第27話 個人授業
リョーコの部屋は昼夜を問わず、常に魔法の常夜灯が点いている。淡いオレンジ色に染められた室内に足を踏み入れたフリッツは、コレットという名の銀髪の少女を寝台にそっと横たえた。
よほどのショックを受けたのだろう、多少ゆすったくらいでは少女は目を覚ましそうにない。目に受けた傷からの流血は今ではもう止まっているが、乾いた褐色の血のりが頬にこびりついているのが痛々しい。
「じゃあ始めましょうか。まずは必要なものを準備して、と」
リョーコは部屋からいったん姿を消すと、何回かに分けて様々なものを運び込んできた。水のたっぷり入った洗面器、大量の布、裁縫などに使う片目の拡大鏡、ノートと万年筆。テーブルの上に並べられていくそれらの品々を、フリッツが興味深そうに眺める。
「フリッツ君。目についての知識って、君の記憶にある?」
「いえ。先ほどの脛骨や腓骨って奴と同じく、全然ですね」
申し訳なさそうにかぶりを振るフリッツに、しまった、とリョーコは唇を噛む。私のばか、ずっと記憶がないって言ってたじゃないか。ごめん、と小さくつぶやいたリョーコは何も書かれていないノートを広げると、気を取り直したように万年筆を取り上げた。
「それじゃあちょっと紙に書いてみるから、イメージしてみてくれるかな」
そう言うとリョーコは、眼球の構造をノートに書き込みながら図解していく。
「まぶたが、まずあるよね。その下におさまっている眼球には、一番表面に角膜っていう膜がある。で、その奥に、
「ここ、って、この国にってことですか? かめ、ら……聞いたことはないですが。でもレンズなら、その拡大鏡にもついている奴ですよね?」
「そう、そうね。そしてその下の眼球の大部分には、
さらさらと書き込みながら、時々上目遣いにフリッツの反応を確かめていく。小さな文字を目で追いながら口の中で復唱し続けるフリッツは、要所要所でリョーコに質問を返したりしながら、眼球の解剖についての知識を素早く吸収していく。
「うん……うん。機能はともかく、構造については分かってきた気がします。治癒魔法は、対象となる組織さえ識別し同定できれば、それと同じ組織を新しく再生できますから。どこに何があるか、あるいはあるべきかがおおよそ分かっていれば、あとは手探りでも何とかなると思います」
とんでもないことを簡単に言ってくれるわね、とリョーコは自分の現実感が希薄になっていくのをかろうじて抑えた。一口に魔法というが、人体構造の組成などという無機物と有機物の無限に近い組み合わせの産物を、それこそ肌感覚で把握することなど可能なのだろうか。車の構造や駆動原理を知らなくても、ことさら意識することなく運転して目的地までたどり着けるのと同じような感覚なのかもしれないが。しかしここで深く考えても仕方がない、結局のところ大切なのは、何が出来て何が出来ないのかということなのだから。
「あの、どうかしましたか」
リョーコは笑顔を作ると、フリッツの背をぽんと叩いた。
「ううん、何でもない。じゃあ後は、実際に進めながら学んでいくとしようか」
傷ついたコレットのそばにかがんだリョーコは、医師としての自分を記憶の中から引き出す。元の世界での治療手順をこの世界に当てはめるとするならば、何から始めるべきか。
まずは十分に深く麻酔をかけることだ、と彼女は結論付けた。
「フリッツ君。確か治癒魔法には、『鎮痛』のほかにも『鎮静』があったわね」
「本当に詳しいなあ。その通りです、リョーコさん」
「動いちゃうと危ないから、まず『鎮静』、次に『鎮痛』の順番でお願い」
「……なるほど、わかりました」
フリッツはコレットの額に手を当てて「鎮静」、次に眼に手をかざして「鎮痛」の魔法を施していく。
「リョーコさんの話していることって、学問、ですよね。『鎮静』も『鎮痛』も僕たちが使う魔法としては基本的なものですが、こうして組み合わせれば、確かに大きな治療を行うことも可能ですよね」
「方法論としては一緒だよ。以前私が住んでいた国には治癒魔法なんてなかったから、特定の薬草の成分で眠らせたり痛みを和らげたり、ってのをやってただけで」
まったく的外れな言い訳ではない、とリョーコは自分を無理に納得させる。
「終わりました、これで当分の間は大丈夫なはずです」
「ありがと。じゃあ、次は何かな? さっきの私の授業、思い出して」
「え、と。『浄化』かな」
「せいかーい。傷を見たら『鎮痛』と『浄化』。はい、復唱!」
「……傷を見たら『鎮痛』と『浄化』!」
「それでは、私の脚の時と同じように『浄化』よろしく。あと、コレットちゃんの傷ももちろんなんだけれど、私と君の指、それに洗面器の水やガーゼなんかも一緒にお願いできるかな」
ふむ、とフリッツが手を止めて宙をにらむ。
「それ、先ほどと同じ理由ですよね。指や水が汚れていると、リョーコさんの言うところの微生物が傷口で繁殖して、いずれ悪化させる可能性がある、と」
リョーコはフリッツの聡明さに改めて感心する。感染という概念を、先入観なく素直に受け入れることができる柔軟さがある。
「フリッツ君ったら優秀すぎるわね。半年前から記憶がないっていうけれどさ、そこからでも治癒師アカデミーに入ればよかったのに。きっと首席だよ」
そう言いながらリョーコは、魔導士アカデミーの方にもとんでもない首席がいることを思い出して可笑しくなった。そういえば、魔導士であるヒルダは治癒師や治癒魔法についてどういう印象を持っているのだろうか? 今度会ったらぜひ聞いてみたいものだが。
「浄化」を一通り終えたフリッツは、ふうと一息つくとリョーコに苦笑を返した。
「首席って、それは無理だなあ。僕、いつまた記憶をなくすかわかりませんからね。僕ほど治癒師が不向きな奴なんていないですよ」
またしてもやってしまった、とリョーコは自分の軽はずみな発言を後悔した。記憶喪失を繰り返している、とフリッツ君はあの店で私に語った。忘れたくない記憶を忘れてしまう彼は、忘れたい記憶を忘れられない私と同じように、とても苦しい思いをしているに違いない。
私って、無神経だな。
リョーコの沈黙の意味を察したのか、フリッツは努めて明るく笑った。
「別にいいじゃないですか。わざわざアカデミーなんかに行かなくても、こうしてリョーコさんが教えてくれるわけだし。いつ忘れるか分からないのは申し訳ないですけれど、それでよければこれからも治療について教えてください」
リョーコの胸の奥がちくりと痛んだ。
フリッツ君はいつもそうだ、自分の気持ちを内側に隠して。
私、別に彼の何でもないけれど。
そんなの、ちょっと寂しいじゃない。
落ち込んでいるリョーコの顔を、フリッツがからかうように覗き込んだ。
「あ、念のために言っておきますけれど、教えてくれるのは治療だけで結構ですから。キスの経験もなかったのに、間違っても恋愛指南とか無謀なことはやめてくださいよ?」
フリッツの冗談に救われたリョーコは、彼の優しさに素直に甘えることにした。少なくとも嫌われてはいないんだ、これ以上欲張ってはいけないよね。
「ばか、いつまでキスなんかにこだわってるのよ。これだから思春期の男の子は嫌なんだ。私の得意はプラトニックな駆け引きなんだから」
顔を赤くしながらのリョーコの主張は、当然ながら迫力と説得力に欠けたものになった。
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