第35話 郊外にて

「ほら、みんな。フリッツお兄ちゃんが来てくれたわよ!」

 中庭で遊んでいた子供たちが一斉に振り返ると、門から入ってきたフリッツに歓声とともに群がった。

「ほらほら、慌てると怪我するよ。授業が終わったら手品見せてあげるから、まずは教室の中に入って」

「はーい!」

 白いブラウスに青いロングスカート姿の若い女性が、屋内からぱたぱたと出てくると、フリッツに申し訳なさそうに謝った。

「いつもごめんなさいね、遠かったでしょう?」

 フリッツを上目遣いに見た彼女は、ほんのわずかに頬を染めると、慌てて眼鏡の位置を直すふりをする。それに気づかない当のフリッツは、背負ったバックパックを下ろすと、敷地内の校舎や畑をぐるりと見渡した。郊外の澄んだ微風が黒い髪をそよがせ、午後の淡い陽光が広い額を柔らかく照らす。

「ご無沙汰しています、ジュディ先生。最近ちょっとばたばたしていたものですから、緑竜寮に来るのも久しぶりになってしまいましたね」

「もう、まったくです。いつこちらにおいでになるのか分かりませんでしたから、子供たちをなだめるのに苦労しましたよ」

 ねた口調でフリッツを困らせることが出来たことに満足すると、ジュディは笑いながら彼の荷物を受け取る。フリッツも照れたように笑い返すと、真顔に戻って仕事の話を切り出した。

「それで先生、今日はどんな感じですか?」

 ジュディは我に返ると、手元のメモをフリッツに渡しながら説明を始める。

「先週から熱が出てる子が二人に、昨日からお腹が痛い子が一人。あ、そうそう、マシューとジムが昨日喧嘩して、二人ともあちこち傷ができているみたいなんです。お願いできますか?」

 フリッツはうなずくと、目を上げてジュディと苦笑を交わした。

「了解です。じゃあまずは、問題の二人からみてみましょうか」

 すぐにジュディは、やや太り気味の男の子と、対照的にやせた体格の男の子を連れて戻ってきた。気まずそうにしている子供たちも、母親代わりになって一人でこの寮を切り盛りしているジュディに言われると逆らえない。フリッツは二人のそばにしゃがみ込むと、穏やかな口調でそれぞれに尋ねた。

「こんにちは、マシューにジム。どうして喧嘩なんかしたんだい?」

 二人はお互いにそっぽを向いて黙ったまま、口を開こうとしない。

「これは困ったなあ。今話してくれないと、僕、君たちの事をすぐに忘れちゃうかもしれないよ?」

 フリッツの言葉にどこか真実が含まれていることを漠然と感じたのか、子供たちはおずおずと顔を上げた。太り気味の男の子が、頬をふくらませながら話し出す。

「ジムが、自分のお母さんのことをずっと僕に話すんだ。それで……」

 フリッツは黙って先を促す。

「それで、僕、悔しくなっちゃって」

「……そうか。マシューは、お母さんのことを覚えていないんだね?」

 太っちょのマシューは、ちぇっと言いながら足元の小石を蹴った。

「うん、名前も知らないや。でもジュディ先生がいてくれるし、僕と同じような子なんていっぱいいるから、全然平気だって今までずっと思ってたんだ。だけど」

 フリッツは後ろでうつむいている細身の男の子を振り返った。

「でもジムは、悪気があって言ったわけじゃないんだろう?」

 やせている方の男の子、ジムは、こっくりとうなずいた。

「僕のお母さん、僕が小さな頃に死んじゃったんだけど。時々誰かにお母さんのことを話さないと、どんどん忘れちゃうような気がして。でも、マシューがこんなに怒るなんて思わなくて」

 フリッツは、二人の頭をぐりぐりと押さえながら笑った。

「僕、安心したよ。二人とも何も間違ってないじゃないか。僕も昔のことはほとんど覚えていないから、マシューの気持ちも、ジムの気持ちも、どっちもよくわかるんだ」

 男の子たちは、驚いた顔をしてフリッツを見上げた。二人の肩を抱くと、遠くを見ながらつぶやくように語りかける。

「でもね。昔の思い出よりも、昨日の喧嘩みたいなちっぽけなことが意外と大事でさ。そういうのが積み重なって、明日も頑張ろう、ってなっていくもんじゃないのかな。あまり昔の事とか先の事とか考えちゃうと、足がすくんで動けなくなっちゃうぞ」

 要領を得ないような顔をして聞いている子供たちに笑いかけながら、フリッツは自分が見えなくなっていく。

 昔の思い出、か。

 炎、塔、風、死。

 カタリナ。

 フリッツは心の中で自嘲した。わずかな記憶にすがり付いているこの僕が言えた義理では到底ないが。それでも、この子たちには僕のようにはなってほしくない。憎悪と復讐の炎で常に自分の身を焼かれている、死ぬことのできない亡霊には。

「ほら、二人とも怪我したところを見せて。治せるもんなら、治しちゃうからさ」

 二人が出した傷のそれぞれに手をかざすと、それらはすぐに周囲の皮膚に溶け込むようにして消えた。それを見ながら、フリッツはぼんやりと考える。この傷のように、今の僕の記憶もまた、きれいさっぱりと消えてしまうのだろうか。

 フリッツは頭を振ると、絶えずまとわりつく懊悩おうのうを無理やりに追い払った。まったく、僕自身が身動きがとれなくなってしまってどうする。早く仕事を済ませて、夕食当番のリョーコさんを手伝ってあげよう。

 立ち上がり、校舎の中へ入ろうと子供たちの手を引いたその時。

 リン、リリン。

 ぎくりとしたフリッツは、慌てて正門の方角を振り返った。入り口に続くあぜ道の奥から、横に並んだ二人の人影がゆっくりと歩いてくる。一人は茶色の長衣を頭からかぶった長身の人物であり、もう一人は遠目にもわかる異形。

 同時に倒れ込んだ子供たちを両手で支えたフリッツは、そこに見た。気を失ったようにぐったりとしているマシューとジムの頭髪はそろって、今や鮮やかな銀髪に変化していた。

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