第33話 彼氏バレにはご用心

 朝食が終わりハーブティーが各々の前にいきわたったところで、ポリーナがフリッツの方へと身を乗り出した。

「ねえ、フリッツお兄ちゃん。この家で、ずっといっしょに暮らしてくれるの?」

 不安げにフリッツの顔をうかがうポリーナを見ながら、リョーコの口からかすかなため息が漏れる。

 ずっと一緒に、か。ポリーナちゃんの期待の裏には、父親であるレオニートさんの失踪というつらい出来事が影響しているに違いない。厳しい言い方にはなってしまうが、生死にかかわらず彼の消息が明らかにならないと、ポリーナちゃんの気持ちに対する根本的な解決にはならないだろう。

 フリッツも同じことを考えていたようで、どっちつかずの返事をポリーナに返す。

「レイラさんはそう言ってくれてるんだけれど、ご迷惑じゃないかなあ」

 瞳を輝かせたポリーナはフリッツの手を取ると、満面の笑顔で飛び跳ねんばかりに喜んだ。

「ううん、とっても大歓迎。人って助け合って生きていくもんでしょ、数が多い方がいいに決まってるじゃない」

 リョーコはこうして、時々ポリーナの言葉に驚かされる。忘れるはずのない私が思い出せないことを、まだ十歳の子がどうしてさらりと口にすることが出来るのだろう。独りで十分だと思っていた今までの私は、誰かに助けられることも、それどころか誰かを助けることすらも拒絶していたのか。

 でも、多い方がいいってことは確かにわかってた。わかっていたんだよ、それは。

 自分の内に沈んだリョーコをちらりと見たレイラは、努めて弾んだ声で、ポリーナの言葉に同意を示した。

「フリッツ君、ポリーナの言う通りよ。それに近頃物騒だし、男の子がいてくれるとなにかと心強いわ。だけど、ご両親とかはどうされてるの?」

 フリッツは困ったように頬をかいた。

「えっと。実は僕、半年より以前の記憶がなくて。でも誰からも何の連絡もありませんから、きっと昔から独りだったんだと思います」

 驚いたレイラは、フリッツとリョーコの顔を交互に見た。

「え、フリッツ君も記憶喪失なの? それも半年前からって。それじゃあ、リョーコとまるっきり同じじゃない」

「そうですね。僕も昨日リョーコさんからその話を聞いて、驚いていたところなんです」

 本当は記憶喪失ではないことをリョーコがレイラに黙っている件について、フリッツはあえて話すつもりはなさそうだった。彼の配慮と信頼を感じたリョーコは、安堵と感謝に潤ませた目ををわずかに細める。

 そのような二人を、レイラはティーカップから立ち昇る湯気越しに黙って見つめていたが、やがて何事もなかったかのようにいつもの笑顔に戻った。

「本当に偶然ねえ、二人とも。でも何か思い出したことがあったら、いつでも話してちょうだいね。もちろんリョーコもよ」

 偶然、なのだろうか、とリョーコは漠然とした不安を感じる。半年前にこの世界に転生してきた私に、半年前に記憶をなくしたフリッツ君。どこか心に引っかかるものを感じたが、それについてうまく説明することはやはりできなかった。

 そろそろ潮時だと思ったのだろう、フリッツ君ごちそうさま、とにこやかに笑いながらレイラが立ち上がった。

「さあ、もうすぐ開店の時間ね。パンもちょうど焼きあがったし、お店に並べるとしましょうか」

 フリッツも立ち上がって再びエプロンを着けると、腕まくりをしてテーブルの上の食器をまとめ始める。

「じゃあ僕、ここの後片付けが終わったら、ちょっと出かけてきますね」

「え、どこに?」

 一緒にベーカリーの仕事を手伝ってくれるのだろうと思っていたリョーコは、フリッツの口から出た言葉に思わず聞き返す。

「どこって、仕事ですけれど」

「フリッツ君、仕事してるの?」

 さも心外そうに、フリッツは頬を膨らませてむくれた。

「やだなあ、リョーコさん。定住こそしていないですけれど、僕だってきちんと働いていますよ。お金がないと食べていけないじゃないですか」

 それはそうだよね、仕事もしてないのに外食メインなんてちょっと非現実的だし。レストラン「アングラ―ズ・ネスト」でフリッツに食事をおごってもらったことを思い出したリョーコは、ごめんごめんと両手を合わせて謝った。

 年上だから食事代くらい私が出す、って言ったんだけど、結局彼に押し切られちゃったんだよなあ。例のごとく、リョーコさんは年上じゃありませんから、とか言われて。でも彼女でも何でもないんだから、せめて割り勘にしないといけない場面だったんだけれど。

「で、仕事って何を?」

 リョーコの問いに、フリッツは食器を手際よく洗いながら肩越しに答えた。

「街の治療院の手伝いをしたり、ご老人や子供たちが住んでいる施設の往診をしたり、そんな感じです。大きな病気の治療なんかはやっぱり無理ですけれど、これでも結構、需要があるんですよ」

 なるほど、治癒師は派手さはなくても、やはり困っている人たちの役には立っているんだ、と医師であったリョーコは少し誇らしい気持ちになった。もう少し社会的地位が認められてもいい職業だと思うんだけれどな、と以前より抱いていた違和感をあらためて思い起こす。

「ふーん。若いのに自立しているのか、感心ねえ」

 しきりにうなずいているリョーコを、ポリーナの着替えを手伝っていたレイラがたしなめた。

「リョーコ。感心ばかりしてないで、お店を開ける準備をお願い。私はポリーナを学校まで送ってくるから」

 いまだに食卓に着いていたリョーコは慌てて立ち上がると、自分のエプロンをつかんだ。そうそう、私は私の仕事をしなきゃね。今の自分の軸足をどこに置くのかといえば、できれば医師でも剣士でもなく、ベーカリーの店員でありたい私なのだ。

「了解。レイラさん、ポリーナちゃん、気を付けてね」

「それじゃあ、あと頼むわね」

 手早く身支度を終えたレイラとポリーナの親子は、屋外へと慌ただしく出かけて行く。残されたリョーコは、焼きあがったパンをトレイに乗せると、店の陳列棚へと並べていった。


 からん、と朝の澄んだ空気を震わせるベルの音とともに、店の扉が開いた。

「おっはよー、リョーコ!」

 店内に滑り込んできたのは、黒いショートヘアの彼女。晩秋を少し先取りした、ダークオレンジのコート。薄手の黒いインナーシャツに青いデニムパンツ、ハイカットの白いスニーカー。

「おはよう。相変わらず一番乗りね、ヒルダ」

 一陣のさわやかな風が吹き込んできたような気がして、リョーコは思わず目を細める。これはまたなんというイケメン、ヒルダときたら格好良さに常に隙がない。というか、惚れる。

 ん、待てよ?

「あれ、ヒルダ。試験明けで、今日はアカデミー休みじゃなかったっけ?」

「うん、授業はないんだけどね。久しぶりに『緑竜寮』に顔出そうかなと思って」

 緑竜寮。何らかの理由で一人で暮らさなければならなくなった子供たちを、保護し養育するためのグループホーム。ヒルダはそこの出身である。

「そっか。寮の子たちみんな、ヒルダが来るのを楽しみにしてるわけだ」

「へへ、そーなんです。それで、ちょっと差し入れでもしようかなと思って」

 最高にクールなのに姪っ子甥っ子好きのような素朴な一面もあるヒルダが、リョーコにはまぶしく映る。そうか、ヒルダにとっては弟や妹だもんね。彼女、優しいお姉ちゃんしてるな。

「そういうことなら、まっかせて。焼きたてパン、特別にサービスしちゃうから」

 ヒルダはにっと笑うと、膨らんだコートのポケットをぽんと叩いた。

「ありがとうリョーコ、でも定価で大丈夫よ。バイトでふところは十分に潤ってますから」

 リョーコは渋い顔でヒルダを軽くにらんだ。またあのデッカーズなるクラブで、ダンサーのバイトをしていたのか。露出度の高い衣装をまとったヒルダの身体を不特定多数に見られているところを想像すると、何だか胸がざわついて落ち着かない気持ちになるのはなぜだろう。けれどヒルダ推しのおじ様たちのお布施ふせも、子供たちのパンになるのならきっと報われることだろう。めぐりめぐっていいことしてるわよ、おじ様たち。

「ヒルダはどうするの、ここで少し食べていく?」

「そうね、朝食まだだし。いつものホットドッグ、いただこうかな」

「了解」

 陳列棚に手を伸ばしたその時、不意に店の奥から黒いショートコートを羽織った少年が姿を現した。リョーコの顔がさっと青ざめる。フリッツ君の馬鹿、なぜこの最悪のタイミングで。

「リョーコさん、それじゃあ行ってきます。洗濯ものも、全部干し終わってますよ」

 コートの襟を直しながら、フリッツはリョーコにピースサインを送った。予想だにしなかった美少年の登場に、ヒルダはあ然として言葉も出ない。

 おや、とフリッツは一瞬記憶を探っていたようだったが、すぐにうなずくとヒルダに向けて小さく微笑んだ。

「おはようございます。お姉さん、この前ここでちらりとお会いしましたよね? 僕、フリッツといいます」

「おはよう、ございます。私、ヒルダ、です」

 リョーコは目の前の光景に圧倒されていた。すごい、あのヒルダが完全に気圧されている。まさかこれが噂の吸血鬼の魅了の能力、ではないよね、やっぱり。

 ヒルダに軽くお辞儀をしたフリッツは、バックパックを背負い直した。

「少し急いでいるので申し訳ありません、ゆっくりしていってくださいね。リョーコさん、それじゃあ後はよろしくお願いします」

 そういって自分の方を振りかえって小さく手を振るフリッツを、リョーコはもはや正視することが出来ない。やめて、フリッツ君。そのしぐさ、更に状況を悪化させてるよ。

「夕食までには帰ってきますから。今晩の食事当番、僕もお手伝いさせていただきますよ」

 フリッツはだめ押しにそう告げると、からんという澄んだ音を残して屋外へと消えた。


「お待たせしました、ホットドッグでございます」

「……ちょっと待って、リョーコ」

「はい、何でございましょう? フルーツジュースもお付けいたしましょうか?」

 うつむいたヒルダの両の拳が、ぶるぶると震えている。

「行ってきます、とか。夕食までには帰ってきます、とか。これって、そういうことよね?」

「あはは。どういうことかなー」

「しらばっくれるんじゃないわよ、リョーコ! あんたたち、いつから同棲してるのよ!」

「どうせい。何言ってるのよ、人聞きの悪い。ただの同居よ」

 ヒルダの堪忍袋の緒は、ついに切れた。

「この前はキスがどうたらこうたら言ってたと思ったら、もう同棲。リョーコ、私というものがありながらー!」

「ちょっと待って、ヒルダ。誤解よ、誤解」

「問答無用! 二度と私のことが忘れられないように、その身体にたっぷりと刻みこんでやる!」

「落ち着いて、ヒルダ。ちょっと、服が破れる! ぎゃー!」

 ベーカリー兼カフェ「トランジット」の朝は、まだ始まったばかりだった。

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