第30話 「トランジット」にようこそ!
興奮で目が冴えたまま眠ろうとしないポリーナを無理やり寝かしつけたレイラは、リョーコとフリッツをダイニングルームに誘った。
「あ、レイラさん。私、紅茶を用意しますね」
リョーコが戸棚からティーカップを三つ取り出したのを見て、レイラが腰を浮かした。
「私がやるわよ、あなた疲れてるでしょう?」
「大丈夫です、任せてください。私、紅茶のいれ方が最近うまくなったんですよ」
やがて湯気の立つティーカップを各々の前に並べたリョーコは、自分も席に着くと一口すすり、ほうっと息をついた。三者三様の、しばらくの沈黙。落ち着いたところを見計らって口を開いたのは、やはりレイラだった。
「さて、二人してこんな夜中に帰ってきたわけだけれど。もちろん、ただのデートじゃなかったんでしょう?」
リョーコは、「アングラーズ・ネスト」での会話を思い返した。ありていに言えば、結局はただのデートだったような気がする。悪魔との戦闘は、まったくの偶然だったわけだし。
まあデートだとしても、それはそれで結構なことだ、と開き直ってそれなりに満足している自分をリョーコは可笑しく思った。しかしフリッツのほうはといえば、視線を泳がせながら、ただ困ったような表情を浮かべている。
彼にしてみれば、リョーコの記憶保持についての純粋な興味とともに、悪魔との戦いに首を突っ込むなと忠告するための呼び出しだったのだろう。しかしその目的はどこかで変質してしまっていて、成り行きで協力関係を築いてしまい現在に至っている。
それぞれが全く違う表情の二人を交互に眺めたレイラは、小さく肩をすくめた。
「この前も今回も、子供が襲われているわよね。あなた達がそれにどう関係しているのかは、私にはわからないけれど」
ティーカップから立ち上る湯気を見つめていたフリッツは、ついに観念したように顔を上げた。
「お姉さん、僕は」
言葉を続けようとしたフリッツを、レイラは手を上げてやんわりと制する。
「何か、話したくない事情があるんでしょう? フリッツ君だけじゃなくて、どうやらリョーコも私に隠し事があるみたいだし」
リョーコは小さくなってうつむいた。あえて何も聞かないでいてくれるレイラさんに、隠し事をしているだけではなく嘘までついている自分は、なんと恩知らずなのだろう。本来なら私は、この家においてもらえる資格などないのに。
沈んだ様子のリョーコとフリッツに、レイラは柔らかな笑顔を向けた。
王国軍に所属していたレイラは、訳ありの兵たちを数多く見てきた。一定期間軍属の義務がある貴族階級の子弟を除けば、兵士に志願するなどといういわば変わり者の中には、何らかの理由で食いっぱぐれてその日の
そのようなすねに傷を負った彼らが、過去を隠したまま身を寄せ合い、共通の任務を果たすために互いに背中を預ける。そのような軍独特の
「別に、無理に話さなくてもいいのよ。あなたたちが間違ったことをしていないというのは、さっきのコレットちゃんの一件だけでもよく分かったから。ただ、危険なことに首を突っ込んでいるのに違いないっていうのが、心配なだけ」
フリッツは口を引き結んでテーブルの上を見つめながら、無理やり自分を納得させるように小刻みにうなずきを繰り返した。
「……お姉さんのおっしゃる通りです。だから、僕はなるべく誰とも関わりたくない」
フリッツは低い声でつぶやくと、闇よりも暗い漆黒の瞳をリョーコに向けた。
「リョーコさん、僕が路上生活をしているのはそのためでもあるんです。これからもよろしくお願いします、とは言いましたが、それはあくまでリョーコさんが僕の敵ではない、という意味であって。極力、僕には近寄らない方がいい」
そう言って、フリッツは疲れたように首を振った。独白に似た拒絶の言葉を黙って聞いていたリョーコは、我知らず必死に言葉を探す。
「関わるなっていうけれど、私とフリッツ君がコンビを組めば、今回みたいに少しは人の役に立てるんじゃないの? 別に戦うだけが君の人生ってわけじゃないんでしょう?」
はっ、とフリッツは乾いた笑い声をあげた。
「戦うだけが僕の人生ですよ、掛け値なしにね。だから僕のそばにはいない方が身のためです、悪いことは言いませんから」
かっとなったリョーコは、ばんとテーブルを叩いて立ち上がると、つかつかと歩いてフリッツの前に立った。
「何よ、偉そうなこと言って。君ってまだ半人前じゃない、頼れる年上がいなきゃ命がいくつあっても足りないわよ」
額に汗を浮かべて怒鳴るリョーコを、フリッツは上目遣いににらみつける。彼にしてはまれなことに、フリッツはその顔にはっきりと怒りをひらめかせていた。
「出会ったばかりのリョーコさんに、僕の何がわかるっていうんですか。命、ですって? 自分のその一つですら、僕は持て余してるっていうのにね。だいたい、どうして僕にそんなにこだわるんですか? お互いにもう用件は済んだんだ、いい加減に放っておいて……」
息を荒げてまくしたてながらリョーコを見上げたフリッツは、彼女の瞳が波のように揺れていることに気付いた。握りしめた両手を小刻みに震わせているリョーコを前にして、フリッツは言葉を失う。
「どうしてって……私にもわからないよ、そんなこと」
迷子のようなリョーコのつぶやきに、フリッツはくっとうつむく。明らかな後悔と葛藤の後で、フリッツの口から押し殺した声が漏れた。
「……僕、どうかしてましたね。ありがとうございます、リョーコさん。頼れる年上ってのは、少し引っ掛かりますけれど」
「もう、意地悪なんだから」
泣き笑いのリョーコは、ぐすりと袖で涙をぬぐう。それきり黙り込んだ二人を見て、レイラはやれやれと苦笑した。
でかしたぞリョーコ、あなたにしては上出来だわ。よくぞ見つけてきたわね、こんなお似合いの相手。
レイラは一人大きくうなずくと、ぱんぱんと手を叩いた。何事かと注目するリョーコとフリッツにに、彼女はわざとらしくこほんと咳払いをすると、人差し指で二人を交互に指し示す。
「フリッツ君のことを半人前だなんて、リョーコも一人前みたいなこと言うじゃない。でも悪いけれど、軍でエース張ってた私に言わせてもらえば、どちらもまだまだ半人前よ。二人合わせて、ようやく一人前ってところかな」
そんなの言われなくても分かってます、と口をとがらせるリョーコに、フリッツも同調して渋々とうなずく。不満顔の二人を、まあまあとレイラは両手で制した。
「だからね。二人一緒なら、きっとうまくいくと私は思うの」
「ん?」
「え?」
リョーコとフリッツは、言葉の意味を図りかねて顔を見合わせる。レイラはいたずらっぽく目を光らせると、胸を張りながら二人に宣言した。
「フリッツ君、路上生活してるって言ったわよね。あなた、今日からこの家で暮らすといいわ。あ、リョーコと一緒の部屋はだめよ。そこまでは私、許しませんから。私の夫の部屋が空いているから、そこを使ってね」
一つ屋根の、下。
リョーコは、恐る恐る隣を盗み見た。フリッツは彫像のように固まったまま、微動だにしない。
レイラは満足げに立ち上がると、フリッツの背中をぽんと叩いた。
「そうそう、フリッツ君。これからは家族なんだし。お姉さん、じゃなくて、レイラさん、でいいわよ」
開いた口が塞がらない、という言葉の意味を、リョーコは初めて身をもって思い知った。
さすがレイラさんだ。私の予想の斜め上を、はるかに越えてきた。
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