うたのあと
ご清聴ありがとうございました
深夜の豪雨の中の公園のあずき色のドーム型遊具の洞穴の中の2人は………結局、朝まで身を寄せ合うはめになった。
「やーまさかね、あんな大雨が、こうも、朝まで続くとはね……」
「日の出と共に晴れたって感じでしたねー…。」
早朝、豪雨はようやく止んだのだ。
とにかく、雨が止んだ今、もうここに留まる必要も無い。
2人はのそのそと、あずき色のドーム型遊具から身体を出す。
地面は水溜りだらけで、激しい雨だったということもあって、爆撃を受けたかのように地形は変形していた。しかし雨水自体はほんの僅かな濁りもない純然たる雨だったようで、水溜りは透き通るような透明をしていた。空をそのまま鏡のようにうつしていて、一つ一つの水溜り全部が太陽を一個ずつ反射しているものだから、まるで、公園は、黄金か宝石が散らばったかのように光り輝いていた。
早朝といっても本当に早朝で、太陽はかなり低くに位置している。だから太陽の周りを除いて、空自体はまだ暗かった。しかしその暗さは、夜を告げるものでもなく、雨を伴うものでもない。これから明るくなってゆく途上での暗さだ。美しかった。湿気を含んだ空気を通って視界に映される太陽の姿は、柔らかく、どこかゆらゆらしているようだった。
「(まるで、燃えるような太陽だ)」
と、そのレモンか、あるいは、トパーズのように輝く太陽を見た瞬間に思う。そして、「燃えるよう」なのではなく、太陽は本当に「燃えている」のだという至極当然の事実を、次いで思い出す。
数時間前。あの後、小宵は公園に着いてから、すぐに携帯電話を取り出して、
「あ、もしもし、母さん。え?うん、今公園にいる。なんでっ…て……友達の近くにいたかったから。…雨が止んだら帰るね」
とか言って、プツリ、と電話を切った。
雨が止むまで飛翠のそばにいてあげよう、と決めていた。
小宵は有言実行、雨が止むまで、ずっと飛翠のそばで歌を歌ってあげたりして励ました。
雨も、夜も、2人なら怖くなかった。
…それは別にいいのだけど、ここまで長時間も公園の児童向けの遊具の中で縮こまっていたとなると、単純に身体のあちこちの疲れが酷い。
意外と暑さはなかったが、湿気は酷かった…!(小宵が鞄の中に詰めてきた菓子パンやらジュースやらは、小宵が公園に着いて、鞄の中から取り出す頃には少し潰れていた。)
そんなことを思い出しながら、今、2人は朝の公園の、濡れた地面の上に立っている。
「あそこの、青い…塔みたいな時計に雷が落ちた時は、流石にビビったよね〜」
「心臓止まるかと思いましたよ…。小宵さんが来てくれていて良かった。あの…来てくれて、本当にありがとうございます。」
「はいはい、感謝はもう何回も、あの山みたいな遊具の中で聞いたよ」
時計を見ると、鶏も鳴かないような時刻だった。夜が朝に切り替わる曖昧なセクションの、最も朝に近いところ。そんな時刻だった。
「落雷で壊れたんじゃないの、あの時計」
と小宵は言ってみる。
飛翠は「まさか…。」と少し笑っていったが、少し心配している様子でもあった。
目を凝らさないと見えないくらい細い秒針が、チク、タク、という音も立てずに動いているのを見て、2人は初めてその時計を信じることができた。
とにかく。雨は止んだ。夜は明けた。この世界、もはや恐るるものは2人にない、そんな錯覚を起こしそうになるほど世界は美しかった。
豪雨を生んだであろう真っ黒な真っ暗な曇天が嘘だったかのように、空は青くなってゆく。真っ白な真っ新な雲がちらほらと散らばっているだけだ。
さて、
さて、
「さて」
溜息を吐いて、小宵は飛翠の方を向く。
「これからどうしようか…」
家に帰ったら…どうなってしまうのだろう。考えただけでゾッとする。
震えるような豪雨の中、夜も遅かったのに、急に一人で家を飛び出して、朝を迎えるまで家に帰らなかったのだ。これから家に帰ったら……ああ、恐ろしい。
ふと隣を見ると、飛翠が申し訳なさそうな顔をしてそこに立っていた。
「ああ、えっと…」
見ると、飛翠の服は泥だらけだった。まあ、当然か、とすぐに思う。あの豪雨だったのだから。髪はぼさぼさとしていて、それでは長く艶やかなあの髪が台無しのように思えた。
急に、一つの決定事項が生まれた気がした。
「ウチに来て、ヒスイ」
「え?」
戸惑いの声が飛翠から聞こえたが、もう止まらない。小宵は続ける。
「服、ぐちゃぐちゃ。髪もぼさぼさだ。ウチでお風呂に入っていってよ。…なんなら、泊まっていく?」
「え え え え、ちょっと、話が、急すぎて、」
「いや、泊まっていって…!よし、決まり。今から私の家に向かおう…!」
「ええー!?」
かくして、次の目的地は決まった。母親に電話をかける。早朝だし、当然出ない。携帯電話が「ただいま電話に出ることができません。 ピーという発信音のあとに、お名前・ご用件をお話しください。」とか言う。
小宵はそれに向かって、
「…あ、おはよう、お母さん、あのね、ごめんね、今から帰るから」
とだけ留守電を入れて、ピッと切った。
「母さん怒ってるかなー…」
飛翠は「どうでしょうね…。」とは言ったが、心の中では確信を伴う答えを持っていた。
公園を出てしばらく歩くと、大通りに出た。飛翠の所属する児童養護施設も、小宵の家も、彼女たちの通う中学校も、この大きな横断歩道の向こうにある。しかし、
「これは…。」
「そう。壊れてるんだ、信号。だから、あっちの歩道橋から行こう」
「はい。」
歩道橋に上る。手すりも階段も雨水で滑りやすくなっていたので、十分に注意を払う。歩道橋を下ると、自転車が少し離れたところに倒れていた。
「お、あったあった」
「え?」
「これ私の。わー、盗まれなかったんだね」
その時、飛翠は初めて、小宵が自転車を捨ててでも公園に行こうとしたこと を知った。
小宵は、手に持っていた大人用の大きなレインコートを、たたんで、雑巾みたいにして、自転車に付着した水をシャッ シャッと払う。手に持っていたレインコートや背負っていた通学鞄などを、自転車の前っ側のカゴにがさつに入れる。それからまたがる。
「後ろ乗って。そっちのが早い」
「ええ、っと。…じゃあ、失礼します…。」
おどおどと乗って、それから飛翠は小宵の服の端を掴む。
「よし、じゃあ出発」
飛翠は軽かった。
ふと、小宵が歌い出すと、飛翠も一緒に歌ってくれた。嵐の次の日の早朝は、誰もいなくて、2人の歌声はどこまでも透き通るようだった。
ところで今日から夏休みだ。『冷やし中華 始めました』らしきことが書かれた飯屋のポスターが、昨日の雨でぼろぼろになって原型を留めていなかったのが見えた。ピンクと水色と白っぽい色の入った紙が、混ざって溶けてしまっている。
いろんな建築物が、雨粒を纏って輝いている。昨日、夜の雨の中で見た時は、複眼の怪物のようにそり立っていたマンションも、ただ美しいだけだった。
やっぱり商店街はシャッターが羅列しているだけだったが、あと数時間もすれば街のみんなも起きて、いつもの賑やかさを取り戻すだろう。
朝の街を自転車で駆け抜ける。
「着いた」
「やっぱり…私も来てよかったのでしょうか…。」
「きっと、なるようになるよ」
てきとうなことを言いながら、小宵はチャイムを鳴らす。軽快な音だ。少しすると、家からばたばたと音がしはじめた。
それを聞いて、飛翠は身体のほこりを払う仕草を見せる。髪をとかして、制服のままだったので、制服の紺のスカートを引っ張ってピンと張らせる。
カチリ。鍵が開けられた。それを聞いて、小宵は取っ手を自分の方に、く、と引く。扉が開く。
「た、ただいま」
「えっと、お邪魔します…。」
玄関のすぐそこに小宵の母親は立っていた。
「…」
誰も何も喋らない。
口を開かない母を見つめる。何を考えているのか分からない顔だ。
「…」
「…」
ばっ、
「ひっ…!」
瞬間、小宵の視界に白が広がる。母親の左フックか右ストレートかなんかで頭が揺らされたのかと思ったが、にしては、痛みがない。…ふわふわしている。
それは、白いタオルだった。彼女の母が、真っ新なタオルを頭にかぶせたのだ。そのままお母さんは黙ったまま、小宵の頭をぐしぐしと揉みくちゃにする。
「わっ、ぷっ、ちょっと、母さ…」
数分して、やっとタオルを顔からどかしてくれた。小宵が目を開けると、母さんの目には涙が溜まっていた。
「あの、ごめんなさ──」
「ホント、バカなんだから」
小宵の謝罪を遮って、母さんはただそうとだけ言った。
それから母さんは隣を見て、飛翠を視界に入れた。するとおもむろに手を伸ばし、小宵にそうしたように、飛翠の頭をわしゃわしゃと揉むのだった。
それから、
「とりあえず、2人とも、お風呂入ってきなさい」
と言ったっきり、また家の奥に消えていった。
訳もわからないまま2人は風呂を済ませた。一緒にお風呂に入るのは初めてだったが、小宵のお母さんが有無を言わさぬ目をしていたのでどうしようもない。
「…」
「…」
なんか変な感じだった。
風呂から出ると、いつの間にかリビングのソファーで母親が座っていた。いつもの洋ドラを見てるときとおんなじ姿勢をしていた。
それから風呂上がりの2人を見て、口を開く。
「この子がひすいちゃんね?」
「あ、う、うん」
「あのっ、はじめまして…!飛翠です…!小宵さんに懇意にさせていただいて…」
「そう…」
よく見ると、いつも食卓として使っている大きなテーブルに、書類というか、何枚かの紙が積み重ねられていた。小宵がそれに目を落とす前に、お母さんは立ち上がり、その紙の前まで歩き、その紙の前で止まる。それからこう言うのだ。
「ねえ…ひすいちゃん。うちの養子にならない?」
その時、きっと、小宵と飛翠は同じ顔をしていただろう。
「「ええーーっ!?」」
2人の叫び声を無視して、お母さんは口を開く。見ると、なんとも、とんでもないくらい笑顔だった。
「いやね、小宵からひすいちゃんのことを聞いたときから考えてたんだけどね。小宵がこの家から飛び出ていった後、ちょっと思うところがあったの」
母は、飛翠の事情を知っていた。小宵から聞いたのだ。それからずっと考えていた。この子を、娘として迎えてしまおう。
「もう、自分で自分のことを決めてもいい歳でしょう。…うちの養子にならない?……考えておいてね」
ああ、言ってしまった。母はそんな清々しい顔をしていた。
あたふたと手を動かした後、飛翠は小宵の方を向く。
「ええっと…!ど、ど、どうすればいいんでしょうか…!?」
「いや私に言われても分かんないけど…!!」
大笑いしながら母さんは再び言葉を投げかける。
「ああそれと!小宵!」
「は、はひっ!」
「そこの、ひすいちゃんを家族に迎えるって話だけど。貴方以外は、全員賛成ってさ…!」
そう言ってから、母さんはそのまま台所まで歩いてゆき、何事もなかったかのように朝食を作り始めた。
ともかく、父も母も弟も、「飛翠さえいいのなら、いつでも家族に加わればいい」と思っているようだ。「その話、もっと早く私にも教えといてよ!」と大声で家族へ叫びたくなった。
ぽかん、とする他ない。2人はその場で立ち尽くした。
母さんのゴキゲンな鼻歌と、朝食の調理音だけが家に在った。
2人のうちで、先に言葉を選べたのは飛翠だった。
「あの…。」
小宵が「何…?」とおどおどと返事する。
「小宵さんは…どう思いますか?」
「何が」
「その、私が養子になる、という話です。やっぱり…迷惑ですよね?」
「何が…?」
「だから、私がここの家族になったりしたら、どうします…?」
「大歓迎、だけど?」
即答。
「小宵ーー!!高校遅れるわよ!!2年生2学期始業式…夏休み明け初日から遅刻は恥ずかしいわよー!!」
朝から怒号が飛んでいた。
「…」
「まだ起きない…。ちょっと、飛翠、起こしにいってきてもらえる?」
「はい。さっきも起こそうとしましたけど…。」
「いっつも一緒の時刻に寝てるのに、なんで小宵の方だけこうなのかしら」
「さあ…。」
ソプラノの小さな笑い声で少女が階段を上る。すると、階段の途中で、ばったりと少年と出会った。
少年は小学生高学年といった感じで、眠たそうに目をこすっていた。しかし、彼女を見ると、ぱっちりと目を開けて、彼女の名を呼ぶのだった。
「あ〜飛翠姉ちゃん?」
「おはよう。」
「うん、おはよう。高校って今日からだっけ?」
「ええ。小学校の夏休みはまだでしたっけ。」
「そうだよ。それに比べて高校は早いんだね。…まあ、頑張って。……小宵姉ちゃん起こすの」
「善処します…。」
軽い会話を交わして、2人はお互いに通り過ぎてゆく。
部屋に着いた。ノックもせずに、部屋の扉を開ける。ノックもなにも、ここは小宵と飛翠、2人の部屋なのだから。部屋の右には整えられた布団があり、その反対側…部屋左側の布団はもり上がっていた。人が布団に入っている。
揺らす。
「こよちゃん…!遅刻しますよ…!」
「あー…ヒスイ?」
「そうです。」
「夏休みって昨日までだっけ…」
「昨日までですね。」
「今、何時?」
「午前…はち──」と、飛翠が言ったと同時に、小宵は起き上がる。飛ぶように起き上がった。
「やばいやばいやばい!!」
「わあ、いきなり制服に着替えるんですか。先に朝ご飯は…」
「ちなみに朝ご飯は何!」
「お茶漬けでした。」
「なら食べれる!」
「あんまり急いで食べちゃだめですよ。」
「気をつける…!」
その会話が終わる頃には、小宵は制服を着て、高校に入って大きなサイズに変わった通学鞄も背負っていた。2人は同じ制服をしていた。
「よし!じゃあ、行こ──」
小宵が部屋の扉の取っ手に手を伸ばそうとして、寸前で手を止める。
「っと、忘れてた」
棚から一冊のノートを抜き取る。ピンクの表紙。『歌詞ノート 7冊目』と書かれている。
「今日も、放課後残るんですか?」
「当たり前…!」
そう言ってから、小宵は張り切って部屋の扉を開けた。
一階に下りて、すぐに母さんは小宵に怒りの言葉を飛ばすが、それを無視して、小宵はお茶漬けをかっ込む。
「ごめん、分かったって!次から気をつける…!」
歯磨きはさすがにしてるヒマはない。口を、手の甲で軽くこすってから、小宵はすぐに玄関へと向かった。小宵と飛翠は並んで靴の紐を結ぶ。
「あ、こよちゃん。次の歌のタイトルですけど…」
「何か思いついた!?」
「例えば…」
次の言葉を紡ぐ前に、お母さんが割って入る。
「ちょっと、飛翠!」
「わっ…どうかしましたか。」
「リコーダー忘れてるわよ」
それからお母さんは、手に握っている、リコーダーの入った水色のケースを飛翠に手渡す。
「あれっ、ホントだ。鞄に入れ忘れていました。…ありがとう、お母さん。」
「いいわよ別に。さ、早く遅刻しないうちに、いってらっしゃい」
「はい!……」
「「いってきます」。」
扉が開く。そこから差し込んだ朝日が、なんともいえない朝のいい匂いが、家に充満する。
扉の向こう、家の外のすぐそこで、2人の少女が歌う声がした。
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