第28話 心の仕組み
「鎮静」と「鎮痛」を続けて施された少女は、寝台の上で昏々と眠りについている。まつげを指で触れてみて反応がないことを確かめたリョーコは、片目に拡大鏡をはめると少女の顔を横に向けて、浄化された水で傷口を丁寧に洗い始めた。すきまにたまっていた血の塊が洗い流され、切創の深い断面があらわになる。
リョーコはためらうことなく、親指と人差し指で少女の裂けたまぶたを開いた。
「……視神経までは達して無さそう。それでもひどいわね」
フリッツが不安げににリョーコの横顔を盗み見る。
「大丈夫ですか、こんな傷を見続けていて。気分悪くなったりとか」
「雑念多いよ、フリッツ君。いつまでも私が隣にいるわけじゃないんだ、次からは独りでも出来るように、見たことは一度で覚えて」
静かだが有無を言わせぬ口調に、フリッツが真剣な表情でうなずく。
やがてリョーコは近づけていた顔を離すと、拡大鏡を外してフリッツに手渡した。
「ごめん。私、眼科は学生の時に回ったきりなのよねー。フリッツ君、私がまぶたを開けたままにしておくから、探りながら修復できそう?」
「がんか、ですか。もはや言葉の一つ一つには突っ込みませんが、とにかくやってみますね。まずは右目からいきましょうか」
フリッツは目を細めると、指先に思念を集中する。
治癒魔法によって
これが、網膜。
「……リョーコさん。網膜ってやつ、どうやら大丈夫みたいです。どこにも欠けたところは見当たらない感じで」
少女のまぶたを開いたままでフリッツの横顔を注視していたリョーコは、その瞳に喜色を浮かべた。
「本当!? マジでラッキーじゃん。だったら、一つ浅い硝子体から始めればオーケーだよ」
「硝子体、ですね。了解しました」
リョーコの言葉を復唱したフリッツは、さらに感覚を研ぎ澄ませて組織構造を探ると、深窓から順番に再生を開始した。リョーコが書いたメモに時々目を走らせつつ、
「……硝子体、クリア。水晶体、クリア。……虹彩と角膜、クリア。そして最後に
ほうっとを息をついたフリッツは、額に浮かんだ汗をぬぐった。
「一通り終わったと思うんですが、どうでしょうか」
リョーコはそのあまりのあっけなさに、むしろ拍子抜けさえしていた。
すごい。再生それ自体もすごいけれど、とにかく早い。最終的な治療成績が同じだとしても、手術と治癒魔法では、それに要する時間が全く比較にならない。今更だけれど、治癒魔法って
「うん、見た感じは完璧だけど。あとはコレットちゃんを起こして、見えるかどうか聞いてみるしかないわね。とりあえずはこの要領で、左も治しちゃいましょうか」
「はい、リョーコさん」
右眼の治療でコツをつかんだのだろう、反対側に要した時間の半分ほどで、フリッツは左眼の治療も終えた。魔力の消費と緊張とで、さすがにやや疲労の色が見える。両手を床に着いて天井を見上げたフリッツに、微笑んだリョーコがねぎらいの声をかけた。
「お疲れさま、フリッツ君。『鎮静』と『鎮痛』の効果って、どのくらい持続するものなの?」
「そうですね、『鎮痛』はもうそろそろ切れるかころかな? でも組織修復は完了していますので、効果が切れても痛みは出ないと思います。『鎮静』については、小さい子なので少し深くかけましたけれど、必要があれば『覚醒』の魔法でいつでもリバースして起こせます」
ふうむ、とリョーコは顎に手を当てた。
「治ったかどうか、ご両親が来られる前に確認しておきたいわね。疲れてると思うけれど、『覚醒』までお願いできる?」
フリッツは笑いながら、右の親指を上げてみせた。
「全然大丈夫ですよ。さっき、『アングラーズ・ネスト』でブルーノさんにあれだけ美味しいものを食べさせてもらいましたから。リョーコさんの左胸を治す魔力だって十分に残っていますから、もう少しだけ待っていてくださいね」
リョーコはぐっと言葉に詰まりつつもうなずいた。指図だけして見ているしかないというのは歯がゆいけれど、手術設備も医療スタッフも存在しないこの世界では、彼の治癒魔法に頼るしかない。医師なんて一人では何もできないのに、私も含めて勘違いしていた奴のなんと多いことか。
「でも、この子を起こす前に、一つやっておきたいことがあるんですけれど」
体を起こしたフリッツはリョーコをちらりと見ると、奥歯にものが挟まったような物言いをした。
「え、何?」
フリッツは黙ったまま眠っている少女に身体を寄せると、その首筋を軽く咬んだ。その両の瞳はいつしか、最初に出会った時と同じように暗く赤い輝きを発している。コレットちゃんの記憶を消してあげているのだな、と理性では納得できても、何だかもやっとする自分の感情を持て余して、リョーコはいらいらと腕組みをしてしまう。
唇を離したフリッツが少女の首筋に手をかざすと、その咬み傷はまたたく間に跡形もなく消えていく。元の漆黒に戻った彼の瞳をにらみながら、リョーコは険を含んだ声音で不機嫌に突っ掛かった。我ながら狭量だとわかってはいるが、ここは一言くぎを刺しておかなければいけない場面だ。
「ねえ、フリッツ君。それって首にする必要ある? ひょっとして、手の甲とかでも同じ効果を得られるんじゃないの?」
「ええ、きっとそうだと思いますが」
しれっと答えるフリッツに、リョーコは
「じゃあどうしてあえて首なのよ、答えなさいよ」
「何怒ってるんですか、様式美ってやつですよ。ドラマチックな演出、といってもいいかな」
悪びれもなく笑うフリッツを見て、リョーコは彼に対する印象を改める必要があると感じた。
「……なかなかに腹黒いわね。君、結構エロいでしょ」
「はは、あえて否定はしませんよ。それでも幼女趣味ではないのでそこは安心してください。初めて会った時に確か、そのことでお姉さんに責められましたっけね」
「嘘だ。私に手を出してこない時点で怪しい」
「自己評価低いようなこと言ってるくせに、どこから湧き出てくるんですか、その自信は」
くだらないことでヒートアップしてきた会話を、少女の身じろぎが中断した。どうやら「鎮静」の効果が切れかけているらしい。
「フリッツ君、一度きっちりと『覚醒』で起こしてみた方がいいんじゃないかな」
「そうですね。中途半端に目を覚ましてしまうと、無事に治療できたかどうかはっきり確認できないかもしれませんね」
二人は目でうなずき合うと、少女を囲むようにかがんだ。フリッツがごくりとつばを飲み込む音が室内に響く。
「じゃあ起こしますよ、いいですね。『覚醒』いきます」
リョーコは息をつめて少女の顔を見守った。やるべきことはやったはず。
フリッツは少女の顔面に手をかざすと、半眼となって集中を始めた。ほんのわずかな時間で魔法の行使を終えた彼は、不安げな表情で目を開く。
部屋に流れる、緊張。
「う……ううん」
固唾をのむ二人の目の前で、少女はゆっくりと両のまぶたを持ち上げた。気だるそうに寝台の上に起き上がると、リョーコとフリッツへ交互に視線を送る。
「……お姉ちゃんとお兄ちゃん、だれ?」
フリッツがリョーコの肩を抱きよせた。リョーコも喜びのあまり、フリッツの首に両腕を巻き付ける。
見えてる。
治ってるよ。
そしてコレットの髪が、無機質な銀から柔らかな金へとその色彩をすうっと変えていく。恐らくは鈴の音の効力が消えたのだろう、と二人は考えた。
我知らず涙ぐみながら、どうしてこんなに嬉しいんだろう、とリョーコは不思議に思った。元の世界で医師だった自分は、すでに多くの患者を治療してきていたはずなのに、かつて今ほどの喜びを感じたことはなかった。
いったい何が違うのだろう、と考えたリョーコは、唐突に人の心の仕組みを理解した。
人を愛するように努力しなさい、なんていう人がいるけれど。
そんなの無理だ。
愛された事がなければ、人の愛し方なんてわからないじゃないか。
レイラさんに、ポリーナちゃんに、ヒルダに、そしてフリッツ君に、愛されていると私は感じる。
だから目の前にいるこの子も、この世界のすべても、愛しく映る。
私、このために転生してきたのか。
馬鹿だなあ、私って。
こんな大切なことに、死ななきゃ気付かなかったなんて。
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