序
雨が恐ろしくてたまらない。雲が好き。あの膨らんでゆくきめ細やかな雲が好き。そして、雨が嫌い。雨を降らせるあの雲が嫌い。
支離滅裂な自己矛盾をテーマに空を覆い隠す、雨。恵の太陽を隠す恵みの雨。
梵雑な雑音は、ええと、アレを彷彿とさせる。埃に躓いてジャンプしては針は再び溝に降り立ってブツ、ブツと鳴らす。中古のおんぼろレコードの、うたかたのように消えてゆくノイズ。それが絶え間無くあるみたいではありませんか。
「飛翠。早く準備しなさい。これを逃すと次の電車まで長いわよ」
「ええ、わかりました。」
さようなら。私の生まれ育った場所。…といっても、思い出はほとんどなく、生まれてから今日まで過ごした印象で残っているのは…やたらと綺麗な海と、やたら見える満天の星空だけだった。さようなら。海が輝く街。天動説の照らす町。
今日は日曜日。晴れだった。最後まで…何一つ変わらない風景だった。あとはここに私がいれば。
彼女はこれから引っ越しを経験することとなる。人間、なんやかんや、人生で一回以上は引っ越しするものだ。今回は彼女にとっての第二回目に当たった。
「(息がふくらむ 遮断機の前の朝 目をこするたびに 少しづつずれてゆく みたいなんだ…)」
がたん、ごとん、と揺れることもない高性能な通勤形車両で唇を震えさせる。声になって出ることのない歌詞を心の中で反芻する。
早くに亡くなってしまった両親の代わりに8年間、彼女を育ててくれた児童養護施設。まさかそういう施設が取り壊しになることもあるのだと、彼女はこの歳にして知った。14歳。先々月に誕生日を迎えたばかりの、遅生まれの中学3年生。3年生に進級してすぐに引っ越しが決まってしまった。そういうことで、児童養護施設がある街のなかで一番近くにある、遠い街に引っ越すこととなった。
「(ママ あかい ゆうひがしずむ やねのうえ ママ おおきい おおきいねこが みてるよ…)」
電車は6回乗り継いだ。
「これからよろしくお願いいたします。私の、名前は、」私の、気に入らない名前は、「飛翠。ヒスイです。ヒは飛行機のヒで、スイは宝石の翡翠のスイ。」鋭角三十度の鈍いお辞儀をする。
ぱちぱちと幼い拍手が響く。この前までいた施設と比べて平均年齢のぐっと低いところみたいだ。もっとも、前のところでも同世代の友達はいなかった。施設にも。学校にも。
あっちから持ってきた荷物は少なかった。いろんな個人情報関係の貴重品と、文房具と、リコーダー。衣服も数着。エトセトラ、エトセトラ。
荷物を新しい部屋に置く。「これからどうしましょう。」とりあえずお風呂に入ることにした。入念に体を洗う。お風呂場で歌おうと思って、やめた。
「ふう…。」
長い髪が湯船に広がる。ストレートの黒髪。海の潮にやられることなく、よくぞここまで、と褒めたくなるような髪だ。海のそばに住んでいたときよりも、こっちは人が多くて賑やかだ。
「残念…。」
こんなに都会だとは思わなかった。
飛翠は、よく海辺でリコーダーの練習をしていた。こっちではリコーダーを吹く場所はなさそうだ。あの幼い家族達をオーディエンスにして吹けばいいじゃないか、とはいかない。一人で吹きたい。前の施設にいたときも、あくまで海まで行って一人で吹いていたし、施設のみんなに披露したことはなかった。あまり人と関らず、一人で吹奏だけしていたいのだ。
だから人が多いこっちでは、これでは、彼女がリコーダーを吹ける機会はずっと少なくなるだろう。それが残念でたまらない。
「でも、ここは、あちらと違って、中学生以上は一人部屋でいいのですね…気が楽で素敵。」
以前住んでいたところでは、高校へ上がるまでは複数人で一つの部屋を使わされた。こちらでは、中学生から一人部屋が許されるので、その点はありがたい。そういう考えが湯船に浮かぶ。
少しして、上がることにした。児童養護施設の風呂場は、風呂場というよりも入浴場といったほうがよさそうだ。銭湯のようであるといえば想像しやすいのではないだろうか。
地味な衣服に着替える。それから、部屋へ向かった。向かう途中に色々見て回る。トイレの位置・避難経路・食堂・いつでも施設の職員がいる場所…などを確認してゆく。食堂には大きなテレビが壁にかけてあり、この施設の民意に則ればテレビ番組を観ることができるらしい。ここの民意…つまりあの子供たちの見たがるテレビ番組が優先されるだろうということ。となると、当然、低年齢のお子ちゃま向けの番組しか見せてくれなさそうだ。それが嫌ならば、中学三年生に与えられる月二千円のお小遣いでも貯めて個人用にテレビを買うしかない。…そこまでテレビを見たいとは思わない。
誰にも気づかれないくらい些細な表情筋の動き、柔らかな笑顔を浮かべ、部屋に向かい始める。
「(私にはこれがありますから。)」
部屋の真ん中に置かれた使い古されたカバン。大きなカバンから取り出したのはラジオだ。中学一年生の頃、『技術』という科目の授業で作らされた。
ひらりとメモが舞う。その実態はメモというにはいささか大きすぎる紙だ。それは、ある表らしかった。その表を見て、飛翠は、ジー、ジーとチューニングを始める。ピタリとその柔な指を止めた瞬間に、ラジオからは音楽が流れた。
「ん〜、ん、ん〜♪」
表は、ラジオの音楽番組の周波数と時間帯が書かれたものだった。ビッシリと書かれた綺麗な文字は、ほとんどの音楽番組を網羅している。こうやって彼女はいっつもラジオで音楽をチェックする。番組の紹介する音楽で特に気に入ったものができると、貯めたお小遣いを持ってCDを買いに行く。買ったCDを聴く機材は、なんとか持っていた。この…CDプレイヤーだ。無価値に等しい父の遺産の中で、飛翠が唯一価値を見出したもの…CDプレイヤー。未だにこのパンケーキのようなポータブルCDプレイヤーを使っている人間は、自分以外にこの国にいるのだろうか?
「私だけかもね。」
くす、と笑い、そのCDプレイヤーを大事そうになでる。
ラジオが今週の音楽を吐き終えると、丁度夜ご飯の時間となった。健全な時間、健康的なご飯。味は薄い。その後使った歯磨き粉のほうが味が濃かった。いちごの味がした。
がらがらがら、ぺ。白く濁った水を吐く。コップの残水に歯ブラシを突っ込んで、ぐるぐるとかき回す。そうやって軽くすすぎ、洗ったというていにする。顔を柔らかなタオルで包んだころには既に、次のことを考えている。
「(♪)」
飛翠は「この後部屋に戻り、あのパンケーキのようなCDプレイヤーで数曲のCDを回してから寝よう。」という、考えただけでもわくわくする素晴らしい“この後”のことに胸を躍らせていた。
午後9時。ぺたぺたと、女子中学生にはちょっと大きめのスリッパを鳴らしながら、部屋へ続く廊下を歩く。
「あ…」
前から施設の職員が歩いてきた。男性のようだ。ぺこりと頭を下げておく。とびきりの、ほんのりとした笑顔ができた気がする。そのまま男性職員を通り抜け、部屋へ向かおうと再び足を上げかけたとき、
「────」
後ろから声がした。つまり、さっき飛翠が会釈をした男性職員。低い声だ。そして、その内容は、なんとも、下品なものだった。
「え、」
その瞬間、世界が信じられなくなった。飛翠はもはや声が出せない。振り返ることもできない。動けない。
「─────────────」
高校生あたりで卒業すべき、馬鹿らしく的確に女性を傷つける下卑な発言。男の第二声が、飛翠の背中を貫いた。貫かれたところから、身体が腐ってゆく感覚がする…。
ぞく。
ぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞく
思考の停止した飛翠の今の状況を極力客観的に解説する。つまり飛翠は今、セクハラにあった。
セクハラにあった、と説明は一言だが、被害者の頭の中は恐怖でいっぱいだ。
「はっ、…はっ、…」
動けない飛翠を見て何を思うのか、男性職員はこちらへ向かってゆっくり歩き始める。足音がいやに大きい。もう二人の間にどれほどの距離があるのか、確かめようにも、振り返る勇気がない。
「あ、…お、」
もう駄目だと飛翠がいよいよ最悪の思考を巡らせたその瞬間、別の足音が空間に入り混じった。
「あら、今日入ってきた飛翠ちゃんね。これから部屋に戻るのかしら?」
「あっ…。」
それは、廊下の奥から歩いてきた、おばちゃんの女性職員だった。それを見て、すぐ後ろにいたあの男性職員は、「チッ」と唾を飛ばしながら舌打ちし、場を去っていった。
へたへたと身体中の力が抜けてゆく。おばちゃん職員はその異常に気づかず、挨拶を続けた。
「飛翠ちゃんは明日から、近所の学校に通うのよね。友達がたくさんできるといいわねー。おやすみなさい」
「は…はい。おやすみなさい…。」
ばたん。あの後、部屋に戻ると、飛翠はすぐに鍵をかけた。この児童養護施設見の職員は、午前勤めと午後勤めに分かれている。見たところ、飛翠にセクハラをした男性職員は午後勤め。つまりあの男はあと少ししたら…午後10時には帰るだろう。そう分かっていても、鍵をかけずにはいられない。あまりにも、怖かった。
もしかしたら、自分が“そういう”のに慣れていないだけで、あれはセクハラというほど過激なものではないかもしれない、と少し考えもした。しかしいずれにせよ、これからこの施設で過ごすことが本当にしんどく思えてくる。
こういうときにどうすればいいのか教えてくれる親・身近な大人はここにいない。明日から新しく学校も始まるというのに、引っ越し初日は散々だ。ただ、明日からどうしようかという考えはまとまりつつあった。
彼女はいつもそうだった。相談できる人間が近くにいないから、一人でなんとか現実に折り合いをつけていくしかなかった。
児童養護施設もこの国に多いわけではない。いくらあの男性職員が不快でも…ここにいるしかないんだ…。飛翠はこの“ぐちゃぐちゃ”をかき消そうと、CDプレイヤーを起動する。耳孔を塞ぐイヤホン。
「(今 私の願いごとが 叶うならば 翼がほしい この背中に 鳥のように…)」
鼓膜を振動する歌詞に合わせて、唇を震わせる。
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