Aメロ

 小宵。7時50分起床。いくら家と学校が近いといえど、この起床時間は正気の沙汰ではない。

「母さん!!!なんで起こしてくれなかったの!!!」

「起こしたわよ。…起きなかっただけで」

それは起こしたとは言わない。起こそうとしただけだ。でもどう考えても非があるのは小宵側だった。

 昨日夜遅くまで歌を聴いていたのが悪かった。正直内心実はマジで焦っている小宵は、パン派・小宵家の朝食をミルクで流し込む。ベーコンを食べながら目玉焼きにケチャップをぶちまけ、傍のレタス共々食う。

「ちゃんと噛んで食べなさいよ」

と、母親がおかんのようなことを言うころには、小宵は洗面所で歯を磨いている。歯を削るような勢いで磨き、磨き、もう磨き終えたらしい。


「いってきます!!」

「いっ」バタン。「…てらっしゃい」

 小宵は走りながら考える。月曜日ならまだしも、火曜日に寝過ごしそうになるなんて…最近ぼんやりしすぎかなあ。今日は火曜日だ。家に帰っても面白いバラエティー番組がない。だが塾もない日なので嫌いな曜日でもなかった。

 とにかく、火曜日に遅刻しそうになるのは珍しかった。もっとも、本当に家から5分くらいで着く位置に中学校があるおかげで、遅刻せずに済んでしまう。このとおり、もう着いた。

「ふー…」

 ギィ、と椅子を鳴らす。短めの二つ結びの髪が小さく揺れる。にしてもやけにクラスが騒がしいな。

 何だろう?何も書かれていないまっさらの黒板を見て、ふと思い出した。

 予鈴と共に先生が教室に入ってくる。「(ああ、そっか。今日、転入生が来るんだった。昨日先生が言ってたんだった)」そうだったそうだった。そしてそれがどうした。小宵にとってはどうでもいいことなので、すぐうつ伏せになったが、直後にクラスがワッと盛り上がる。あまりにもうるさい。とにかく、この盛り上がりようは、教室に転入生が入場したということだろう。…仕方ない。せっかく伏せた顔を上げることにする。

 しかし今は4月だというのに、新学年が始まったばかりに転入してきたというのは、珍しい。どんなやつが転入してきたのか見たくなる気持ちも、正直ちょっとあった。

「…」

 転入生が前の教壇に立っていた。たなびく黒い髪。随分と長い。対照的に白い肌。ほっそりとした腕を上げ…髪をかき分けた、今。

 転入生は一人だけ制服が周り…つまりこの学校指定のものと違った。恐らく、前の学校で使っていたものをそのまま着てきたのだろう。ここのより少し明るい紺だ。クラスメイトの制服に比べると…ちょっと目立つ。


 ただいま唇が開こうとしている様子。つぱっ…と開く様は、蕾が開花するようであった。

「これからよろしくお願いいたします。まず…私の名前は飛翠。ヒスイです。ヒは飛行機のヒで、スイは宝石の翡翠のスイです。」

それは…ソプラノだった。綺麗な、綺麗な、綺麗な、ソプラノだ。

 拍手が起こる。小宵だけが、つい拍手をも忘れてしまっていた。

「うん。皆、これから仲良くしてやってくれ。あぁっ…と、それで席は…あそこだ」

先生の人差し指は、一番前の横列の窓側…左端だった。そこは夏はクーラーが効きづらいし冬は暖房が効きすぎるぞ。

 小宵は一番後ろの列の扉近く…右端であるので、小宵と転入生の席は、教室内で対極に位置しているということみたいだ。遠い。まぁ、別に、席が近かったとしても話す機会すらなさそうだけどね。…とか思いながら、また頭を伏せた。


 6時限目が終わる頃には、給食を食べたせいでぶり返していた眠気も覚め、万全の態勢で帰宅に臨んでいた。早く帰りたい。

 今日も一人でそそくさと帰る予定だ。友達がいないから、は直接の原因ではない。“一人”が好きなだけだ。“独り”は嫌いだけど。でも、よく考えれば私はなんでこうも友達が少ないんだっけ?…よく考える必要はなかった。昔からぼんやりするのが好きな私は、友人と遊ぶことよりも一人でぼんやりすることを選びつづけてきた。それが今の状況をつくったんだった。冷静な自己分析だ。

 どうしてそんなことを急に思ったのかというと、飛翠の様子を見て思うところがあったからである。独りで座っている飛翠と自分を重ねたわけだ。そう、飛翠は今、独りで座っている。周りには、転入生をチヤホヤしようとする者どもがいない。…結論から言うと、飛翠は今後クラスに馴染めないことがほぼ確定した。


 数時間前。自己紹介を終えて席に着いた飛翠は、当然だが最初のうちは囲まれた。どこ住んでたの?このドラマみてる?SNS教えて。かわいい。髪サラサラだね。

 転入生の洗礼というか…転入生の大半が通る道だろう。中学生共にとって、転入生とは、変わらない己の日々に適度な刺激を与えてくれるものにすぎない。親友にもズッ友にもベストフレンドフォーエバーにもする必要はなく、今後の短い付き合いにおいて、新鮮な存在であればそれでいい。多少つまらなくても新鮮であるというだけで人気を得ることができ、多少変人ならもっと刺激的であるとして歓迎される。…しかし飛翠は、クラスメイトにとってどうやらつまらないが過ぎるらしく、歓迎されないタイプの変人であったみたいだ。

 1時限目終わりの休み時間はクラスの半数以上がその好奇心旺盛な目を彼女に向け、べらべらと話しかけていた。しかしどういうわけか、2時限目が終わったときには既に彼女の周りには数人の中学生しかいなかった。小宵はこれを観察していたわけではないが、そういうシーンは自然と目に入った。3時限目の理科で配布された授業プリントをハサミで切ったためにゴミがでたので、小宵は教室の前側にあるゴミ箱に捨てにいった。そのとき飛翠の席の近くまで行ったが…「えぇーっ じゃあ飛翠さんってぇ 家にテレビないのぉ」「は、はい。ないみたいなものかしら。ですから、ラジオを愛聴しております。」「ラジオぉ? えっ 飛翠さん面白〜」「…。」「…ねぇ みてみて私リンス変えたんだ そんでぇ」この時点でクラスのカーストの最高位に位置する彼女たちは見切りをつけたのだろう。飛翠さんは面白くない。という…。

 4時限目が終わったあと、飛翠は一人で給食を食べていた。(小宵もいつも一人で食べてる。)

 5時限、6時限。そして今、午後2時45分。飛翠は誰にも話しかけられることなく黙々と帰宅の準備を整えた。ちょっぴり寂しそうなのは、寂しいからなのか、それとも元々そんな顔なのか。


 これを小宵が気にする理由もない。

「(はやくかえろ)」

そういうことで、小宵は席を立ち、学校を後にした。

 地球温暖化のせいで既にクソ暑い4月前半の空の下を数分だけ歩き、

「アイデンティティがない 生まれない らららら…」

歌ってる間に家に着く。学校と家は本当に近くにあった。所要時間は五分。所要音楽は二曲。

 今日はこの後に塾がないので、比較的ゆっくりできる日だ。「ただいま」と弟に投げかける。「おかえり」と言う弟は、珍しくダイニングテーブルに向かって勉強をしていた。彼女の弟はリビングで勉強をすることが少ない。だから、珍しくて声をかけてみる。「何の勉強?」「数学。中学受験で必要な科目は算数だけど、数学を先取りしといて損はないかなって」ほら、と参考書の開かれたページを差し出す。どれどれ、と問題文だけ見てみる。「………へぇ」触らぬ設問に祟りなし。設問は見るだけにとどめておこう。

 私はほら…文系だし。「あ、そういえば私も今日、宿題があるんだった」思い出して、ソファに放り投げたカバンを拾いにいく。明日提出しなければならないのは、社会と数学。終わったら、塾の宿題にも手をつけたいところだ。

「えーと、社会は資料集を使わないとだめで…」

資料集は他の教科書よりもやや厚く、かなり重く、探しやすい。がさごそとカバンの中で手を動かす。


 なかった。残念だが。なるほど、と小宵は納得がいった。どうりで今日のカバンは軽かったわけだ。

「はあ…」

 学校に資料集を取りに戻らなければならなくなった。4月の午後4時はまだ全然明るくて、暑くはあるがうざったいほどではない。

 学校に着く。運動部の者どもは元気に運動場で活動しているが、文化部はもう早々に活動を切り上げたみたいで、校内にはひとけがない。ちょっぴり怖くて、小宵は歌を歌い始める。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す…」

 教室の後ろっ側の自分のロッカーに社会の資料集は入っているはずである。そして、歌の続きを歌いながら扉に手をかけたとき…!


ソ ソ ラ シ ソ ミ レ

 ソ ソ ラ シ ソ ミ レ


「うわぁあっ!!」

急にリコーダーの音が!!

驚きのあまり後退し、廊下の壁に背中をぶつける。「あいたっ!」しかしその直後に、弾けたようにドーパミンが溢れて痛みは消え去る。人一倍臆病な小宵は、その震える足をどうにか逃げるのに適したフォームに変えようと奮闘する。がく、がく、がく、とようやく一歩後退したところで、がらりと扉が勢いよく開いた!

「ぎゃあああっ!」

教室のでかい扉のくそでかい開閉音にまた驚いて背中をうつ。腰あたりから、ぐきっと音が鳴った気がする。へたりとその場に脚を沈める。立ち上がれない。

 あ…かっ、だめだっ!し…死!?なんでっ、こんなところでぇ…?七不思議…!?学校の七不思議なの?この学校に七不思議があったのっ…!?

 気が動転してマトモでなくなった彼女が、扉の向こうに見たものは…!


「大丈夫ですか?」

 転入生であった。たなびかないその美しい黒い髪は、ここに風が吹いていないことを教えてくれた。右手にはリコーダーを持っている。左手をこちらに差し伸べてくれている。

「あ…」

 なによりもまず最初に安堵がきた。あのリコーダーの音が、学校の怪談として語り継がれてゆくような怪異ではなくてよかった。数秒遅れて、自分の叫び声が転入生に知られた恥ずかしさがくる。恥ずかしい。恥ずかしいついでに、ようやっと冷静になれたのだった。転入生の左手を借りず、なんとか自力で起き上がる。

「え…っと、確か…ヒスイさん?」

「はい。私の名前は飛翠です。」

「放課後の教室で何を…」

「リコーダーの練習です。家ではできませんので…。迷惑でしたか?」

いや、おかしいだろうて。普通、放課後の教室でリコーダーの練習をするイマドキの女子中学生がいるものなの?怖いよ。とは言えない。

「迷惑…じゃないと思う…」

「よかったです…!」

そう言う彼女は心から胸を撫で下ろした。リコーダーを握っていない左手で胸を撫で下ろした。

 でも、あれ?…ん?

「あれ…。私が教室の前を通るまではリコーダー吹いてなかったよね?どうして急に?」

「それは…あの、貴方が歌を歌っていらっしゃったので…。私も音楽を奏したくなったのです。」

歌…?少しして、理解する。「あ!ああっ!うわっ、歌っ、聞かれてたんだ、恥ずかしー…」理解して、勝手に顔を赤らめる。小宵は、他人に自分の歌っているのを聞かせたくなかった。シンプルに恥ずかしすぎるからだ。

 歌を聞かれてしまった。それだけで途端に、一刻も早くここから去りたくなった。遠い街に引っ越してしまいたい。ただ、不幸中の幸いであるのは、歌を聞かせた相手がこの転入生であることだ。転入生は…いってしまえば悪いが、これからこの学校で友達ができそうもない。自分の恥ずかしい歌声のことを周囲に言いふらされることもないだろうと、ひとまずの安心を得る。

 人の心配をよそに、転入生は口を開く。

「恥ずかしいだなんて、そんな。綺麗な歌声でしたよ。それに、素敵な選曲です。」

どう対応すればいいか分からないので、あやふやな感謝を返すことにする。

「あ、ありがとう…」

「はい!ところで、えっと…貴方はどうして教室に戻ってきたのですか?」

 ハッとする。

「あ、そうだった。宿題で、資料集を使うのがあったんだけど、資料集を学校に忘れちゃって…」

と言って、教室に入る。自分のロッカーを見ると、やはりあった。他の教科書の狭間に苦しそうにささっている。引っ張って、引っこ抜いて、手に取ってみると、やはり重い。

「じゃあ、そういうことで…」

「はい。さようなら。」

細い腕を振っている。

 適当に手を振りかえして、さっさと教室から出て行く。一番近くの階段まで来た時に、教室から美しいリコーダーの音色が再び流れ始めた。上手だ。そして、小宵が知っている歌だった。彼女の好きな歌の一つだった。

 さっき転入生…ヒスイが言ったことに少し共感してしまいそうになる。「歌を歌っているのを聞いて、自分も音楽を奏したくなった」という感覚は、きっと自分も持ち合わせているらしい。

 少女一人しかいないだろう教室から聞こえるリコーダーの音。周囲に誰もいないのを確かめてから、リコーダーに合わせるように、口ずさむ。

「探しものは何ですか 見つけにくいものですか カバンの中も つくえの中も 探したけれど見つからないのに…」


「ただいまぁ」

 短時間の出来事ではあったが、なんか疲れてしまった。リビングではまだ弟が数学の問題集と向かい合っている。「おかえり」「うん。疲れたぁ」「おつかれ」「心がこもってないんだよな…」分厚い資料集を机に乗せる。とりあえず、先に軽くシャワーを浴びてくることにする。

 ジャー、ー、ー、ー。柔らかな水の矢に身を包みながら、小宵は今日の出来事を振り返る。鏡が曇ってゆく。「…」二度と、放課後に教室に行かないようにしようと誓った。


「ああ!もう…なんで!?」

 彼女が叫んだのは次の日の午後5時半だった。今日の学業を終えて、家に着いた後に気づいた悲劇。それは宿題となっている国語のワークブックを学校に忘れてきたことだ。

 結局今日も放課後の教室にお邪魔するハメになってしまった。

 四階建ての学校。小宵のクラスは二階にあり、上る階段が少なくて良い。教室からはアルトリコーダーの音色が聞こえていた。

「はあ」

溜息ついでに扉をノックする。数秒し、アルトの音色は名残惜しそうに止まった。

 扉はやはり鍵がかかっていなく、やはり内側からがらりと開かれる。教室の内側にいたのは飛翠であった。やっぱり。手にはリコーダーを握っている。彼女はこちらを見るなり、柔らかい笑顔を見せた。

「こんにちは、こよいさん。」

名前を覚えられたらしい。…覚えられてしまったらしい。

「こ、こんにちは、ヒスイさん」

「どうかなさったのですか?」

「あ…ちょっと今日も忘れ物をしてしまって…教室に取りにきたんだけど。入ってもいいかな?」

「ふふ。どうぞ。」

そう言って、飛翠は、小宵が扉を通りやすいように少しどいてくれた。

「じゃあ、お邪魔します」

 教室に入ってゆく。そして、ロッカーの中から国語のワークブックを探る。社会の資料集なんかは大きくて大きくて見つけやすいけど、国語のワークブックは小さくて見つけづらい。えっと…と一生懸命探す。数学のプリントを挟むためのピンクのファイルと、中学3年生用理科の教科書を、ぐい、と、かきわけたとき、


「!」


後ろからアルトリコーダーの音。振り返ってみると、当然、飛翠がリコーダーを口に咥えているわけだが。だが…聞き流せばいいものを、それは小宵にとって無視できない音色だった。

 びっくりした。なんなんだ、もー。リコーダーの練習くらい、私が帰ってから再開すればいいじゃん。そうやって、日中無休で吹き続けたいほどのものかな、リコーダーって。なんだよ、もう。

小宵は本心からではなくそう思うことにしていた。小宵も心のどこかで、飛翠と関わりたくないと思っていたから。クラスのいわゆる陽キャ共がそうしたように、小宵だって面倒くさそうな人とは関わりたくない。面倒くさそうでつまらない、飛翠さんとは関わりたくない。そう思うのが人の常だろう。

 なんとか飛翠の演奏を聞き流すように努力しながら、国語のワークブックを探しつづける。くそ、見つからない。アルトリコーダーは奏でられつづける。音色は、無視できないくらい綺麗だった。でも、面倒なことになると嫌なので、なんとか聞き流そうとする。なんとか…

「それなんて歌?」

…あ………しまった。


 ほとんど、無意識に言ってしまった。つい言ってしまった。やってしまった。

 あー………白状しよう。本当はこうやって曲名を尋ねることを望んでいた。それは自分が一番わかっていた。綺麗な曲だった…。その曲がもしも歌であるのなら…つまり歌詞があるのなら…それも知ってしまいたかった。そして歌いたかった。本当は、塾の帰りの夜道にでも一人で歌ってみたかった。

 冷や汗がたれていますよと顔の皮膚の触覚がいちいち報告してくれる。冷や汗がたれている。その間、二人は黙ったままだった。飛翠の表情を伺う。何を考えているのか分からない顔をしている。

 小宵は、飛翠が「なにかおっしゃいましたか聞こえませんでした」とでも言ってくれればいいのに、と願っていた。しかし、自分の質問に笑顔で答えてくれればいいのに、とも願っていた。どちらかというと、後者の方を強く願ってしまった。早くその曲の曲名とリズムとメロディーとハーモニーと歌詞を私に教えてほしかった。また、飛翠にリコーダーの演奏を再開してほしかった。早く続きを聞かせてほしい。

 二人が黙りこくりはじめて……4分と33秒ほどが経ったとき……静寂がほどける……。飛翠が口を開いたのだ。

「すみません…。曲名も歌詞もこの歌にはありません。私が作ったこの曲に、私はまだ名を付けていません。」

ぽかーん、だった。急にいろいろと言いたいことができて混乱する。でも、最初に出た言葉はいたって端的で、非難でも文句でも溜息でもなかった。言ったのは次の台詞である。

「作曲できるだなんて、すごい…」

心の底から出てしまった。

 いつの間にか、小宵の口は勝手に開閉するようになっていた。若干震わせながら、でも、言いたいことが確かにあった。

「どうして、そんなに良い曲なのに…。曲名とか考えないの…?」

途切れ途切れに言葉を紡ぐ小宵。出会って2日で馴れ馴れしい気もする、変なこと言ってるのは自分でも分かってる、それでも小宵は言葉を紡ぎ続ける。飛翠もそれに、ぽつ、ぽつ、とこたえてくれる。

「良い曲…ですか。」

照れているみたいだ。

「うん…!すごい…すごいよ。やさしくて…アルトリコーダーとかよく合う曲…だと思う。私は音楽に詳しくないから、ちゃんと形容できないんだけど…なんていうのかな…なんていえばいいのかな…」

 国語のワークブックのこと、飛翠と関わったら面倒なこと、もう日が暮れていく時間であること。小宵は全部すっかり忘れていた。時間も都合も宿題も忘れて、ただその曲を褒めちぎる言葉を探していた。もったいぶらず認めよう、その歌が好きだ。

 飛翠は、くす、と笑った。愛想笑いみたいな些細な僅かな笑いだったが、小宵にはそれが絶対に愛想笑いでないことが分かっていた。

「ありがとうございます。私…嬉しいです。」

まぶたを下ろして飛翠は柔らかい笑顔を見せる。

「あ、えっと…ヒスイさんはこの曲、いつ…作ったの?」

「ずっと前から作り始めて、今もまだ途中なのです。…前は、海の近くに住んでいたので、ひとけのない海でリコーダーを吹くことが多くて…。そのときに作りました。」

「海…か。確かに、海のさざ波はイメージに合うのかも…」

「さざ波…!言われてみればそうですね…!」

「それで…曲はまだ、途中なの?」

「はい。曲名がないというのも、実はそのためです。この曲は、誰に発表するでもなく、自分が楽しめる曲を作ろうとして作り始めました。ですから、リズムもメロディーも、その時々で気分によって少しずつ変わってゆきます。永遠に完成する気配がありません…」

そう言った飛翠の表情を見たとき小宵はつい、素敵だ、と思ってしまった。

 もう教室は夕日でオレンジに染められていた。校則、生徒は6時半までに一人残らず下校しなければならないのだが、時計を見ると今はその十数分前だ。教室後ろのロッカーあたりでしゃがんでいた小宵は、いつの間にか飛翠の席の前まで来ていた。すぐ右の窓からは夕日が差し込み、まぶしい。窓の外では野球部共がグラウンドを整備していた。

「あの…」

飛翠のほうから話し始める。目の前で立っている小宵を見上げて、若干声を震わせながら。

「よろしければ、えっと、小宵さん。一緒に曲を作りませんか?」

続けて、

「あの、迷惑ならすみません。でも、その、昨日こよいさんが歌っているのを聞いたとき…ああ、私の歌を歌ってほしいと思ってしまったのです。歌詞のない、私の歌を…」

黙っている小宵の目をどこか臆病に見つめながら、「出会って二日で、あまり話したこともないのに、変ですよね。…すみません。…でも、こよいさんが今日も忘れ物をしたとき、私は、」と飛翠が話し続けているのをもう小宵は聞いていなかった。小宵は口を開いたまま突っ立っていた。頭の中では損得勘定がぐるんぐるんと回ってごちゃごちゃしているのかもしれなかったしそれは本人にもしるよしはないし、でもそれは少なくとも心の中にはなかったし。心では一つの答えが明確に出ていて、他の全てがぼやけるほどにその感情に支配されていた。ああ、ぞくぞくする。あまりにも自分が今から言おうとしていることが素敵なことに思えて、思慮深さのかけらもなしに、まるで魔が差したように、自然に、ぽろりと、

「や…やる」

とだけ、口から出てしまった。


 飛翠の黒い髪がたなびいた。教室の窓は閉まっている。どこから風が吹いたのだろうか、と、がらりと開いたままの教室の扉の方に左の眼球を少し向けて、風を探る。風が当たって冷たい。風はどうやら廊下から吹いていた。

「ほ、」

直前の自分の発言を思い出して、再び二つの目の両方を飛翠へ向ける。とびっきりの笑顔をしている。

「本当ですか…!?」

うおっ。両手を掴まれた。固く握ったままぶんぶん振ってくる。

「やったっ…!やったぁ…!!」

はしゃいでいる。はしゃぐという言葉がよく似合う様子だった。そのあまりのはしゃぎように、小宵は今一度、さっきの自分の発言を咀嚼してみる。

 あ、そうか、私は「やる」って言ったのか。「じゃあこれから放課後二人きりで一緒に曲を作っていきましょうか」って返事したのか。とんでもないことを言ってしまった気が、しない。めんどくさそうな彼女と関わることで、明日からめんどくさいことになる気はした。でも明日が楽しみに思えた。


こんなに学校に遅くまでいたのは初めてだ。


午後6時半、「生徒は一人残らず帰れよ」という旨のアナウンスと共に校門をくぐる。


帰路、歌うのを忘れた。


塾には遅れた。


 それから永劫と思えるような時間が流れた。でも実際はあれからたったの11時間だった。五時三十分起床。やけに早起きだ。

 冷静になるのにこれだけ時間がかかった。朝の妙な涼しさのせいもあるだろうけど、今日はやけに早起きしたわけだが、やけに朝から冷静になれた。というか何かがさめたような感覚だ。熱が冷め、夢が覚め、酔いが醒めたようだ。

「ああぁ〜〜っ!!う〜わ、どうしよう!」

ささやき声で葛藤する。「どうしよう」というのは当然、昨日のあのことについてだ。小宵はなぜか今日から、放課後におとなしそうでつまらなそうな転入生と一緒に歌を作ることになってしまったのだ。

 あの時のワクワクした輝かしい感情は泡のように消えてしまったらしい。飛翠と関わることを本気で面倒くさがったわけではないが、どういうのだろう、「合わせる顔がない…」といっていいのだろうか。うん、つまり小宵は、どうしてしまえばいいのか分からなくなっていた。知り合い以上・友達未満の今の関係を、どうしてしまえばいいのだろう。放課後に教室で二人きりになるまで、座って待っていればいいのだろうか。

 その日、登校時間を遅刻ギリギリまで粘った。


 結局、朝礼の二分前に席に着いた。遅刻寸前。きっと教室にいる誰よりも早く起きたのに、少しもったいないと思った。

 木曜日の時間割は、理科、英語、英語、国語、社会、保健体育。…クソだ。クソ。ただ保健体育は最近、体育ではなく保健を…つまり座学をする期間になっている。体を動かさずに済んで素敵だ。

 そんな木曜日が、終わってゆく。特に変わったこともなく、いつも通り給食は一人で食べたし、保健体育の時間はうつ伏せて寝ていたし、終礼はつまらなそうに聞き流した。「起立、礼、さようなら」と前期委員長が気怠げに言って、続いて全員が頭を下げる。「さようなら」

 がやがやと騒ぎ立てながら生徒が教室から去ってゆく。それを小宵は、どきどきしながら見ていた。人がどんどん少なくなってゆく教室。先生も「最後に教室から出た人は出る際に鍵をかけておくように」と言って去っていった。誰も教室に残る理由なんてない。十分ほどで教室は二人だけになり、さらに数分後には廊下に響く足音ひとつなくなった。

「…」

「…」

 小宵と飛翠だけが残った。気まずい。

「…」

「…」

「あの、」

最初に口を開いたのは飛翠だった。

 ぴくっ。少し驚いて、ハッと声の方を見る。飛翠はこちらを向いてもいなかった。前の真っ黒な黒板を見つめたまま話しかけてくる。

「そ、そそ、そろそろ…しま…しょう。しませんか?作曲…。」

ずいぶん緊張しているな、と思うと小宵は少し楽になった。「ふふ」と誰にも聞こえない声で笑った後、

「わかった」

と言えた。机の横のフックにかけていたカバンを背負って、斜め左前へ歩いてゆく。


 飛翠の右隣の席に座る。名前も覚えていないクラスメイトの席だったが、お邪魔します。心臓の鼓動がずいぶんうるさい。会話が生まれない。失礼だが、コミュニケーション障害が二人集まるとどうしようもないな…などと小宵は考えていた。そんな彼女の隣で、飛翠はカバンから何かを取り出した。

「リコーダー…」

飛翠は微笑む。

「はい。」

短く歯切れ良く言って、リコーダーを咥えた。

 あ…昨日の…。昨日聞いた曲だ。やっぱり良い…。すごいなあ、これをいちから作ったっていうんだから。落ち着く…。本当に、さざ波って表現がピッタリだと思う。いい曲…。

 小宵は目を瞑って聞き入った。しかしそれは束の間、音楽は35秒ほどして止まった。

「…おしまい?」

翻訳すると、小宵は「もっと聞きたい」と言った。でも、本当におしまいみたいだ。

「はい。ここでおしまいです。サビができないんです。…一貫してゆったりした、自然音みたいな、自然の中の環境音みたいな、そんな音楽もいいかもしれません。でも…でも私はサビが欲しかった。この曲にサビを作ってあげたかったのです…。」

…で、今日の今でもサビ部分は完成していないわけか。ふーむ。と小宵は考える。

「…分かった。私の方で、その歌の歌詞を考えてみるよ。歌詞ができてから、歌詞に沿ってメロディーを考えてみてもいいかも」

「頼りにしてます。小宵さん。」

「な、なんか照れる…ね」

「そうですね…!」

くすくすと笑い合った。


 とりあえず、国語のノートを出す。授業で使うと思って買ったのに、新しい国語教師の方針で、ノートは使わなかった。数ページ使っただけで捨てるのももったいない。そのためこの国語ノートは、小宵にとってほとんど自由帳…らくがき帳と変わらない。

 これに詞でも書こう。そう決めた。

「やっぱりその歌、私には海のイメージが強いな。それとなぜか、星空のイメージも」

ノートに、海とか、星とか、そこから連想される単語とかを連想ゲームのように書いてゆく。詩的なマインドマップは広がってゆく。

「小宵さんはすごいです…。実は…この曲を作っていたのは前の街にいたときからなのですが、前の街は海が綺麗で、また星もよく見えたのです。これは海と星を見て育った曲です…。」

「へぇ〜…良い街だね。こっちじゃ星はほとんど見えない。街灯の光に隠されてしまって。海はなくて遠くに山が見えるだけ…」

「そうですね。都会ですものね。」

「うん。もっと詳しく、ヒスイさんのいた前の街のことが知りたい。作詞の手がかりになりそう」

「前の街のことですか…。ああ、あまり夜に出歩くことはないのですが、夜は本当に星がよく見えます。海の近くまで行くと、水平線の近くで星の瞬きが綺麗に見えます…!」

「星の瞬き?」

ノートにシャープペンシルを走らせたまま、小宵は飛翠に聞いた。飛翠はちょっと興奮気味に語る。

「星の瞬きとは、星の見かけの明るさが急激に変化する現象です。つまり、星の色が変わっていってキラキラ見えることです…!水平線や地平線の近くでたまに見ることができて、星がいろんな色に変わっていって綺麗なんです。」

「へぇ、そんなものがあるんだ。なるほど…」

ノートでは、『星』の字を囲った円から線が一本伸びて、また円が描かれる。円の中には『星の瞬き』と書かれた。


 放課後の教室であまり知りもしない転入生と二人きり。どうかと思ったが、実際はとても落ち着ける空間だった。時間はあっという間に過ぎていった。

「じゃあ、また明日…」

「はい。さようなら、小宵さん。」

手を振って別れる。

「結局、5時ちょっとまで教室に居残ってしまった…。楽しかったな…」

 青とオレンジの同居する空で、ちょうど上弦を迎えた月だけが見えていた。歌を歌って帰ろう。

「歌うだけならきっと誰でもできる わたしはきっとそこらにいない女の子 お話するのちょっとへたくそだけど…」

歌は、小声で、街の喧騒にかき消されるくらい小さかった。


 次の日も放課後、二人で歌を作った。二日間の休日を挟んで、その次の日も次の日も次の日も次の日も次の日も、二人だけで歌を作った。それはいつしか日課になり、習慣になり、一日の一部となっていった。


 ある日、「姉ちゃん最近学校から帰ってくるの遅いね」と弟に言われてしまう。「寂しい?」「いや別に。何してるか分かんないけど、受験勉強もちょっとずつしておいた方がいいよ」「うるさいな…」それからは、放課後はたまに飛翠に勉強を見てもらうこともあった。飛翠は賢かった。一緒に勉強して、一緒に歌を作った。飛翠のリコーダーに合わせて小宵が歌を歌ったりすることもあった。


 ある日、雨が降った。なんなら久々に降った。朝からけっこう大きな雨だ。

「あー最近全然降ってなかったと思ったけど。久々に降ったなー」

手に持ったトーストを口の寸前で止めておきながら、テレビのニュースを見る。

「傘持っていきなさいよ」と台所から母親が言ってくる。はいはい分かってますよ。

 ところで最近、彼女は(彼女にしては)早起きするようになった。実は最近、小宵と飛翠は放課後だけでなく、朝も二人で教室で過ごしている。飛翠は早起きなので、どんなに小宵が早くに学校に着いても絶対に先にいた。

「いってきまーす」

「いってらっしゃい」

パタン。扉の外はやはり雨だ。

「あーそっか。そろそろ梅雨なのかな」

家の壁に掛けてある、カレンダーの紫陽花の絵を思い出す。六月。

 飛翠と出会ってから二ヶ月近くたつことになるのか…とぼんやり思う。六月か…。

 とはいっても、六月ももう中旬だ。六月が始まってもしばらく晴天が続いたので、てっきり今年は梅雨がないのかとかちょっと思ったけど、中旬になって思い出したように梅雨を迎えたみたいだ。

 雨は好きだ。雨の日は、ちょっぴり大きな声で歌を歌っても通行人にバレないから。

「でも そんなんじゃ だめ もう そんなんじゃ ほら 心は進化するよ もっと もっと…」

歌は、地面で跳ねて踊る雨の音に、泡沫のようにかき消される。それが心地良い。歌は自分一人に……多くても自分ともう一人にさえ届けば良い。


 三曲歌い終えて学校に着く。教室の前の扉。手をかけると、がらり、当然のように開いた。鍵がかかっていないので先客がいることは確かで、その先客が飛翠であることを、小宵は確信していた。

「おはよー、ヒスイ」

それゆえの、飛翠名指し挨拶。

「…」

 あれ、おかしいな。いつもの「おはようございます、小宵さん。」がない。もしかして飛翠がまだ学校に来ていないとでもいうのか。教室を見渡す。すると…やっぱりあの席に飛翠は座っているではないか。でもよく見ると、耳を塞いでいた。両手をヘッドフォンのように耳にあてがっている。

「ヒスイ…?」

二度目の呼びかけで、ようやくこっちを向く。小宵に気づきそれと同時に、ぱっ、と両手を耳から離した。

「おはようございます…小宵さん。」

「うん。おはよう…。どうしたの?」

どうしたのとは、耳のことだ。さっき耳を塞いでいたようだが、どうしたのだろうか。すると飛翠は少し恥ずかしそうにして、こう言う。

「実は…私は雨が嫌いなんです。人目をはばからなくていいのなら、ああやってずっと耳を塞いでいたいくらい。嫌いです。」

確かに雨は大きかった。遠雷もたま〜にだけど聞こえるくらい、大きな雨だった。でも、小宵には分からない感覚だった。

「雨が…嫌いなの?」

「…はい。」

小刻みに身体が震えている。蒸し暑いくらいなのに、飛翠は寒気立つように震えていた。

 飛翠は唇を開く。

「私が歌が好きなのは、雨が嫌いだからです。雨の音を誤魔化すために歌を聞く。…不純な理由です。」

それを聞いて笑ってしまった。飛翠はぽかんとしていたが、もうしばらく小宵は笑う。そして、笑いが完全には治まらないうちに小宵も告白する。

「私も…!私も、夜が怖くて、夜が怖いのをごまかすために歌を歌い始めたんだ…!だから歌が好き!」

「ええっ…!?そうだったんですか?」

これが笑わずにいれるだろうか。教室に、雨と二人の笑い声だけが響いた。


 雨は放課後になっても続いた。でも歌を作るために二人は教室に残った。でもあの歌の完成はまだまだ遠そうだ。実は、途中で息抜きがてらに他に全く新しい歌を作ってみたこともあったが、それは結構あっさりそこそこのものができた。あの歌は完成しないのに。…完成しないこの歌を…二人はどこか楽しんでいる節があった。

 終わらない作詞と終わらない作曲。時間が雨に流されてゆく。

「あー今日、私アレ、塾だった。そろそろ帰るね」

時計を見て、小宵はそう言った。「はい。」と小さくうなずく飛翠を横目に、席を立つ。「ヒスイも早く帰ったほうがいいよ。じゃ、バイバイ」「分かりました。さようなら。」「うん」ということで、帰宅。

 飛翠と放課後の付き合いをし始めてから、おすすめの歌を教えたり、教えてもらったり、そのおかげで、好きな歌が増えた。おかげで、夜の塾もだんだん億劫でなくなってくるというものだ。夜を越えるための歌のレパートリーは、飛翠のおかげでどんどん増えていってるのだから。

「今日もまたもらった両手の雨を 瞳の中に仕舞って 明日またここから幕が開くまで 一人お家へ帰る…」

歌声はやっぱり、雨に流されてしまう。



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