第26話 信頼
人通りの絶えた暗い裏道を手探りですり抜けて、リョーコとフリッツ、それに傷ついた少女の三人は、ベーカリー「トランジット」の勝手口にたどり着いた。出来るだけ音を立てないようにと細心の注意を払いながら、リョーコは手持ちの鍵でゆっくりと錠前を外す。
今夜だって寄り道せずに直帰しようとしていたんだし、悪いのはあの悪魔よ、私じゃないもん。おっと、フリッツ君をお泊りに誘ったりしたのは内緒だ。
リョーコは人差し指を唇に当てて、フリッツに声を出さないようにと合図を送る。不本意ながらも共犯者として彼女の片棒を担がされているフリッツは、神妙な顔でうなずいた。扉の取っ手をそっと引き、踏み込みながら屋内を振り返ったリョーコの前には、腰に手を当てて仁王立ちしているレイラの姿があった。
「う……わあっ!」
あまりの驚きに、リョーコは情けなくも尻餅をついてしまう。魔法の燭台で下から照らされたレイラの姿は、さながら幽鬼のようだ。いつもと変わらないレイラの朗らかな笑顔が、今のリョーコにはひたすら恐ろしいものに感じられる。
「期待通りの反応、どーも。おかえりリョーコ、そろそろ帰ってくる頃だと思って」
「ど、どうしてわかったの」
「あれ、言ってなかったっけ? レオニートと結婚する前は私、王国軍の官舎の寮母をしていたのよ。門限破りを待ち構えるのなんて朝飯前よ」
すまして答えるレイラの言葉に、リョーコは真っ青になった。まさか鬼の寮監だったとは、これはまずいことになった。素早く立ち上がって直立不動の姿勢をとると、もみ手をしながら卑屈に愛想笑いを返す。
「するってえとあれですか、旦那さんともそこで出会ったってことですかね。そいつはまことに結構、私も一つあやかりたいなってなもんで」
この場を生き延びるために道化を演じるリョーコを、レイラは冷ややかな目で見下ろした。
「リョーコ、あなたキャラ崩壊してるわよ。この前あんな目にあったばかりなのに、性懲りもなくこんな遅い時間まで……ん?」
レイラは、リョーコの後ろに隠れるようにして立っているフリッツに気付いた。
「あ。君は確か、この前うちの店に来てくれた」
ぽうっと頬を薄く染めたレイラに、美少年は丁寧に頭を下げた。
「フリッツです、先日はどうも。こんな夜分遅くに申し訳ありません、実は火急の要件で」
フリッツは身体を少し回すと背負った少女をレイラの方へと向けた。深紅に染まった布とその下から現れた深い傷を見て、レイラが思わず口を覆う。
「……何てこと」
「この子が夜道に倒れているところを、たまたま通りがかった僕らが見つけたんです。とりあえず、近くのこちらに運ばせてもらおうということになって」
少女の顔に灯りを近づけたレイラは、驚きの表情を浮かべた。
「この子、ポリーナの同級生のコレットちゃんだわ。……でもコレットちゃんは、確か金髪だったと思うんだけれど。どうしてこんな銀髪に」
いぶかしげに少女の銀髪に手を触れたレイラに、リョーコは慌てて言いつくろった。悪魔の鈴の音で髪の色を変えられた、なんて説明したところでとても信じてもらえそうにはないし、話がややこしくなるだけだ。
「怪我をしたショックで、色が変わっているのかもよ。ほら、凄く怖い思いをしたときに髪が真っ白になったなんて話、聞くじゃない?」
レイラはリョーコの顔を探るように見たが、それほど長く考えることもなく、すぐにうなずいた。こういう時、レイラさんは優先順位についての判断が実に早い。あるいは軍に所属していた経験が、彼女にこのような迅速果断をもたらしているのかも知れない、とリョーコはちらりと考えた。
「そう、そうかもしれないわね。それでこの子、命に別状は?」
予想された問いに、フリッツが間髪入れず答える。
「ありません。しかし目の傷は、今すぐに治療が必要です」
「治療。でも、こんな深い傷……」
後に続くレイラの言葉を
「僕、これでも治癒師なんです。一人で治すのは正直厳しいですが、リョーコさんが手伝ってくれれば何とかなると思います」
レイラは驚きと困惑がないまぜになった表情で二人を交互に見る。
「え。フリッツ君、治癒師なの? それにリョーコが手伝うって、いったい何を」
「話の詳細については省略させてもらいますが、僕の治療には、リョーコさんの助けが絶対に必要なんです」
フリッツ君、その台詞はなかなかグッドだぞ。「僕にはリョーコさんが必要なんです」てな感じに短縮してくれると、もっと嬉しいんだけれどな。
そんなくだらない妄想をしていたリョーコは、レイラの落ち着いた声で現実に引き戻された。
「ねえ、フリッツ君。女の子を助けようとしているくらいだから、あなたの優しい気持ちについては疑う余地はないわ。でもこういう言い方は悪いけれど、治癒魔法って擦り傷を治すとか、わずかに熱を下げるとか、痛み止めをするとか、出来ることは限られているんじゃないの? 私も治癒師さんの治療というものは実際に見たことはないけれど、戦場に治癒師が参加していないのもそういう理由だし」
そう言ってレイラは二人の反応を待つ。ちらりと後ろを振り返ったフリッツの手をリョーコがうなずきと共に握ると、彼の双の瞳に力がこもった。
「大丈夫です。やれます」
その返事を待っていたかのように大きく笑うと、レイラはエプロンを外し始めた。
「了解したわ。リョーコにフリッツ君、コレットちゃんのことは頼んだわよ。私は、彼女のご両親に連絡してくるから」
レイラはクローゼットの扉を開けると、素早く外出用のコートをつかみ出す。
「お願いします、お姉さん。それじゃあリョーコさん、お部屋にお邪魔してもいいですか?」
そうだった、とリョーコは顔を赤らめた。非常時だとはいえ、フリッツ君が私の部屋に。そわそわとうろたえると、ばつが悪そうにレイラの顔色をうかがう。
「二人きりじゃないし、男の子を部屋に上げちゃってもいいよね。寮母さ……もとい、レイラさん」
コートに袖を通しながら振り返ったレイラが、あきれたようにため息をついた。
「私は、別に二人きりでも構わないけれど。しょーもないこと言ってないで、早く行きなさいな」
ぱあっと顔を輝かせたリョーコは、はい、とうなずいた。知り合ったばかりのフリッツをレイラが信頼してくれていることが、素直にうれしかった。
「ありがとう、レイラさん」
感謝の言葉を残すと、フリッツと傷ついた少女を伴ったリョーコは、足早に階上へと上がっていった。
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