第32話 家族の肖像
一夜が明け、石造りの部屋の中に少しずつ色が戻ってきた朝。寝台の上で寝返りを打ったリョーコは薄く目を開けると、ぼんやりとした頭で昨日のことを思い出そうとする。体験したことは忘れることのできない彼女ではあったが、昨日はあまりにも多くの出来事が一度に起こりすぎた。次々に湧き上がる雑多な記憶の中から、リョーコはようやく眠りに落ちる直前のそれを探し当てる。
そういえば私、フリッツ君と一緒に一晩を。まあ男と女だもの、仕方ないわよね。
「フリッツ君、おはよー♪」
リョーコが抱き着いた隣の空間はすでにもぬけの殻で、彼女はもんどりうって見事に床へと転落した。
「くっ。まさか、夢オチ?」
頭をさすりながら起き上がったリョーコの耳に、階下から食器を用意する音が聞こえてきた。
いっけない、今日の食事当番は私だった。
がばりと跳ね起きたリョーコは慌てて階段を降りると、ダイニングの扉を恐る恐る開いた。
「あ。おはようございます、リョーコさん」
フライパンとフライ返しを持ったまま振り向いてさわやかに笑うフリッツを見て、リョーコはへなへなとその場に崩れ折れそうになった。
よかった、夢じゃなかったんだ。この世界に転生した瞬間もやはり夢かと錯覚した自分だが、その時には何の感慨も抱かなかったのに。
「お、おはよう。フリッツ君」
なんとか挨拶を返したものの、白いハイネックのセーターの上にエプロンを付けたフリッツの姿は、リョーコの性癖を直撃してその破壊力を十二分に発揮していた。
何だろう、お嫁さん? 本当に彼ときたら、何を着てもさまになるってのは卑怯すぎる。悪魔を一撃で破壊するとかどうでもよくて、こういうのをチートっていうんじゃないの?
にやけ顔でぶつぶつとつぶやくリョーコを、すでに食卓についていたレイラが腕組みをしながらにらんだ。
「……おはよう、リョーコ」
絶対零度の声音に、リョーコの顔が慌てて素に戻る。
「お、おはようございます、レイラさん」
「おはよう、じゃないわよ。フリッツ君と一緒に寝ちゃあいけないって言ったのに。初日から規則破っちゃって、どういうこと?」
リョーコの背中を冷たい汗が流れる。やばい、ばれてる。恐らくは二人とも寝落ちしたところを、心配になったレイラさんが様子を見に来て発覚したのに違いない。添い寝していたことは仕方がないにしても、その前後のいきさつについては弁解しなければなるまい。
「いや、それは」
しどろもどろのリョーコを見かねたフリッツが、助け船を出した。
「ごめんなさい、レイラさん。あの女の子、コレットちゃんでしたよね、が襲われた件についてずっと話し込んでいたもんですから。そしたらリョーコさん、治療の疲れが出ちゃったみたいで」
ごめんフリッツ君、疲れていたのはむしろ魔力を消費した君の方なのに、とリョーコは心の中で謝る。でも不覚にも寝入ってしまったのは、治療がうまくいって気が抜けたこともあるけれど、これからも君に会えることに安心したからなんだ。元の世界にいた時から夜はとても嫌いだったけれど、あんなにぐっすりと眠ることができたのは初めてだよ。
理路整然としたフリッツのとりなしに、レイラはあっさりと
「まあフリッツ君の話だと、リョーコが先に寝てしまったみたいだし。フリッツ君が先に寝たのなら、リョーコがフリッツ君を襲う可能性大だけれど、逆なら大丈夫か。いいでしょう、今回は大目に見てあげるわ」
ひどい理由で許されてしまった、とリョーコは頭を抱えた。私ってそんなに男性に飢えているように見えるのだろうか。確かに、彼氏いない歴イコール年齢ではあるけれど。
フリッツの方では妙なレイラの信頼に苦笑すると、リョーコのために食卓の椅子を引いた。
「まあ、とにかく座ってください。自分の料理をほかの誰かに食べてもらったことがないので、みなさんのお口に合うかどうかはわかりませんが」
テーブルの上には、ベイクドエッグ、キノコとほうれん草のソテー、根菜の入ったコンソメスープなどが所狭しと並べられている。目を輝かせて座っていたポリーナが、待ちきれないように歓声を上げた。
「フリッツお兄ちゃん、すごいねー。こんなにおいしそうなごはん、魔法のようにぱぱっと作っちゃうんだもの」
フリッツは自分も食卓につくと、料理を手早くトレイに取り分けていく。
「僕、キャンプみたいなこともよくしてるからね。見た目はちょっとあれかもしれないけれど、どうぞ」
料理と飲み物が各人に行きわたったところで、四人は一斉に唱和した。
「いただきまーす」
匂いだけで絶対おいしいやつだってわかるんですけれど、と思いながらリョーコはスープを口に運んでみる。
はぐ。あー、朝の暖かい一杯が疲れた心に染みわたるわー、などと酒飲みのような感想が駄々洩れとなって彼女の口をついて出る。
ソテーを食べてみたレイラも、驚いた表情で賛辞を贈った。
「フリッツ君って料理上手ねえ、ちょっと感動。いつも作っていると、やっぱりたまには自分の味とは違うものを食べたくなっちゃうのよねえ」
「いえ、僕のおかずなんておまけですよ。なんといっても、レイラさんの焼いたこのクロワッサンがおいしくて」
フリッツの旺盛な食べっぷりが、彼の言葉が社交辞令ではないことの何よりの証明となっていて、レイラは嬉しそうに目じりを下げている。プレートの上の食事を全て平らげたポリーナが一息つくと、にやりと笑いながら横目でリョーコを見た。
「リョーコお姉ちゃん、いきなり強力なライバル出現だね。先に高得点を取られちゃったから、後から作る方はやりにくいよねえ。今日の夕ごはんの当番はお姉ちゃんだけど、だいじょうぶ?」
全然大丈夫じゃない、とリョーコはフリッツを恨めしそうに眺めた。何てことをしてくれたんだ、このパーフェクト美少年は。私の存在価値が根底から揺らいでいるじゃないか。
そこへ当のフリッツが、悪気のない追い打ちをかけた。
「ありがとう、ポリーナちゃん。でも僕の雑な料理なんて、気を使ってほめてくれなくてもいいんだよ。リョーコさんの手料理、僕も楽しみにしてますから」
プレッシャーをかけられたリョーコは、目を白黒させながら押し黙った。
どんな料理でもレシピについては完璧に覚えているんだよ、それこそ砂糖何グラムとかまで正確にね。だけど何故か出来上がったものが、私の記憶にあるものと全く異なった様相を呈しているんだなあ、これが。原因と結果に予測不能な
苦虫をかみつぶしたような顔を他の三人に向けたリョーコではあったが、自分の料理の腕の
それでも。
みんなと出会えたことは夢ではないけれど、レイラさんやポリーナちゃん、そしてフリッツ君との家族ごっこは、やはりかりそめの夢でしかない。いつまでも見ているわけにはいかない、必ずどこかで覚める時が来る。
でもせめて夢ならば、あと少しだけ。
このまま、そばにいさせて。
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