第25話 主治医と指導医

 夜の冷気が石畳の下から少しずつ忍び寄ってきている。横たわった少女の身体にコートをかけたフリッツは、顔の上半分を覆っている赤く染まった布を新しいそれに換えた。

「この子、もう少し大丈夫でしょうか? リョーコさんの脚が治ったら、どこか安全なところに運びたいところですが」

 確かにそうだとリョーコはうなずいたが、もはや眼球自体の治療については焦りはなかった。治癒魔法が予想通りの効果を発揮してくれるのであれば、ある程度時間が経過しようとも手遅れという事はない。何しろその根幹となる原理は「再生」にあるのだから、極論を言えば網膜や視神経がほんのわずかでも残っていれば、大部分が欠損していても修復可能という事になる。そして今、きれいに接合された自分の骨を見て確信した。正しい解剖学的知識を伝えてあげれば、それはきっと現実になる。

 一度少女の手を握って脈の速度と強さを確かめると、リョーコは中断していた作業にフリッツの注意を向けた。

「それじゃ私の脚、急いで仕上げをしようか。骨と同じ要領で、筋肉と皮膚の修復もよろしく。脛骨の内側には筋はほとんどないから、外側にある長趾伸筋と前脛骨筋をそれぞれつないでくれればオーケーだよ」

「まったく、もうちょっとゆっくり説明してくれないと何が何だか。しかしまあ、ここはお姉さんの言うとおりにするしかありませんね」

 あれこれと指図されながら、フリッツは着実に治療を進めていく。その唇からもれたわずかなため息をリョーコは聞き逃さなかった。それは疲労から来たものではなく、静かな感動から生まれたものであるように彼女には思えた。

「……どう、フリッツ君。君たち治癒師は、本当はすごいことが出来るんだよ」

 深部から順番に元の形を取り戻していくリョーコの左脚を見ながら、フリッツがぽつりとつぶやく。

「驚きました。治癒魔法って、人の役に立つんですね」

「当たりまえでしょ、今更」

「いえ。僕は今まで、戦いの最中にしかそれを使って来ませんでしたから」

 悪魔との戦いで受けた傷を治すことにしか使ってこなかったという意味なのか、それとも例の証拠隠滅のために咬み傷を消してきたことを指しているのか。いずれにしてもフリッツの嘆息は、戦いよりも人を助けることの方が有意義だと思ってくれていることの証左なのだと、リョーコはそう思うことにした。

 そしてフリッツの治癒魔法はその効果を十全に発揮し、リョーコの左脚は傷一つない元の状態に復元された。

「リョーコさん、ひとまずこれで終わりですが」

「うーん、どれどれ……おお、足首も足の指も、しっかり動くじゃない!」

 恐る恐る立ち上がったリョーコは、両足で軽く跳躍してみた。痛みもなく、高さも申し分ない。治癒魔法の力に改めて感激したリョーコは、着地の際に大きく顔をしかめる。

「いつつつ。左胸を痛めたままなの、忘れてた……でも歩けるなら、もう上出来」

 リョーコは気絶したままの少女の傍らにかがみ込むと、改めて脈をとった。

「うん、バイタルは変わらずしっかりしてる。ねえフリッツ君、レイラさんのお店がここからもう近いし、この子を私の部屋まで運んでくれないかな。そこで一緒に治療してくれると嬉しいんだけれど」

 フリッツは少し迷っていたようだったが、やがてリョーコの提案を受け入れた。

「了解です、リョーコさん。……また、こんなふうに教えてくれますか?」

 しかしリョーコは、フリッツが自分とは距離を置いていることをどこかで鋭敏に感じ取っていた。単に戦闘に巻き込みたくないというだけではない、何か別の理由で。しかし今聞いてみても、恐らくは話してはくれないだろうと予想できたし、そうであっても別に落胆することはないと彼女は思う。人の気持ちを無理に振り向かせることは出来ないのだから、自分の気持ちに素直になればいい。

 リョーコは自慢げに胸を張ると、フリッツの胸をつついた。

「もちろん教えてあげるよ、当然じゃない。ひよっこの主治医さんには、厳しくも優しい指導医が必要だからね」

「また変な言葉を。しどうい、って何ですか」

「手取り足取り教えてくれる先生、ってことだよ。きれいな年上の先生なんて、フリッツ君ラッキーだね」

 へえ、とフリッツはリョーコを冷ややかに眺める。

「先生、ねえ。くどいようですが、リョーコさんは年上なんかじゃありません」

「いいじゃない、お姉さんと年下君シチュってことで。そういうの、案外嫌いじゃないでしょ?」

 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく噴き出した。

「それじゃあ急いでいきましょうか、指導医殿」

「オーケー、その子をなるべく揺らさないようにね。頼んだわよ、主治医さん」

 リョーコは長刀を背負いなおすと、少女を抱きかかえたフリッツとともに、暗い路地を滑るように駆けだした。


 二人が去って静寂を取り戻した路上を、男は闇の中から飽くことなく見つめていた。

「……驚いたな、フリッツ以外にカクシクスを倒せる奴がいたとは」

 手の中でもてあそんでいる金色の鈴がかすかな音を奏でたが、その男以外に鈴の音を聞くことが出来る者は、その場には誰もいない。

「似ている、か? 半年前、フリッツと刺し違えたあの女に」

 顔の半分ほども覆っている大きなゴーグルの位置を神経質にいじりながら、そこまで離れてはいない過去の記憶をたどる。セルビカ自らが彼女の死亡確認をしたのだから、あの時死んでいたのは間違いない。それが、どうして生きている? 可能性はもちろんいくつかある。単なる他人の空似、転生あるいは別の手段での蘇生、フリッツのような改変者の可能性。当然、最初の奴が最もいいわけだが。

「だがあの時は、悪魔を倒せるような力は持ち合わせていなかったはずだ。あの女自身の能力か、はたまた手持ちの武具の効果なのか」

 しばらくの沈黙。

 いずれにしても、何らかの不確定要素の干渉があることは間違いない、と男は結論付けた。この状況、俺の立場なればこそうまく利用できるはず。

「示してやるさ。招かれざる客なりの、けじめって奴をな」

 低い忍び声を残すと、男の影はかき消すように消えた。

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