第8話【ボコ】Hさんの語り(人怖)

 保育園に勤める妻から聞いた話です。


(補足:彼では無い。男性。30代から40代ほどに聞こえる。8人目なので仮にHさんとしておく)


 妻は子供が大好きで、保育士の仕事はとても大変だけどやりがいがあって自分には向いている、天職だといつも言っています。

 そんな彼女が一回だけ、「この仕事続けられないかも」と思ったという話です。


 私と結婚する前、妻は大学卒業後すぐに保育士の資格を取りました。間髪を置かず働きたかった彼女は、給料はそこまで高くないけど、家から程近い保育園に就職しました。

 その保育園には近所の子供もたくさん預けられており、お迎えに来たお母さんが顔見知りだったり、休日に家族でお散歩している子を見かけることが良くあったそうです。最初の数ヵ月は仕事に慣れるためにバタバタしていたらしいのですが、子供の無邪気な笑顔や保育園に来る母親、父親の幸せそうな雰囲気で、多少の忙しさは気にならずかえってモチベーションは上がっていったようです。


 仕事に慣れてきた頃、一歳から二歳の子のクラスの担当になりました。もちろんメイン担当ではなく、サブアシスタントのような形で、何人かの先輩と一緒に仕事をしつつ、いろいろ教わりつつという立場です。

 そのクラスに、拓也くんという子がいました。

 拓也くんのお家は当時妻が住んでいた所の近くで、駅やスーパーで拓也くんがお父さんお母さんと一緒にいたところを何回か見かけていたようで、自分がクラスを担当するようになってからは、拓也くんのお母さんと少しずつ会話をするようになったそうです。

 まあご近所というのも有りますが、拓也くんのお母さんは物静かですが人当たり良く、新人保育士の妻にも丁寧に受け答えしてくれていたため、次第に会話が増え、数ヶ月もすると拓也くんをお迎えに来たお母さんと数分ほどの世間話をするような関係になりました。

 世間話と言っても、ほとんどが拓也くんの話題です。今日はどんなことをしたとか、休日はどんな子か、とかそういう内容だったそうです。


 一歳から二歳くらいの子はよく聞く単語を反復して喋れるようになります。

「パパ」「ママ」「ブーブー」「ワンワン」。よく聞く言葉は覚えもよく、子供たちは拙い言葉で精一杯、保育士たちにお家で何があったか、ここに来るまでに何を見たか、どんな物が好きかを身振り手振りも交えてピールしてきます。小さな体を精一杯使ってコミュニケーションを取ってくる様子がとても微笑ましく、妻は子供たちのと会話を楽しんでいました。

 拓也くんも手をいっぱいに広げながら自分の主張を妻にアピールしてきます。

「パッパ!」

「拓也くんはパパが好きなの?」

「ママ!」

「拓也くんはママも好きなの?」

「オッコ!」

 拓也くんは頻繁に「オコ」または「オッコ」という単語を口にしていました。多分「おしっこ」のことだと最初は思っていたのですが、オムツは湿ってないし、お手洗いに行きたがるわけでも無いし…。

「オコ!オーコ!」

 ひょっとしたら「抱っこ」のことを、お家で「オッコ」と言っているのかなと思い、妻は良く拓也くんを抱き上げていたそうです。その度に拓也くんは嬉しそうに腕をブンブン振り回し、キャッキャと笑っていました。


 二歳になると、いよいよ子供たちは文章を話せるようになります。

「ママ、だっこ!」

「パパ、バイバイ」

 など、以前に比べて遥に自分の言葉だけで意思の疎通が出来るようになります。


 拓也くんが二歳になった時、妻もそのまま二歳から三歳の子のクラスに移動しました。今まで面倒を見ていた子供達と一緒にいた方が気楽ですし、徐々に成長していく様子を見るのは何よりも楽しいと、妻は今でも良く話します。


 拓也くんもしっかり自分の意思を伝えられるようになりました。

「これなぁに?」

 これも二歳児が良く使う言葉です。

「これは、クッション。言ってみて、クッション」

「ボコ!ボコ!」

 拓也くんが、緑色の大きなクッションを力一杯叩き始めました。

「こーら、乱暴しない。ほら言ってみて、クッション」

「くっちょん」

 そんな微笑ましい様子を、拓也くんのお母さんも眺めています。


「拓也くん、本当に元気で、保育園の中をずっと走り回ってますよ」

「家の中ももう大騒ぎで。いつも頭ぶつけないかヒヤヒヤしてます」

 妻と拓也くんのお母さんは、外で会っても挨拶と、ちょっとした雑談をするような関係になっていました。時たま、家族でお出かけする拓也くんに出会い、お父さんにも会ったりしていたそうです。拓也くんのお父さんもお母さんと同じくとても優しそうで、会話はあまりしたことは無いそうですが、家族でお出かけ中に偶然出会ってしまった妻と拓也くんのお母さんが話していても文句一つ言わず、いつもニコニコしていた印象だったそうです。


 そんなある日、拓也くんがクラスメイトの女の子を殴って泣かせてしまう、という事件が起きました。

 これは正直保育園だと日常茶飯事ですが、拓也くんの場合は少し特殊でした。

 普通は、相手が大声で泣き始めると、殴ってしまった子はびっくりして一緒に泣き出してしまうか、キョトンとして動きを止め、周りをキョロキョロ見渡します。

 しかし、拓也くんは女の子が泣いても、彼女を殴り続けていました。

「どうしてそんなことするの!」

「ボコ!ボーコ!!」

 妻が拓也くんを背中から抱いて女の子から引き剥がします。その時も拓也くんは腕と足をブンブン振り回し「ボコ」という言葉を連呼していました。


 女の子の泣き声を聞いて、園長先生が教室までやってきました。園長先生は50歳ほどの大ベテラン女性保育士で、子供をあやすのも上手で幼児からも人気が有り、また保護者や職員からの信頼も厚い方だったそうです。

 女の子をあやしながら、先輩保育士が今起きていることを園長先生に報告すると、園長先生の顔が見る見る厳しいものに変わっていきます。

 女の子を他の保育士に預け、園長先生が妻と拓也くんのところにやってきました。

 園長先生は先ほどまでの怖い表情では無く、にっこり笑っています。

「拓也くん、ボコ楽しい?」

「ボコ!ボコ!」

「いつもどこでボコしてるのかな」

「えっとねー、ねるまえとかー、きのうも」

「パパと一緒にしてるの?」

「ママもたまにする」

 園長先生はそのままその場を離れ、どこかに電話をしています。そこは児童相談所でした。


 ここから先は妻が園長から伝え聞いた話だそうですが、園長先生は相談所の職員と一緒に拓也くんのお家に踏み込み、そこで布団の上で動けなくなっていた四歳の女の子を発見したそうです。

 その子は身体中に明らかに虐待によるものと思われる痣が複数あったため、即日行政に保護されました。

 調べによると、拓也くんのお父さんとお母さんは、最初は女の子の世話をしっかりしていたそうなのですが、拓也くんが生まれてからは長女の世話が蔑ろになり、そこから彼女に対して日常的なネグレクト、殴る蹴るの暴行を繰り返していたそうです。裁判によると、時には拓也くんにも長女を殴らせていたらしく、彼女は普段から家庭内で「ボコ」と呼ばれていたそうです。


 もちろん拓也くんもその日以降保育園に来なくなりました。恐らく親戚に引き取られたのではとのことです。拓也くんのお父さんとお母さんは虐待で逮捕されたそうですが、その後どうなったかはわかりません。


 妻は時々、「拓也くんはきっと、悪いと思ってやってなかったんだよね。遊びだと思ってたんだよね」と言います。もしあの時園長先生が事態に気が付かず、そのまま拓也くんが成長していったらどんな人間になっていたのか。いや、拓也くんは今まさに成長していっています。我々の知る拓也くんの話は既に終わっていますが、拓也くんの生活はまだこれからも続いていくのです。

 私と妻は、テレビで学校でのいじめ報道があるたびに、ひょっとしたら加害者は拓也くんなんじゃないか…と不安になります。これから数年して、さまざまな事件、詐欺、暴行、殺人の報道を見るたびに、妻は二歳の男の子が全力で女の子を殴る光景、その子の顔、その子を抱いた重み、匂い、そのお母さんの笑顔、した会話、お父さんのニコニコ笑顔を。何より、三人で幸せそうにお出かけしていた拓也くん家族の様子を思い出すことになるでしょう。


(補足:拓也くんとそのお母さん、もしこの投稿を見てましたら、この話の話者が誰なのかご連絡頂けますと幸いです。


ますますおかしなことに気がつきました。私は彼のアパートに行ったことがありますが、正直8人も人が入ると身動きが取れません。いや6人くらいでもかなり息苦しいと思います。それに、8人もいて生活音とか、雑音がしないなんてことありますか?これは本当に彼の部屋なんでしょうか)


【少し間があり、次の話へ】

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