第1話:王女の誓い、少年の誓い
「僕、その時まで待ってるから。へいかのいるお城で、僕、あなたのことずっと待ってます……!」
「うん、私、絶対行くよ! だから皇帝陛下の宮廷で待ってて。10年経ったら私、絶対にあなたに会いに行く!」
「はい、はい、ずっと待ってますアズミラ様! だから10年経ったら、絶対僕に会いに来て下さい! 僕、それまでに泣き虫もなおします。りっぱな大人になって、ジェムスていこくのお城で待ってます!」
「私も立派な大人になって必ず会いに行くわ。それで、沢山遊んで、冒険をしましょう!」
「はい、約束です、アズミラ様! 僕がんばって、あなたのこと、待ってます…!」
10年前。
カテフ・ジェムス王国の王女アズミラと金髪の少年は、10年後にジェムス帝国の宮廷で再会することを固く誓い合った。
王女は若草色の瞳を潤ませて、少年はすみれ色の瞳からぼろぼろと涙を流して、互いの手を握り、指を絡めて、何度もその誓いを口にして確かめ合った。
そして翌日、少年ははるか遠く、ジェムス帝国の宮廷へと旅立っていった。
***
そして今。
「国庫にそのような
アズミラ王女が赤茶の髪を揺らして、玉座に座る至上の貴人たちを
王家の末の姫君は若草色の瞳に強い意思の光をみなぎらせて、手を拳に握っている。
「私が帝国に赴かねば、代わりに我がカテフ・ジェムス王国は帝国に対し、金貨5万枚を差し出さねばならぬ。金貨5万枚と言えば、魔獣の被害に遭った渓谷の橋や砦の補修を行い、
議会場に集った者たちは身分の上下なく皆一様にぎょっとした。ジェムス連邦の盟主であるジェムス帝国への献金を「ドブに捨てる」などと表現するのはさすがに不敬に過ぎた。しかし、この場の誰も、年若い女の鋭い舌鋒を止める術を持たない。
「民の反感を買う愚を犯すだけの何か正当な理由が、カテフ・ジェムス王国第25代国王陛下におありと仰せなら、いま、ここで!」
お聞かせ願おう、と姫君の声は一段低く、轟雷のような響きで
ひげを蓄えた国王とその妻は言葉に詰まった。廷臣たちに焦りが滲んだが、涼やかな声が助け舟を出した。舟を漕ぐのは、この場で国王夫妻に次ぐ席次の、王太姫であった。
「アズミラ、王家の一員として陛下に忠言さしあげるあなたの態度こそ、まさにこの議会場に集う者にふさわしいあり方でしょう。けれど、アズミラ王女、我が妹よ、国王陛下と王妃殿下がこのカテフ王国の君主であるのと同時に、私とあなたの親であることも思い出してほしいの。大事な娘の傍にいられないお父様とお母様の胸中が分からないあなたではないでしょう?」
次期女王の声は優しくたおやかに妹をなだめた。
だが、カテフ・ジェムス王国の第二王女は甘くなかった。
「失礼ですが王太姫殿下、お二人に親としてこの不肖の我が身を
不遜な物言いだったが、これを咎められる者もまたいなかった。王女アズミラが8歳の頃から今日まで、この大陸の政治的・経済的・文化的中心であるジェムス帝国王宮で田舎者と軽視されることのないよう、勉学と魔法を中心に研鑽を積んでいたことは、カテフ宮廷人なら誰でも知るところだ。
長い溜息が議会場に響いた。この短い時間の間に何度も口を開き、末娘をなだめようとしては
「アズミラよ、凡庸な王である私の娘が、気高さと思慮をそなえたそなたであることをまずは心から嬉しく思う。だが、だがな、アズミラ、我が娘よ、今年の春からこの大陸中に例年にないほどの魔獣被害が出ておる。わが国でも辺境の村を放棄して村人たちを近くの年や村に移住させたほどだ」
国王は口を閉ざしてため息をつき、力なく首を横に振った。
先の春からというもの、この大陸のあちこちで、今までにないほど魔獣が出現し、農地を荒らして人を食らい、建物を破壊し、ジェムス帝国と5つの衛星国家に物理的・経済的・軍事的被害を及ぼしていた。
衛星王国のひとつである、ここカテフ・ジェムス王国においては、その被害が著しいあまりに、辺境の村の
だが、こんなことが何度も続いたときに同様の対応ができるとは限らない。移住するための土地には限りがあるし、都市では住居の数にも限りがある。もちろんそれで魔獣被害が収まるわけでもない。
王は膝の上で手をまごつかせながら、年頃の娘への心配を込めて王女アズミラを見つめた。だが、王女はぴしゃりとつれなかった。
「長旅の道中が危ないから帝国には向かうな、とおおせで? それこそ王族が保身に走ったと民に嗤われましょう」
そうではない、と焦ったように国王が手振りを伴って制した。
「帝国大使のポーム卿曰く、ジェムス帝国の皇帝陛下は、各国から宮廷に集まる王族たちを『女神の
女神の御座、という言葉に廷臣たちは昨日聞いた話を思い出して顔を青くし、息をのんだ。恐怖からであった。だが、18歳になったばかりの姫君は違った。
「良いことではありませんか。ま、礼拝なんぞに効果があるかはわかりませんが」
カラリとした声でそう言ってのける。カテフ・ジェムス王国の姫君は、大陸の盟主である帝国に対しても、この大陸を生んだという創世の女神に対しても口さがなかった。
「良いことだなんて、まさかアズミラ、知らないわけじゃないでしょう」
「王妃殿下、それは、人の身の丈の十倍もあるという巨大な魔獣が『女神の
「分かっていてどうして!」
「女神の御座のような創世神話にまつわる遺跡において適切に儀式を執り行い、人心の安定を
王女はにこりともせずに言い切った。
18歳の姫君の態度としては、あまりに
姫君の父親は深く息を吐き、吸って、それを数度繰り返してからかすれたような声で言った。
「10年ごとに各国から王族を一人ずつジェムス帝国に送り5年後に帰国させるこの『
そう言って王がうつむいて嗚咽を漏らすと、隣にいた王妃がその肩を支えてやりながら末娘を見た。優しそうな瞳が潤んでいた。
「それでも帝国に行くというの? アズミラ」
「はい、参ります。私は王族としての務めを果たすことに迷いはありません」
カテフ・ジェムス王国の第2王女、アズミラ・カテフは赤茶の髪を揺らし、若草色の瞳で群衆を見据えて堂々と宣言した。
***
「今日は姉上に大変なご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありません」
その日の晩、アズミラ王女は姉である
「わざわざそれを言いに?」
生真面目な妹姫にアンフはくすくすと笑い、手づから椀に茶を注いでやった。
「あのとき廷臣たちが皆そろって胃の痛そうな顔をしていましたので、失礼ながら王太姫殿下ももしや……と思いまして」
アズミラ王女はそう言うと、受け取った椀に口を付けた。夏の夜風に運ばれた夜香木の香りが茶の香りが合わさって得も言われぬ芳香をかもしだし、アズミラは穏やかに瞼を閉じる。昼間の烈しさが嘘のようで、姉姫アンフは苦笑して自身の茶碗を傾けた。
山岳地帯で構成されるカテフ・ジェムス王国の茶は大陸中に流通する、国の特産品である。茶に合わせる菓子や茶器も実に多種多様であり、カテフ・ジェムス王国は大陸でもっとも洗練された喫茶文化を誇っていた。とはいえ、魔獣被害が多いこのご時世においてこと平民は優雅に茶をたしむ余裕を失っているのが現実だったが。
「別に気にしていないわ」
妹の言葉を受けて少し年上の次期女王が繰り出した返事は、穏やかだが淡々としていた。
「あなたの言う通り、我が国の国庫に余裕はないし、国力に差がある以上、ジェムス帝国には逆らえない。泣いてもわめいても、私たちはあなたを五貴集として帝国に差し出す以外の選択肢を持たないのだから」
「実際、私が泣いてもわめいても、姉上はジェムス宮廷に行かれましたからね」
アズミラは苦笑して10年前のことを思い出す。
10年前、この王太姫アンフ王女も、
当時8歳だったアズミラは出発の式典の際にも駄々をこね、帝国からの迎えの馬車に乗り込もうとしたものだ。
姉姫がジャムス宮廷から生還したのもまた五行帰貴という慣習にのっとり、その5年後のことだった。
それからさらに5年が経った今年、再び
次期女王は妹の方に菓子皿を押しやりながら言った。
「明日には帝国からの迎えが来るというのに、お父様とお母様があそこまで駄々をこねたのは正直意外だったわ。私の時で慣れたはずなのに」
声には愛情と呆れが混ざっていた。
好物の無花果菓子を口にして笑みを浮かべていたアズミラは、一口茶を飲んでバルコニーから見える夜空に視線を向ける。遠いところに目をやるのは考え事をするときの彼女のクセだった。しばし黙っていた第二王女は、決心がつくと茶碗をそばの銀盆において王太姫に頭を下げた。
「アンフ王太姫殿下、このようなことを申し上げるのは礼を失すること、重々承知の上ですが」
「構わない」
「国王陛下と王妃殿下は良き王でいらっしゃいます。しかし、お二人は人並み外れて心配性のきらいがございます。これからは、魔獣の大量発生で今まで以上に苦しい対応を迫られるでしょう。それに乗じて宮廷に入り込もうとする怪しげな占星術師や詐欺師まがいの予言者が出てくるはず。どうぞお気を付け下さい」
いかに王女と言えど、両親でもある国王と王妃にたいしてのこの発言はいかにも不敬だったが、アズミラの心配はもっともだった。善良だが心配性の頭領が怪しげな占い師などを重宝して組織が機能不全に陥った例は少なくない。
さっきまで満面の笑みを浮かべて菓子を食していた妹を見つめて、先輩王族は苦笑した。私生活での王女アズミラは18歳の姫君という肩書も良く似合う。けれど彼女が公私ともにその肩書に馴染み切らないのはひとえにその出生に由来していた。
「気を付けておくわ。……カテフのことは気にせず、せっかく天下一の大都市、帝都ジェムシーナで5年も暮らすのだから、お友達をたくさん作って色々な経験をするのよ。同じ王族のお友達は貴重だわ。それに恋人を作ったって良いし」
そう語り掛けながら妹を抱きしめるアンフ姫は、実際、帝国から戻った今でもその当時にできた友人との文通を続けている。婚約者も、当時の宮廷で出会った帝国の青年貴族だ。
姉姫の、ふんわりとした癖のある、淡い色合いの髪が肩からはらはらと流れて頬に触れ、彼女の肩口でアズミラはくすぐったそうに笑った。
「上手くできるでしょうか、私のような偽の王族に」
「偽なんかじゃないわ!」
平然と出てきた妹の言葉に目を見はって、姉は声を高くした。優美と
「あなたはこれまでずっと、王族としての務めを果たそうとしてきたじゃない。その行動は、血や家門より何よりも、あなたを本物の王族にしているのよ。それに、確かにあなたは私やお父様とお母様と血は繋がっていないけれど、カテフ王国法の定めた儀式を通過して正式な王家の一員に
肩口でくぐもった声がして、背や腕に回された姉の手に力がこもった。
王女アズミラはその実、国王夫妻の血を
アズミラはカテフ王家の
大変不敬なことではあるが、誰かが生まれたばかりの赤ん坊のアズミラをこともあろうに王家の陵墓に置き去りにしたらしい。それを、国王夫妻とその第一子アンフ姫が自ら見つけたのだ。
おりしも、死産した第二子の葬儀を終え、小さな棺桶を埋葬したその直後のことであった。大雨の音に紛れて、赤ん坊の声が聞こえてきたという。
最初は誰もが、第二王女の産声を聞けなかったことを悔やむ己の心が聞かせる幻聴かと思ったものだ。しかし、生まれたばかりの妹を亡くしたアンフ姫の鋭敏な子供の耳が、カゴに入って捨てられて泣く嬰児を見つけ出した。
この出会いに、国王夫妻は奇妙な縁を感じたのだった。新生児を埋葬したその直後に新生児を見つけたことに、何か運命じみたものを感じるなという方が無茶である。
そうしてこの捨て子はその出自を公表したうえで国王夫妻の新たな子どもとして迎えられ、アズミラの名を賜った。
元より、前回の五行帰貴で姉のアンフ姫が人質で帝国に
己の出生について、かつてアズミラはこんな風に語っていた。
「私、小さい頃にお忍びで遊んだ王都の裏路地で見たことがあります。私みたいに、裏路地に捨てられて死んでいた赤ん坊を。あれからずっと考えているんです。捨てられた私は生きていて、あの赤ん坊は死んだ。この差はいったい何なのか。私が王家に拾われた意味はあるのか、私だけが幸運をむさぼっていて良いのか。……ずっと考えています」
その時の娘の瞳に、王妃は何か言葉にしがたい凄まじいものを見たという。
そうして、今や立派な王女となったアズミラは明日にでも
「でも、それにしたって今日のアズミラはちょっと力が入りすぎてたわね。何かどうしても帝国に行きたい理由があったんでしょ? もしかして私の知らない間に良い人が帝国に出来たとか?」
その言葉に、妹は姉の身体を引っぺがして「まさか!」と笑った。
「確かに帝国で再会する約束をした人はいますが、幼い頃の話です。あちらは私のことを忘れているでしょうし」
生真面目な妹の言葉に、アンフ姫はぽかんとした。ちょっとからかったつもりだったのに、何やら思わぬ話が出てきたのだからその反応も当然だった。
「やだ、あなたいつの間に?」
「恋人とかじゃないですよ、ほんの少し喋っただけですし。相手の名前を聞きそびれました」
そう前置きする王女は顔色一つ変えず、茶のお代わりを姉の椀に注いだ。
王族としての責任感の強さゆえに、アズミラの見目は姉から見ても悪くないのに浮いた話が一つも無かった。国内の貴族子弟との交流の機会は多い。そこで何かあっても良いはずなのだが、恋物語より創世神話や英雄譚を、恋の駆け引きより盤上駒の駆け引きを、古い恋歌を引用して相手をかき口説くより古典の詩歌・文学の解釈議論を好むアズミラの周りに浮いた話はなかった。
見合いをしてみないか、などと両親が言おうものなら「王太姫殿下が正式にご結婚なさってからのほうが皆も混乱しなくて良いでしょう」と気遣いの
「ただ本当に、約束をしただけなんです。……ちょうど10年前、姉上が帝国に赴かれた直後のことです」
そう言って伏せたアズミラの瞼の裏には、その時の景色が鮮明に広がっている。
「帝国の者に連れられた、私と同い年の男の子がこの城を宿として、数日を過ごしていました。その少年はジェムス帝国皇帝陛下の
ほんの一時を城で過ごすだけの皇帝の賓客と、王女アズミラが顔を合わせる機会など無い。
はずだった。
護衛や世話係の目を逃れたその金髪の少年は、王宮の隅の物陰で泣いていた。
「きっかけは忘れましたが、その男の子と一緒に物陰に隠れて喋りました。そのとき、帝国宮廷に行くのが怖いと泣く彼と約束したんです。私も十年後には必ず帝国宮廷に行く、だから再会するその時までお互い元気でいよう。立派な大人になって、再会して、そしたら一緒に遊んだり冒険しようって」
ただの子供の口約束ですが、と言ってアズミラは苦笑した。姉は微笑んで、もう一度妹を抱きしめた。その背を抱き返した妹は姉のふわふわと柔らかく長い髪に鼻先を埋め、肩口に頬を摺り寄せながら囁いた。
「姉上、私、自分の生まれのことを知る前も、知った後も、姉上のことがずーっと好きです。帝国に着きましたらすぐにお手紙を書きます。そして必ずこのカテフ・ジェムス王国と未来の女王陛下の
そう言って、姉の手を捧げ持ち、己の額に押し抱いた。
王女アズミラがジェムス帝国に赴く、その前夜のことであった。
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