第31話 スリーピング・ビヨンド・ザ・パスト
「あはは。大変なことになっちゃったね」
パジャマに着替えたリョーコは寝台の上に大の字に寝ころぶと、笑顔で大きく伸びをした。左胸の負傷は、その後のフリッツの治癒魔法で完全に回復している。
部屋の戸口に立っているフリッツも、さすがにいつものコート姿というわけにはいかず、レイラの夫レオニートの寝間着を借りていた。比較的長身のリョーコよりもさらに背が高いフリッツではあったが、今彼が着ている服のサイズは縦横共に二回り以上も大きい。余ったズボンのすそを折り曲げながら、フリッツは驚きの声を上げた。
「これ、お姉さ……レイラさんの旦那さんの服なんですよね。すごく大きいなあ」
「レオニートさんって、王国軍の中でも相当に有名な突撃兵みたいよ。その服の大きさから想像するに、バトルハンマーとかでも軽々と扱えるような人なんでしょうね」
「確かに。それで旦那さん、今は遠征か何かでご不在なんですか?」
リョーコは天井を向いたまま、額に手を当てた。
「レオニートさんね、五年前から行方不明なの。何でも王族付きの近衛部隊に所属していたらしいんだけれど、失踪した時分には、特に何の作戦行動にも従事していなかったって話なのよね」
「行方不明……」
「うん。レイラさんはあの通りの人だから気丈に振舞っているけれど、やっぱりつらいと思うんだ。何か手掛かりはないかなあって、いつも気にしてはいるんだけど」
とはいうものの、軍の専門の部隊が継続して捜索してもいまだ見つからないのだと、自警団長のリカルドが話していたことに思い当たったリョーコは、虚空に向けてため息をついた。
軍人ならばその失踪の原因も何らかの任務がらみであるようにも思えるが、仕事の話を家庭で当たり前のようにしていたレイラさんすら、異変が近づいていたような心当たりはなかったとのことだし。まさか今回の悪魔の件とは関係ないにしても、自分の知っている身近な事件と言えばそのくらいなものだ。
憂いを含んだリョーコの横顔を見ていたフリッツは、黒い髪をかき回しながら小さくうなずいた。
「そういう事なら、僕もレオニートさんのこと、それとなく探ってみます。何しろ僕は路上生活者ですから、それなりにいくつか情報網って奴は持っているんです。そこからいずれ、何らかの噂が拾えないとも限らないですし」
「うん、ありがとう」
フリッツは扉の側に立ったまま腕組みをすると、別の疑問を口にした。
「それにしても僕、リョーコさんのことをレイラさんの親戚か何かだと勘違いしていました。一緒に住んで働いていたりするから」
リョーコは微笑を浮かべながら、首を横に振った。
「ううん。私、半年前に森の中で倒れていたところを、レイラさんに助けてもらったの。私が行くところないって言ったら、じゃあ一緒に暮らそうって言ってくれて。本当に感謝してる」
ん、とフリッツが首をかしげる。
「倒れていた、って。でもリョーコさん、その前の記憶もずっとあるんでしょう? たしか、忘れることができないって言ってましたよね」
リョーコは仰向けのまま、遠い目をした。
「うん。記憶喪失だなんてレイラさんには嘘ついちゃってるんだけれど、本当は記憶、全部あるんだ。でも、行くところがなかったってのは本当」
元の世界に帰ることなんて、できなかったし。そもそも元の世界にも、帰るべき場所なんてなかったし。
黙り込んだ彼女に、フリッツはかける言葉もなく立ち尽くしている。そんな彼の様子に、リョーコはつい意地悪な笑顔を向けてしまう。
「どうしたの。私のこと、もっと聞きたいんじゃないの?」
フリッツは顔を上げると、もの問いたげにリョーコを見ていたが、やがて笑いながら首を横に振った。
「いえ、リョーコさんはミステリアスなままの方がずっと魅力的ですよ。僕の十七歳までの記憶も、聞きたくなんてないでしょう?」
「えー、聞きたい聞きたい!」
冗談めいた会話の後で、しばしの沈黙。でも、続きはお互いに楽しい話にはなりそうもないな、とリョーコは心の中で小さくため息をつく。それはフリッツも同じだったようで、困ったように視線をさまよわせていたが、やがて気を取り直したように部屋の扉に手をかけた。
「そ、それじゃ、リョーコさん。今日は本当にお疲れ様でした。とりあえず、しばらくは一緒にお願いします」
そのまま扉を閉めようとするフリッツを、何気ないリョーコの声が引き留めた。
「フリッツ君。隣に来ない?」
え、と振り向くフリッツ。
「でも。レイラさんに、怒られますよ」
「大丈夫、一緒に寝ようってわけじゃないから。ただ……もう少し、おしゃべりしたくて」
うつむいているリョーコの耳に、扉が閉まる音が届いた。びくりを肩を振るわせて恐る恐る目を向けると、後ろ手に扉を閉めたフリッツが照れ笑いを浮かべながら立っていた。
「そうですね。実は僕も、何となくそんな気分だったんです」
常夜灯に軽く手をかざすと、
「よかったらここ、どうぞ」
勧められるままに隣に座ったフリッツは、自分も壁にもたれる。リョーコは灯りの届かない隅の暗がりをしばらく見つめていたが、やがてふうっと息をついた。
「今日は本当にいろいろあったね。一緒に食事して、悪魔と戦って、女の子を助けて」
手の届くところに立てかけてある長刀を眺めながら、フリッツがうなずく。
「戦ったのはリョーコさん一人でしたけれどね……悪魔を倒したってのは、ちょっと驚きましたけれど。でも、怖かったでしょう? もうこれに懲りたら……」
フリッツの顔を下からのぞき込んだリョーコは、彼の唇に人差し指を当てて続きの言葉を遮った。サーモンピンクの長い髪がさあっと流れて、シーツの上に波を描く。
「それがね、フリッツ君。私、怖くなかったの。君がいままで一人で戦ってきたって思ったら、私も負けてられないなあって」
「何言ってるんですか、勝ち負けの問題じゃありません」
「そうだね。でも、私が戦えたのは君のおかげよ。……ありがとう」
膝を抱えたフリッツは、小さく笑いながら首を横に振った。
「それは違いますよ。僕は、ただのきっかけに過ぎないわけであって。きっとリョーコさんは、この時が来るのを自分で待ち望んでいたんですよ」
ばか、と肘でつつくと、リョーコは身体をフリッツに寄せた。ゆっくりと上下する自分の胸を見ながら、深い安心感に包まれる。
「……リョーコさん、これからも戦うんですか」
リョーコはうっすらと目を開くと、隣を見た。
「フリッツ君は、今のこの街の状況を放っておける?」
「もちろん、放ってはおけません」
その言葉にうなずいたリョーコは、自分とフリッツを交互に指さした。
「じゃあとりあえず私たち、子供たちを襲う悪魔を倒すために協力して戦う、って認識でいいのかな?」
「……協力。知り合ったばかりで、しかも記憶喪失の僕を、そんなに簡単に信じていいんですか?」
「君がそれを言うなら、私はつまらないことをいつまでも覚えている、言い訳ばかりのさえない女だわ」
ふふっとこぼれたリョーコの笑いには、かつての自虐の響きはなかった。
「私、君を信じる」
フリッツの身体が、わずかに震えた。
「フリッツ君のこと、私よく知らない。でもそんなこと、これからどうにでもなるわ」
リョーコは、晴れ晴れとした顔で天井を見上げた。
「私、今ね。生まれて初めて、生きてるって感じなんだわー」
彼女は両手をいっぱいに伸ばすと、大きなあくびをした。そして毛布を手繰り寄せるとフリッツと一緒に羽織り、その肩に頭を預ける。フリッツはわずかに身を引こうとしたが、やがてあきらめたように目を閉じると、自分の頭を同じようにリョーコに預けた。
「実はね、フリッツ君。私、灯りをつけていないと眠れないの。いい年して、おかしいよね」
「全然おかしくありません」
フリッツは即答した。デリケートであることは、弱さとは違う。
彼のその答えがあらかじめ分かっていたかのように、リョーコは目を閉じる。
いままでは、そうだった。
でも、今夜は。
「……灯り、消してもいいかな」
「ええ」
魔法の常夜灯が、リョーコの手の一振りですうっと消えた。二人を包み込むように、優しい闇と静かな時間が訪れる。やがてリョーコは、フリッツにもたれたまま寝入ってしまったようだった。遠慮がちにフリッツが覗いたリョーコの寝顔には、うっすらと微笑みさえも浮かんでいる。
僕も彼女のことは、まだ全然知らないけれど。
きれいだな、リョーコさん。
フリッツは壁にもたれたまま、窓から見える月をいつまでも眺めていた。
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