬくもりの残滓すらも残っていない。一人で教室で過ごさなければならない。生徒の強制帰宅時間である午後六時半までは、教室に居残るつもりでいる。
雨音がうるさい。歌でも歌ってごまかそうか。
「こんにちは ありがとう さよなら また逢いましょう…」
この綺麗なソプラノも、当の本人にはくぐもって聞こえた。
窓の外、紫と灰を混ぜたような空には模様もクソもない。空一面が暗い雲に包まれている。二酸化炭素を吐き出して、まぶたを閉じたままで揺れながら、時が過ぎるのをただ待ち続ける。
「まっかな太陽 沈む砂漠に 大きな怪獣が のんびり暮らしてた…」
小宵が去ってから何曲目の歌だろうか。歌を歌っているとき、チャイムが鳴った。六時三十分。生徒は問答無用で帰宅しなければならない。
「あ…」
仕方がない。学校から出ていかなければならない。教室に鍵をかけ、職員室に鍵を返しに行くことにする。
ノックを三回。「失礼します。」自分の学年、クラス、名前を述べてから要件を伝える。「教室の鍵を返しにきました。」教職員共からなにかを言われることもなく、鍵の返却を済ませる。「失礼しました。」職員室前の廊下には、傘がずらっと並べられていた。こういう雨の日に傘を忘れてきた生徒に貸すためのものだ。つまり飛翠は借りる必要がないものだ。
若干頼りないような気もするビニール傘を開く。バサッ。一歩外へ踏み出すと、ばらばらと、絶え間なく雨粒が傘の上で跳ね始める。すぐ頭上で大嫌いな雨の音がする。
梅雨の湿気と一日中付き合ったせいでうねりを寄せる長い髪。別に、これが理由で雨が嫌いな訳ではない。しかし、だとすると何故彼女はこうまでも雨を嫌っているのだろう。
「(どうして、私は、こうまでも雨を嫌っているのでしょうか。)」
答えを出す為に自問自答を開始した訳では無い。そもそも、自問自答にすらなっていない。これではただの自己嫌悪だ。
でも今の彼女を見て、客観的に見ても言えることがある。「そんなに雨が嫌いなら、とっとと家に帰ればいい。」そうするべきだ。家に帰ればいい。…可笑しいことに、とっとと家に帰ればいいのに、彼女の足は、家…もとい児童養護施設へ向かっていなかった。
雨が降っていると、心が細くなる。葦のように、ただ身を委ねるしかない。人間が、か弱い…葦のようなものであることは重々承知している。しかし雨はしつこくその事実をを自覚させようとしてくる。…そう飛翠は感じていた。だから雨が嫌いだった。
「のびろのびろ だいすきな木 みんなみんながすきだから ひとりひとり そらにむかって いきをしているよ…」
歌っているうちに
「(着いた。)」
公園。よく分からない工場の裏にある、小さな公園に着いた。入り口というか公園の外っ側にある溝みたいなところには、泥水が浅くだが溜まっている。鈍い銀色をした溝の蓋を踏み越え、水を含んで柔らかくなった公園の土を踏む。…しかし本当に小さい公園だ。遊具も…四つしかない。滑り台、ブランコ、鉄棒、それとドーム型の小さな山みたいな遊具だけ。
名も分からない小さな公園だ。中学校からずっと遠くのとこに位置していて、児童養護施設からもかなり遠いところに位置する。近くに一つ小学校はあるが、そこの子たちには人気がないらしい。でも、ひとけがないからこそ、飛翠は落ち着くことができた。さらに飛翠が評価できるポイントがある。それはやっぱり、飛翠の家…児童養護施設からかなり遠い、ということだ。児童養護施設から歩いてどれくらいだろうか…。少なくとも、「歩いて来よう」とは考えない距離だろう。自転車に乗ったって、きっと数十分はかかる。
名前も分からない小さい公園だ。ひとけもない。
公園の中央まで歩く。「ふぅ」とも「はぁ」とも取れる曖昧な溜息を吐き、傘を閉じる。それから、身をかがめた。ちょうど、四つん這いといった感じだ。目線の先には、ドーム型遊具。
淡いあずき色の、小型の山のような遊具。山の中がくり抜かれていて、出入り口として穴が一つぽっかりついている、シンプルなものだ。中学生には少し狭い洞穴に…飛翠はもそもそと入っていった。そして、その中で体育座りした。スカートに砂がつく。
それからどうしたのか、というと。
3時間、ずっとそこにいた。
午後9時。飛翠は体をよじらせながら、洞穴から出る。背伸びする。ずっと体育座りしていた訳ではないが、長い間窮屈そうな姿勢をしていたために体のあちこちが凝っていた。外はとっくに雨なんか止んでいた。湿った土を踏む。
結局その日、飛翠は午後10時をちょっと過ぎたくらいに、児童養護施設に帰宅を完了した。
入り口の手前で、傘についた雨粒を充分に振り落とす。それから入ると、職員の一人であるおばさんが掃除をしていた。
「あら、飛翠ちゃん。おかえりなさい。今日も遅いわね〜…」
心配そうな声。
「は…はい。」
ここで間を空けるべきではない。すぐに次の言葉を充填する。そして発言。
「え、と…、ゆ、友人と遊んでいました。放課後、学校の教室で。帰宅が遅くなってしまいごめんなさい。」
頭を浅く下げる。
飛翠のつむじが視線に映る。職員のおばさんは、取り繕うような笑顔を見せる。
「いっ、いいのよ別に。ちょっと心配しただけ。無事ならいいのよ」
「ご心配…ありがとうございます…。」
「さ、飛翠ちゃん。晩ご飯はもうお友達と食べちゃったのかしら。まだなら…作っておいたのを、今から温め直すわよ。」
「ありがとうございます。それでは、お願いできますか?」
中へ入ってゆく。その足取りは重かった。
その後、風呂に入るには遅すぎたのでシャワーだけを軽く浴びて、温め直された晩ご飯を食べた。実に10時間ぶりの食事だった。歯磨きする頃にはもう11時を過ぎていた。がらがら、ぺ。歯磨き粉の絡まった唾液を吐く。それから…ようやく、彼女は安堵の息を吐けた。唾液を吐いたついでのようだった。
もう大丈夫だと、安心しきる。今日の平和は約束されたのだ。別に、今日に限った話ではない。彼女の平穏は、学校で小宵と一緒にいるときと…午後10時以降のみだった。午後10時…児童養護施設の一般職員が勤務を終える時間だ。つまり、あの男と会わずに済む。
施設は居心地が悪い。罵詈と雑言を浴びせてくるあの男がいる。他の職員はあの男の言動には気づかないし、施設は幼い子供ばかりで、相談する相手がいない。居場所がない。居心地が悪い。これではまるで…ここは…「屋根があるだけ」だ。こんなところで雨をしのぐよりも…
「(こんなところよりも…。)」
公園の方がましだ。
公園のドーム型遊具の中で少し寝てしまったために今、眠気もなく、しばらく布団の上で歌を聴いた。
ホットケーキのような、サークル状のポータブルCDプレーヤー。歌は様々なジャンルのものを聴いた。でも特に好きなのは、童謡みたいな歌だった。
明日は土曜日だ。ゆっくり、心ゆくまで歌を聴こう。
次の日、雨が降った。次の日も、朝から雨が降った。日曜日に雨…これは最悪だ。最悪以外の何でもない。でも、休日も、彼女は公園へ行った。
昼ごはんを早々に済ませると、ビニール傘を開きながら図書館へ行く。そこで閉館時間まで本を読んだ。それから、わざとゆっくりに歩いて、公園へ行く。着いた頃には、雨雲の向こうで日が沈み始めているらしく、どんどん暗くなってゆく。ドーム型遊具の洞穴にはもう一筋の光も差さない。その中で彼女は、一人静かに時間が過ぎるのを待った。
彼女は暗闇の中、目をつぶって、唇を震えさせるばかりだ。
「らしくないなんてね 笑うのはやめて ホントの私を 知らないだけだよ…」
世界は雨の音だけみたいだった。
平日も休日もこればかりは変わらない。夜遅くに施設へ帰った。
次の日、日の出とほとんど同じ時刻に起床。その瞬間はまだまだ暗かったが、しばらくすると世界がレモン色に輝き始めた。更にしばらくして、空は水色に染め上げられる。ああ、晴れてくれた。
「青い空が お日さまにとける 白い波が 青い海にとける 青い空は…」
誰にも聞こえない小さな声で歌でも歌いながら廊下に出る。
静かだ。誰にも聞こえないよう、いっそう小さな声で歌うように気をつける。
施設の子供たちの誰よりも早くに朝食を取り、学校の生徒たちの誰よりも早くに席に着いた。朝の冷たさも消え失せ、蒸し暑い月曜日が始まった。
「晴れてよかった…。しばらく…待ちましょう。」
朝っぱらからリコーダーを吹くわけにもいかず、たまに暑さからくる汗をたらしながら、誰かを待っている。
ガラッ。扉の開閉音。
「!」
音の方を向き、笑顔を見せる。
「おはようございます、小宵さん。」
「おはよー、ヒスイ。なんか…ゴキゲンだね?」
「晴れましたからっ。」
「あー…そういえば4日ぶりの晴れだね。金土日がずっと雨で…」
今日やっと晴れた。
小宵は、背負っていた鞄をするすると下ろして、自分の席の机の隣のフックにかける。それから、すぐに飛翠の座っているところまできた。
「しっかし、あっついなぁー…」
「ですねぇ…。」
窓の向こう、東に浮かんだ太陽。ここから見れば小さな小さな光の粒だが、力強く輝いている。そんな太陽のずうっと手前に、(でもここから遥か遠くに、)入道雲が流れていた。一見、大雑把にもくもくとふくらんでゆくように見えて、そのくせ細部は信じられないほどきめ細やかだ。白い自然の彫刻は今、その下に局地的な激しい雨を降らせているのだろう。(ここからは、その激しい雨までは見えないが。)
それを、見つめていた。
「でっかい雲だなぁ。もう夏かなー」
隣で同じように雲を見つめていた小宵が、ぽそっと言った。
「初夏ですね。」
と飛翠が答える。
初夏だ。あと二週間もすれば蝉が鳴き始めて、それを皮切りに本格的な夏が始まる。これから入道雲を見る機会が増えてゆくだろう。
「ヒスイは雲、好きなの?」
「好きですよ。」
入道雲は大好きだった。
小宵はいかにも「意外」と言いたげな顔をした。その気持ちも分かる。雨が嫌いなのに、雨雲は好きというのだから。それはおかしいことかもしれない。飛翠は続ける。
「入道雲の下に降る豪雨は大嫌いですけど。」
「なのに入道雲は好きなんだ?」
「はい。雨は嫌いですが、雲は好きです。いずれその雲が雨を降らせるとしても。」
「んー…」
「ほら、小宵さんだって、“朝”のことまでは怖がらないじゃないですか。朝は必ず夜になるのに…夜は朝の延長上にあるのに。“夜”のほうだけを怖がっている。」
「なるほどね」
それから、教室に人が増えてゆく。月曜日の一時限目は『国語』の時間だ。
そして、月曜日の六時限目は『社会』の時間だった。今日最後の授業を終えて、教室には帰宅のムードが漂い始める。
「ふぅ…。」
トントンと机に音を立て、教材の足並みを揃える。そうこうしている間に終礼が始まり、また、終わった。
放課後になると、生徒の大半はそそくさと教室から出てゆく。これから部活へ向かう者や、帰宅して勉強する者…塾へ直行する者もいるかもしれない。先生も去り、ただの少女二人だけが教室に残った。
くるり、と顔を後ろへ向けると…目があった。くすくす笑いあう。
「始めましょう、小宵さん。」
「そーだね」
おさげが揺れた。
「え…っと、どこまで進んだっけ。ヒスイ、リコーダーお願い」
「はい。」
通学用の鞄からリコーダーがにゅっと伸びて、抜き取られる。飛翠はリコーダーを咥え、いつも通り吹き始める。
一分くらい。小宵は目をつむって聴いた。
「いい感じだよねぇ…やっぱり」
「ありがとうございますっ。」
小宵が、表紙がピンク色のノートを開く。ノートは最初数ページだけ国語の勉強の跡が見られて、その後は…いろんな単語がでたらめに書かれているページが続く。単語は、『海』だったり『星』、『雲』とか…『星の瞬き』というのもあったりした。そんなページがしばらく続くと、次第に単語ばかりでなく短いフレーズが生まれはじめる。ページ端に思いつきのようにメモされたフレーズ達は、次のページでくっついたり、さらに三ページ先でバラバラにされて…組み合わせを変えたり、単語を挟み込まれたりした。少しずつ文字の羅列は膨らんでゆく。そして…このノート最後の1ページで、伏線回収を果たした。最後の1ページ…そこには題名もない歌の歌詞があった。それは…
「やっと…一番の完成?」
やっと…一番の完成だった。
小宵がニッと笑う。あとは二番。歌詞の二番を書いて、それから曲名…歌のタイトルを付けて、完成。それだけなのに、それだけが、とても時間がかかる大作業のように思えた。そして、楽しみだった。
完成はまだまだ先だろうなあ。
二人ともおんなじことを考えていたのだろうか、目を合わせると、「ふふっ」と息が抜けるように笑った。
「まだまだ先は長そうですね…。」
曖昧な微笑みを浮かべたのは飛翠だ。それに対して、小宵はどこまでもはっきりと明るい笑顔を見せる。
「そうだね!そーいえば、二番のAメロ Bメロ サビの曲調は一番とおんなじなんだから、新しく曲を作る必要はしばらく無いよね?二番の歌詞はさ、一緒に作らない?」
「いいですね…!」
すると、「そうと決まれば…」と小宵が通学用の鞄から何か取り出した。それは新品の…まだビニールにも包まれたままのノートだった。「さっそく!」と言って、びぃー、とビニールを剥がす。彼女がフェルトペンを走らせたあとには…ピンクの表紙に『歌詞ノート 2冊目』の文字があった。
「あの…。」
コト…。どうやら飛翠がリコーダーを机の上に置いた。
「ん?」
飛翠の方へ顔を向ける。
「あの、小宵さん、すみません。歌作り…こんなに長引いてしまって…。」
「ええ!?今更それはないよ!…最後まで、私にも付き合わせて…?」
「!」
「…そんなことより、歌詞二番目!早くこっち座って!」
「は…はい!」
火曜日、雨の日も、水曜日、五時限目くらいに夕立の来た日も、木曜日、まだ水溜りの乾き切らない今日も。二人は歌を作った。
「そういえばさー、題名とか考えてる?」
「題名ですか?ぜーんぜん決まらないですねー…。題名が歌詞のワンフレーズに入っている歌も多いので、今の段階である歌詞から探してみたり…してるんですけどね。」
「なるほど。うーん」
「小宵さんは何かいいのあります?」
「えー?…」
太陽が雲から出てきたのか、ふわっと教室が明るくなる。日差しが強くなってきた。蝉はまだ鳴いていない。
「あっつい…あっついなぁー!」
「初夏ですねぇ。」
「初夏ね…。にしても…暑い。明日から体育だというのにね」
「あぁー…そうでしたね…。」
そういえばそうだった。『保健体育』の時間に『保健』を学ぶ期間は今日で一旦の終わりだった。明日から『体育』が始まる。
放課後は、余すことなく小宵との時間に費やすようになっていった。午後六時半、沈んでゆく太陽が紅く輝くその刻まで、いつも、ずっと、教室で二人なのだった。
「あ…もうこんな時間か」
チャイムが鳴ってから、教職員の声が放送で流れる。「学校にいる生徒はいい加減早く帰ってくれ」とのことだ。
「帰りましょうか。」
「そうだね」
職員室に教室の鍵を返しにいくのももう慣れたものだ。(教職員側も、この二人がいつも鍵を返しにくるのにもう慣れた。)それから校門をくぐると、すぐに別れる。
「ヒスイの帰り道は…っと、あっちなんだよね。私とは真逆だな〜」
「小宵さんの家はここから西に数分ほどのところでしたっけ?」
「そうそう。通ってる塾は東の方だから、そっちなんだけどね。…あっ、そうだ、今度、ウチに遊びに来ない?」
「いいんですか?」
「もっちろん」
「やった…!」
それから少し話して、今度こそ「さようなら。」「ん、またね」と言って別れる。楽しみな予定ができた。
これから公園へ行って、そこにあるあずき色のドーム型遊具の中で、午後十時まで過ごす。いつもならこれから憂鬱だけど、今日は太陽が真っ赤だ。太陽に照らされた遠くの入道雲は、紅くて、ザクロの粒をつみ上げたように輝いている。
日は沈み、また、日が昇った。
金曜日は朝日を迎えた。つまり朝は…晴れから始まった。
しかし新聞によると「午後から雨」とのことなので、傘を持っていくことにする。
今日も飛翠は一番早くに教室に入った。
「(そういえば今日から体育でしたね…。)」
重い溜息をつき、体操服の入った巾着袋を机の横にかける。
一時限目は数学。体育は二時限目だった。どうも、マット運動をするらしい。
積極的な生徒がいつまでもマットでころころしているのと対照に、小宵と飛翠はというと…ほとんど参加せずにふたりで外を眺めたりして過ごした。体育館の大きな窓の外を眺めながら、二番の歌詞を考えたり、おすすめの曲を教えあったりした。
「(あ…。)」
窓の外で、日がかげる。雲は薄く、雲の向こうに太陽の輪郭がくっきりと見える。青い風におぼろ雲はなびき、流されてゆく。
「雨が近づいてきてるね」
と隣で小宵が言った。
「ですねー…。」
丁度、体育館から隣教室へ向かって階段を上りはじめたころ…外でぽつぽつと音が鳴りはじめた。土の匂いがふわっと香りはじめる。はじまりはそんな調子で軽かったが、次第にざあざあと大きくなってゆく。
「大丈夫?」
小宵が心配してくれた。
「ええ。」
飛翠は苦笑いで返事する。心配をかけてしまった…。自責の念が心を静かに締める。
席に着くと目をつぶって、冷静になるようにと自己暗示をかける。嫌な汗が伝って、背中に服が張り付く。できることなら今すぐ耳を塞いでしまいたかったが、もうすぐ三時限目の授業が始まってしまう。
か弱い心は、静かに、雨雲が通り過ぎますようにとだけを永久に祈っている。
でも、今日に限っては、飛翠はいつもよりはちょっぴり心が強かった。なぜって、明日、小宵の家で遊ぶ予定がある。…ふと、“小宵”という存在が自分の心の大きなウエイトを占めていることに気づく。
雨は降り続ける。
雨は翌朝になっても止む気配がなかった。おかげで寝不足だ。(もっとも、寝不足の原因は雨の他にもあり、例えば…というか最大の原因は、小宵と遊ぶのを楽しみにしすぎていたからだ。)
「ここ…で合ってますかね。」
胸の鼓動がいつもより強い。表札を確認する。…ちゃんと、小宵の苗字が刻まれていた。ここは小宵の家の前だ。
ピンポーン。軽快な音が鳴って、すぐ雨に溶ける。外の雨は結構強く、飛翠は傘を差してきていた。
「はーい!」
声がしてからすぐに扉が開く。小宵が口を開けて笑顔を見せる。いつもはおさげを結んでいるのに、今日はほどかれたままだった。肩に当たらないくらいの短い髪。
「いらっしゃいっ」
「お邪魔します。」
「どうぞどうぞ」
「…小宵さん、似合ってますよ。」
そう言うと、小宵は「へっ!?」と素っ頓狂な声を一度上げたきり、黙りこくってしまった。
黙ってしまった小宵に案内されるままに、玄関を上がり、廊下を行って、2階へ上って、小宵が開いてくれた扉の向こうへと入ってゆく。
「わ…ここが…!」
「うん。私の部屋」
白い壁と、ベッド。そのそばに小さな本棚があって、向かいの壁にはテレビ台代わりのカラーボックスと、その上に小さなテレビ。それくらいだ。シンプルな部屋。
改めて「お邪魔します。」と言うと、小宵は「どーぞ」と言ってすぐにそそくさとカラーボックスの方に向かっていった。2つのヘアゴムが置いていたらしく、それをぱっと取った彼女は、すぐに髪を結う。いつもの二つ結び…おさげになってしまった。
「…」
「…」
「似合ってますね。」
からかうように言ってみる。
「なっ…!?」
その後、中学生にしては遅い時間まで遊んだ。
「あはは、そうだ、私、久しぶりに小宵さんの歌が聴きたいな。」
「えっ、えー…家族にまで聞こえ…」
「外は雨ですよ。」
「う、く……何歌ってほしいの…」
結局、雨はずっと続いた。でも…どうでもよかった。カクテルパーティーのように、雨をかき分けて小宵の歌だけを聴く。耳を塞ぎたくなるような雨も、小宵の歌のうらで流れてる分には、構わない。
些細な雨は、飛翠が「そろそろ門限なので帰らなくちゃ…。」というくらいの時刻にぽっと止んだ。当然、門限なんか嘘だ。小宵が「もうちょっと居ればいいのに」と名残惜しそうにしてくれる。そう言ったとき、小宵は気づかなかったんだろうけど、飛翠はちょっと笑った。
(「じゃあ ずうっとここに居てもいいですか?…なんて、言ってみたらどう返事してくれるのでしょうか。」)
居心地のいいこの部屋に小宵と2人でこもって、何からも逃げ切ってしまいたかった。でもそれが叶うはずもないことは理解していたので、「今日はありがとうございました。」と代わりに言う。「うん。またね」と小宵がひらひらと手を振ってくれた。
太陽が山の輪郭だけを朱く染めている。空はこれからみるみる暗くなってゆくだろう。…当然、この時刻は飛翠の門限ではなかった。家に帰るのはまだまだ先だ。
これからいつも通り、いつもの公園に行って、ドーム型遊具で過ごす。やっぱり児童養護施設には帰らない。だって、施設には夜遅くまであの男がいる。
ただ、努力の甲斐あって、あの男とはしばらく顔を合わせずに済んでいる。相手はどうだか知らないが、“ああいうこと”を言われた側は忘れるはずがなかった。その短くもおぞましい発言は確かな恐怖として、飛翠の心にこびりついていた。
公園までもうしばらく。小宵が教えてくれた歌でも歌ってみようか。
「忘れていた目を閉じて 取り戻せ 恋のうた 青空に隠れている 手を伸ばしてもう一度…」
その夜、月がかなり太っていることに気づいた。
次の夜、ほとんど満月だった。素人目には、満月と変わらないほどにまんまるだった。
さらに次の日、月曜日を迎える。これから一週間が始まるが、学校は始まらなかった。というのも今日、6月20日は…彼女たちの学校の創立記念日だ。おかげさまで生徒には休暇が与えられる。生徒たちは、さぞ、学校の誕生日をおめでとうと祝っていることだろう。
飛翠にとっては、くだらない日曜日が増えたようなものだ。図書館で適当に時間を過ごして、その後公園で無為に時間を腐らせる。それだけの休日。
そういうわけだから、今日も彼女は公園に足を踏み入れている。
そのとき、いつものあのドーム型の遊具の前で、何かがキラリと輝いた気がした。遊具に向かって歩いていくとその輝きも大きくなってゆき、形や色が分かってきた。それは宝石のようなカットがされていて、ルビーのような赤い輝きをしていた。つまりそれは…自転車についている反射材だった。車のライトが当たると光を赤く反射させるので、これがあれば夜道も安全だあ、というヤツだ。
反射材が落ちてただけだ。そのこと自体は気を留めるほどのことでもなく、スルーしようとする。しかし、ふと、気になったのは、近くに光源はないのにどこの光を反射して輝いていたんだろう…ということ。周囲をぐるりと見ても、光源のようなものはやっぱりないので、なんとなく上を見上げた。空には、
「あ…。」
月だけがあった。
ストロベリームーン。6月の満月をこういう。6月の満月は、いつも梅雨の雨雲に隠されてしまうので、あまり見れるものではない。梅雨の時期というのは、晴れることも珍しいくらいなのに、そのたまの晴れの日に、満月の日を迎えるとは。神様の粋な計らいか…あるいは悪戯か。
しばらく見とれて、また自分のおかしなことに気づいて、笑う。自分はなにを納得しかけたんだろう。あんな遠くの月の光がここに落ちている反射材に反射している…まさか、そんなはずないのに、そう考えた。もう一度月を見て、それから地面の上の赤い反射材を見て、それからドーム型遊具にのそのそと入ることにした。
今、何時くらいだろう。
今、何時くらいだろう。うとうとしてきた。ということは、何時だろう。億劫だけど、外に出てみよう。公園にはのっぽの時計があるから。
「(短針が九時を越えていたら、そろそろ帰ろう…。)」
四つん這いになって入り口の穴を抜けようとする。
そのときだった。遊具の近くに落ちていた赤い反射材が小さく瞬いたときだった。
こえがした。
「ヒスイ…?」
声の正体を確かめるよりも先に返事してしまう。確認というより確信じみた声でその名前を呼ぶ。
「小宵さん…。」
ようやっと顔を向ける。声の正体を知った飛翠は、声の正体と同じ言葉を言う。
「「どうしてここに」…。」
言葉が重なった。
そのとき、自分はどういう表情を…どういうカオをしていたんだろう。小宵のカオを伺う限り、自分はとんでもない表情をしていたのは確かだろう。目の前の顔をしかめた友人を見て、どういうカオにすればいいか分からない。
「なんでこんな時間に…こんなトコいるの?なんでこんな…」
そう続けた小宵はそのまま口を開き、「あ」を発音するときの形をしたままでいる。
「あ、あ…」
言葉を探す。冷や汗が熱い。小宵が探し終わるのを、飛翠は黙って待つ。数秒して、小宵はようやく言ってくれた。
「危ないよ…」
その言葉は、何よりも深く刺さった。
時計はまだ八時の…三十分といったところだった。小宵は塾の帰りだった。
飛翠は最適解の行動を見つけられずにいる。
「塾の…帰りですか?」
にこやかに言ってみる。
小宵は「そんなの今どうでもいい」と言う代わりに仕方なく説明をする。
「うん…塾の帰り。なんか公園で変な赤い光があったから、気になって見に近づいた」
そしたら偶然にも飛翠とはち合わせになってしまったわけらしい。小宵はあごをクイと動かして、あの赤い反射材の方を示した。
「そうだったんですか…。」
「で、なんでなの。ヒスイ。なんで、こんな夜遅くに、公園で、一人きりで、」
まだ続きそうな小宵の声を遮るように、飛翠は笑顔を向ける。にこりと笑った彼女の顔を見て、驚いたのか小宵は声を止める。
笑顔はふわりと消えて、ただの柔らかな顔をして、飛翠は口を開く。
「ごめんなさい、小宵さん。説明します…。」
それきり口を堅く結んで、自分の話を聴こうとする小宵。彼女を見ながら話すときっと泣いてしまうので、飛翠はサッと視線を地面に落としてから話すことにする。
「え…と。私、両親が、幼い頃に亡くなったんですよ。」
飛翠本人にとってはそんなの、ほんとはどうでもいい、本筋と逸れた話だった。
「親戚の間をたらい回しにされて…でも私の面倒を見たがる人はいません。当然です…。」
それ自体は悲しいことでもなんでもなかった。
「ですから…児童養護施設って分かりますか?身寄りのない子のお世話をしばらくしてくれるところです。そこに入れられまして…。」
胸が張り裂けそうだ。目を泳がせてみると、月光が眩しくて涙ぐんでしまった。
「でも、以前通っていた施設が潰れてしまったので…こっちにある施設に引っ越してきました。」
こんなこと、結論に微塵も繋がらない、言う必要のない話だった。
「以前住んでいたところでは友達こそいませんでしたが…海と星が綺麗でいいところでした。」
どうでもいい話を挟んで、話の結論までを遠回りしようとしている自分がいた。
「でも、引っ越したこっちもいいところです。だって、初めてできた友達がいますから。」
言葉が喉にひっかかって痛む。
「こっちに引っ越してからも友達なんて…諦めていたのに。でも小宵さんと仲が良くなって…。楽しかったです…。」
目を閉じる。小宵の目を見る勇気がない。
「こっちに住んでから、小宵さんのおかげで楽しかった…。」
それは心から思えた。もうここで、話を切り上げてしまいたい。でも話を続ける必要がある。
「でも…こっちの施設は、こっちの施設には。」
ああ、目を開けたら、小宵がここにいるのは嘘だったことになればいいのに。
「いつも怖い人がいて…怖いから…ここまで……ここまで逃げてきちゃいました。」
無理矢理笑顔を作る。膨らんだ頬に涙が伝うのを感じた。涙はすぐに頬を走り切って、通ったところをじんじんと熱くする。
言った。言い切った。言ったところで、事態が良くなるわけじゃないのに。だとしたらさっきの告白は自己憐憫にすぎないのに。小宵は心優しいのでもしかしたら飛翠の悩みを一緒になって悩んでくれるかもしれない。(小宵さんは優しいから私の悩みなのに一緒になって悩んでくれるかもしれない。)でも、それは、悩む人が増えただけ。自分の問題に大切な人を巻き込んだだけだ。それなら、それなら、ほんとは、自分一人悩んでいるだけの方がよかった。なにも、小宵まで悩むことはない…。
目を開ける。すると小宵はまだそこに立っていた。
「!」
「…」
「ふっ…ふふっ。…なんで、小宵さんが泣くんですか?」
「バカ…!」
!
小宵が急に身体を動かしたので、飛翠はとっさに目を閉じてしまう。頬でも叩かれるのかなと思った。でもビンタされたって仕方ないのかもしれない。だから、それを受け入れようとする。
ぼふっ…。
「えっ…?」
小宵は手を振り上げてなんていなかった。小宵は翡翠を強く抱きしめていた。背中に両手をまわして、ぎゅうっと強く抱いている。そのままお互いの顔も見えないままに小宵は、
「なんで…なんでもっと早くに…」
と消え入りそうな声で言ってくれた。声に涙が混じっている。
自分の…自分の体が燃えるように熱くなってゆくのを感じた。ぼろぼろと大粒の涙が溢れる。
「あ、う…う、わあぁ、ああああぁぁぁぁ…」
雨が降っていないのだから、二人の泣き声はどこまでも響いてしまう。夜の公園に、たった二つの声だけがいつまでも響いた。
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