第36話 破瑠那とスプリッツェ

「リョーコ、もうすぐお昼のパンが焼き上がるわよぉ」

 工房の奥から届いたレイラの声に、エプロン姿のリョーコは額の汗をぬぐった。そろそろ昼食のパンを買い求めるために常連客が来店してくる時刻である。

「了解、レイラさん。かまから出してくれたら並べちゃうから、いつでも教えて」

 からんと乾いたベルの音に、リョーコは慌てて振り返った。フライング気味のお客さんだな、まだ準備中の看板を出したままのはずだけれど。

「あの、すいません。午後の販売時間まで、もう少々お待ちいただければ……」

 それきりリョーコは、二の句を継げることができずに押し黙った。水色のスーツにトリコロールのネクタイ。こんな奇抜な格好の奴は、異世界をまたいで探してもそう多くはあるまい。

「ハロー、ミス・リョーコ」

 紅を差した赤い唇から、歌うような声が流れる。見間違えようもない、けばけばしいグラムロックスタイル。男は滑るようにカウンターに歩み寄ってくると、からかうように細長い指をひらひらと振った。

「お久し振りです。私が差し上げた道具の調子、その後いかがですか?」

 衝撃から素早く立ち直ったリョーコは、招かれざる来訪者をにらみつけた。

「……こんな白昼に、しかも店の中に現れるなんて。大した度胸ね」

「大丈夫です、今この空間は完全に保護されていますから。むろん、悪魔からもね」

 重たげなアイシャドウの下のターコイズブルーの瞳は、瞬きもせずにリョーコを見つめている。周囲をちらりと見たリョーコは、店内がやけに静かなことに気付いた。レイラがいるはずの工房からも、扉一枚隔てたそこは雑踏であるはずの屋外からも、何の物音も響いてこない。何かしら結界のような場の中に隔離されたらしい、とリョーコは推測した。そしてその言動から察するに、この男はどうやら、昨夜起きたばかりの私と悪魔との戦いのいきさつまでも知っているらしい。本当に見透かしたようなことを言う。

 口元をわずかにゆがめたリョーコは、肌身離さず手元に置いている長刀を男に掲げて見せた。

 「まあ、この刀のおかげで助かったことには違いないわ。でも、あなたにお礼を言う必要はあるかしらね? 私を助けるためにくれたものじゃなさそうだし」

 男は金色の短髪を指先で整えながら、薄く笑った。

「お礼などと、結構ですよ。この前も言いましたが、別に目的があってお渡ししたわけではありませんから。あなたがそれをどのように使おうとも、私にとって損はない。ただ、それだけのことです」

「そう。じゃあ、今日は何をしに来たの?」

「ベーカリーを訪れる理由はただ一つ、パンをいただくためですよ。クロワッサンが大変おいしいと、こちらの彼が言ってましたよね?」

 彼、ときたか。この家で彼と呼ばれるのは一人しかいないけれど、フリッツ君がこの家に同居することに決まったのも、つい昨夜のことだ。しれっと自分の全能感を相手にひけらかす演出、こういうところがマジでかんさわる。

 しかしフリッツ君のことを知らなさすぎる私にとっては、彼についての何らかの情報を引き出せるのであれば、こいつの厭味ったらしい言動を我慢するだけの価値はあるのかもしれない。

「あなた、フリッツ君を知っているの?」

「私にとっては古い知人です。もっとも、彼のほうでは覚えてはいないでしょうがね」

 やはり記憶喪失か、とリョーコはやるせない気分にとらわれた。半年より以前の記憶がないんです、なんて軽く笑うけれど、私と違って本物の記憶喪失である彼にとっては、まったく笑える状況じゃないはずなのに。

 そんなリョーコの憂いを無視して、グラムロックの男はふわふわと話を続ける。

「ところで申し訳ありませんが、私はこの世界の通貨を持ち合わせておりません。よって誠に厚かましいのですが、物々交換ではいかがでしょう?」

 はん、と失笑が口を突いて出る。物々交換だってさ。この男の能力なら恐らくパンを手に入れることなど造作もないはずなのに、白々しい。さらに言えば、パンなるものが必要かどうかすらも怪しい。

「極上の焼きたてクロワッサンなんだけど、何と交換してくれるのかしら? もしかして、また刀とか?」

 冗談のつもりでリョーコが放った言葉に、男ははじかれたように手を叩いて喝さいを送った。

「素晴らしい! あなたは記憶保持能力のみならず、予知能力も備えているのですか? だとしたら、あなたを改変した者はまさしく全能者だ。まあ正確には、刀ではなく剣ですがね」

 男は銀色の鞘に納められた一振りのブロードソードをどこからか取り出すと、リョーコの目の前でそれを抜いて見せた。

 確かに上質な素材で作られてはいるようだが、一見すると何の変哲もない片刃の剣である。しかしよく見ると、わずかに反った刀身の表面に無数の細かい溝が彫られていることに、リョーコは気付いた。刀身にそのような加工を施せば、強度的にはもちろん有利であるはずがない。なんなのその剣、儀礼用かな?

「いかがですか? 実はこの剣のかつての持ち主は、彼だったのですよ」

 またしても、彼。

「フリッツ君が、この剣の元の所有者……」

 グラムロックの男は刀身を陽の光にかざしながら、昔を懐かしむような目をした。

「いかにも。彼が記憶をなくしたときに紛失していたものを、私がたまたま手に入れましてね」

 リョーコの顔色がさっと変わった。

「たまたま? あなたもしかして、フリッツ君の記憶が無くなった理由に関係しているんじゃないでしょうね? 返答次第ではこの場で斬るわ」

 彼を苦しめている元凶がこの男であるならば、到底見逃すことは出来ない。そしてその可能性は多分にありそうだと感じさせるだけの異様さが、こいつにはある。

 リョーコは長刀を体にひきつけると、眼光鋭くにらみながら鯉口を切った。その激しい剣幕に、男は降参したように慌てて両手を上げる。

「落ち着いてください、ミス・リョーコ。あなたも気付いているとは思いますが、私は観察者なのですよ。言ったでしょう、私はこの世界の人間に直接干渉することはできないと。彼の記憶喪失の原因も、私ではありません」

「そうだとしても、あなたその原因を知っているのね? 今すぐにここで話せ!」

 男は乱れたネクタイを直しながら、値踏みするようにリョーコを眺めた。

「その情報は、クロワッサンと交換するには少々高すぎますね。だから今回は、この剣一振りとの交換でお願いします。彼の愛剣『スプリッツェ』とね」

 詰問することもつかの間忘れて、リョーコはその剣の名前に意識をそらされた。

 スプリッツェ、ってそう言ったか、それとも私の聞き間違えか? 私がドクターだから、どうしても医学用語に似た言葉に反応してしまうのかもしれないけれど。でもまさか、剣にそんな不釣り合いな名前を付けるとも思えないし。

 グラムロックの男はリョーコの戸惑いを楽しむように薄ら笑いを浮かべていたが、やがて、さも忘れていたことを偶然思い出したかのように言った。

「そうそう、あなたにプレゼントさせていただいた道具にも、実は名前があるんですよ。この前はお伝えし忘れていて、大変失礼しました。あの道具は『破瑠那はるな』というのです」

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