第29話 名前のない英雄

 寝台の端に腰掛けたコレットは、自分のものではないパジャマとリョーコたちを交互に見ながら、不思議そうに首をかしげた。血糊のついた衣服は、すでにポリーナのものと取り換えられてある。熱い蒸しタオルでコレットの顔をぬぐったリョーコは、長い金髪を手櫛ですいて整えてやりながら笑顔を向けた。

「ここね、お姉ちゃんの部屋なんだ。コレットちゃんがお外に倒れてたから、夜も遅かったし連れてきちゃった。すぐにパパとママが迎えに来るから、もう少し待っててね」

 少女はぽりぽりと頭をかきながら、窓の向こうの夜空を見上げた。

「そうなの? ぜんぜんおぼえてない。でも本当だ、お外は真っ暗だね」

 コレットの表情に怯えの影が全くないことに、リョーコとフリッツの二人はほっと胸をなでおろした。フリッツの歯に付与されている記憶消去の魔法は、どうやらその効果を十全に発揮したらしい。コレットはきょろきょろと部屋の中を見回していたが、やがてフリッツの上で視線をとめた。

「はわー。お兄ちゃん、かっこいいねー。どこに住んでるか教えてほしいな」

「あ、あはは……実は僕、家がなくてね……」

 目で助けを求めるフリッツに、リョーコはつんと顔を背ける。それにしても最初に出会ったアンナちゃんといいこのコレットちゃんといい、最近のレディーはだらしのないことだ、と自分のことを棚に上げてリョーコが世相を嘆く。知らない男性がロリコンだったらとか考えて警戒するように教えられていないのか、まったく親の顔が見てみたい。おっと、そのコレットちゃんの両親がもうすぐやって来るんだったか。

 ぶつぶつとつぶやくリョーコの思索を妨げるように、部屋の扉がいきなり開いた。

「リョーコお姉ちゃん、どうしたの? こんな夜中に」

 寝ぼけまなこをこすりながら入ってきたのは、寝間着姿のポリーナだった。どうやら話し声を聞きつけて、目が覚めてしまったらしい。そういえば寝つきが悪いって言ってたな、とリョーコはポリーナの言葉を思い出す。しまったな、声が少し大きかったか。

 不機嫌そうに目を細めていたポリーナは、寝台の上の少女に目を留めると素っ頓狂な声を上げた。

「ええ、コレットちゃんじゃない! 何でコレットちゃんが、リョーコお姉ちゃんの部屋にいるの?」

 ポリーナとコレットの二人はお互いに目を見張りながら驚いていたが、すぐに手を取り合って喜び合う。ポリーナとコレットが同級生だとレイラが話していたことに思い当たって、友達同士が再会するその光景をリョーコは微笑ましく眺めた。

 ひとしきり飛び跳ねたポリーナはふと、リョーコの隣にいるフリッツの存在に気付いた。ふうむ、と難しい顔でフリッツを観察した後で、コレットの耳に口を近づけてささやく。

「ところでコレットちゃん、そこのきれいなお兄ちゃんはあなたの知り合い? もしそうだったら、私にも紹介してくれるとうれしいんだけれど」

「……」

 あきらめ顔で肩をすくめるフリッツの頭を、リョーコがぱしりとはたいた。何するんですか、と恨み顔で見上げるフリッツの抗議をにべもなく黙殺する。幼女三人が揃いもそろってたぶらかされるとなれば、これはもうフリッツ君のほうが悪いと言って差し支えないだろう。ギルティだ、この無自覚美少年め。

 一通り興奮が収まったとみえて、ポリーナは改めて最初の質問を繰り返す。

「それにしても、どうしてわたしの家に。コレットちゃん、リョーコお姉ちゃんといっしょだったの?」

「それがぜんぜんおぼえてなくて。でも私、なんか道に倒れてたところを、このお姉ちゃんとお兄ちゃんに助けてもらっちゃったみたいなんだよね」

「はあ?」

 ポリーナは腕を組むと、リョーコを横目でじろりとにらんだ。その迫力に、思わず首をすくめて距離をとる。あの疑いのまなざし、母親である鬼の寮監レイラさんにそっくりだ。

「……ふーん、そうなんだ。リョーコお姉ちゃんが人助けかあ、この前はお姉ちゃんのほうがリカルドさんに助けられてたくせにねー。私やお母さんに隠れて、こんなかっこいいお兄ちゃんと夜中に何してんだか」

 ポリーナちゃんにまで不順異性交遊を疑われているのか、とリョーコは頭を抱えた。詳しいことは話せないけれど、やましいことなんか決してないのに。ポリーナちゃん怖い、ぴえん。 

 半泣きのリョーコを助けるように、階下から複数の声が聞こえてきた。ばたばたと階段を上がってくるいくつかの足音が聞こえ、レイラと、その後ろから若い夫婦が続けて部屋に入ってくる。おそらく父親なのだろう、男性はそこに立っているコレットの姿を認めると、緊張の糸が切れたように大きく息をついた。

「コレット、無事だったのか! いつの間にか部屋が空っぽになっていて、急いで自警団にも連絡したんだが。でも、本当に良かった……」

 コレットははじかれたように駆けだすと、顔をくしゃくしゃにしながら両親に抱きついた。

「ごめんなさい、パパ、ママ。わたしもどうして外にでたのか、わからないのよ」

 リョーコとフリッツはすばやく視線をかわし合った。きっとあの鈴の音が、コレットちゃんを悪魔の元へと招き寄せたに違いない。それにしても、彼女の中の一体何が、悪魔の呼び出しに反応したというのだろうか。

 父親はコレットを母親の手に渡すと、リョーコとフリッツに向き直って丁寧に頭を下げた。

「レイラさんから聞きました、あなた方がコレットを見つけてくださったのですね。見たところ大きな怪我もないようで、本当に感謝の言葉もありません」

 黙ってにこにこと笑うレイラに気付いて、リョーコは合点がいった。レイラさんってば、ご両親を心配させないために、目の傷の事はあえて伏せていたんだ。私たちが必ず治すことができると信じていてくれたのだろう。目を細めたリョーコは、レイラにこっそりとピースサインを送った。同じく、ピースを返すレイラ。

 目を赤くして涙ぐんでいたコレットの父親は、フリッツの方に顔を向けると、おや、と何かを思い出したように表情を変えた。

「もしかして君は……サミー君が襲われた時に、現場にいた少年では?」

 少年の名前を聞いたフリッツの顔が、さっと曇った。

「私も、あの場にたまたま居合わせていてね。あれは実にひどい事件だった。君のことをサミー君の両親が今でも探しているのは、知っているかね?」

 リョーコの脳裏に、左胸を深く刺された赤毛の少年の顔がよぎった。そして、母親の深い慟哭どうこくの声も。息子を救えなかったフリッツ君を、彼女は今でも恨んでいるのか。

 同じことを考えていたのだろう、唇を強くかんでうつむいているフリッツの耳に、思いがけない言葉が届いた。

「彼の母親が、君に謝りたいと」

「……え?」

 はじかれたように顔を上げたフリッツに、コレットの父親がうなずく。

「彼らの息子さん、安らかな顔をしていたそうだよ。身体にも醜い傷一つなく。何か君にひどいことを言ってしまったとかで、大変悔やんでいた。君にもサミー君にも合わせる顔がないと」

「そんなこと」

 コレットの父親は、声に力を込めた。

「もしよければ君のことを彼の両親に伝えたいのだが、どうだろう? 何か誤解を解く手助けになれるのであれば、私としても嬉しいのだが」

 リョーコは、我が事のように心が躍るのを感じた。もとより報いとは、自ら求めるものではないにしても。あの時にフリッツ君がしたことは、決して無駄じゃなかったんだ。

 フリッツはしばらく言葉を失っていたが、やがて首を横に振った。

「……いえ。僕の事は、このまま伏せておいてくれませんか。僕の顔を見てしまうと、サミー君のご両親も、きっとあのつらい現場を思い出してしまうと思うんです。だから、どうか」

 コレットの父親は何か言いたそうにしていたが、やがてうなずくと姿勢を正した。

「君がそこまで言うのなら。けれど私は、君がこの街を守ってくれていることを誇りに思うよ。コレットの事も、本当にありがとう」

 コレットの父親はフリッツの手を強く握ると、家族と連れ立ってレイラの店を辞去していった。


 リョーコは目を閉じて笑うと、フリッツを肘でどんと突いた。

「よかったじゃん、フリッツ君」

「……はい。リョーコさん」

 背中を向けたフリッツのつぶやき声が、リョーコの鼓膜を優しく揺らした。

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