第17話 アクセプタンス

 記憶喪失。しかも、繰り返している?

 またしても記憶か、とリョーコは思わずこめかみを押さえた。しかも、今度は私とは全く逆の立場で。彼のことについてようやく知ることが出来たと思ったらこれか。偶然で片づけるには、ちょっと出来すぎているんじゃない?

「本当? 君、記憶喪失っていつから?」

「きちんとした記憶が残っているのは、十七歳の時までですね。そこから半年前までの記憶が、すっかり抜け落ちてしまっていて」

 ……まあ、確かによくある記憶喪失話ではあるかもしれない。しかし、繰り返しているとはどういう事だろう? 間の記憶が飛んでいるのならば、どうしてそれを認識できるのだろう。それに、第一。

「ねえ、フリッツ君。十七歳まで記憶があるって、君の年齢ってそのくらいじゃないの? だったら、記憶を失っていたといってもそんなに長い期間でもないような。ちなみに、いまの年齢って聞かせてもらってもいいかな」

「笑いませんか?」

「よほどサバ読んでなければね」

 フリッツは、さもおかしそうに笑った。

「そうですね、ざっと、三百歳くらいってところですか」

 意外に冗談が下手だな、とリョーコはため息をつく。

「何それ、じゃあ二百五十年以上も記憶がないってこと? というか、三百年以上も生きてるって、いつまで吸血鬼ネタを引っ張ってるのよ」

 フリッツはすまし顔で、皿の上に残った帆立のフライを口に放り込んだ。

「だからさっき言ったじゃないですか、本質は当たらずとも遠からずですって」

 本当にずるい奴。人のことはいろいろと聞いて来るくせに、自分のことになると見当違いの話をしてけむに巻くんだから。

「まあいいや。とにかく、記憶喪失から回復してまだ半年足らずってのは嘘じゃないんだよね?」

「参ったな。自慢じゃないけれど、僕、リョーコさんに一度も嘘はついてませんよ」

「はいはい。いいわよ、騙すよりは騙される方がましだもんね」

 むくれるリョーコに肩をすくめたフリッツは、レモンソーダを飲み干すと小さくため息をつく。

「しかしリョーコさん自身がその改変とやらについて知らないんじゃ、僕の記憶喪失を治すヒントにはなりそうもないですね。参ったな、その変な男ってのを探すしかないのかな……」

「治すって、記憶喪失ってそう何度も繰り返すものなの? そのうちにまたなりそうな予感があるの?」

 フリッツは視線を外すと、暗い目でテーブルの上を見つめた。

「いずれまた、きっと記憶を失うことになります。どうやれば記憶喪失になるか、そのトリガーは自分でもわかっているんですから」

「信じがたいな。強く頭を打つ、とかそういうやつ?」

「それも、当たらずとも遠からずですね」

 それきり二人は、しばらく物思いに沈んだ。情報が錯綜さくそうしていて、何一つとしてすぐには答えが出せそうにもなかった。その中でリョーコが提案できるとしたら、それはただ一つ。

 「ねえ、フリッツ君。いずれにしても、子供たちを襲う悪魔を放っておくわけにはいかないわよね。それには同意してくれる?」

 フリッツは顔を上げると、迷いなく答えた。

「もちろん、異論はありません」

「じゃあさ、とりあえずは私と一緒に行動しようよ。そうこうしているうちに私の記憶の秘密が明らかになって、少しでも君の役に立つかもしれない」

 彼女の言葉を予想していたのか、フリッツは即座に強い口調で言った。

「リョーコさん、僕と一緒に悪魔と戦おうとしていますね? やめてください、危ないことは僕がやります」

「え、でも」

「先ほどお話ししたとおり、現状では悪魔を破壊できるのは僕の血液だけです。それに僕は、リョーコさんに戦って欲しくない」

 フリッツの真剣なまなざしにリョーコはひるんだ。彼の言葉に悪意はない、私を思いやる気持ちだって確かに含まれている。けれど、戦わないって、それじゃあ私はだめな奴のままじゃん。

「……どうして。わたしが、弱いから?」

 リョーコは悔しさに唇をかみ締めた。子供が襲われていたのに、立ちすくんで動けなかった私。あんな情けない場面を見られたんだ、無理だと思われても当然だ。

 小刻みに震えているリョーコの手に、フリッツの手がためらいがちに重ねられた。うつむいていた彼女は、驚いて顔を上げる。その手はやはり暖かく、彼が化け物だなどとはとても信じられなかい。

「弱くても、いいじゃないですか」

 え?

「僕は、リョーコさんが優しい人であることを知っています。あのサミー君が悪魔に殺されたとき、リョーコさんはそのことで自分を責めて、苦しんでいた。弱さに苦しむのは、優しさを持っている証拠です」

「フリッツ君……」

「強さを伴わない優しさには意味がない、という人がいます。僕は、そう思わない。そんなのは、優しさを持たない人のいいわけです。自分は強いなんて言う人を、僕は信用しない」

 リョーコの視界がにじんだ。

 今までの自分を、許してくれている人がいる。

「大丈夫ですよ、リョーコさん。人は、自分にできることをすればいいんです。もっとも僕は、人ではなく化け物ですけれどね」

 フリッツは、あははと笑った。

「とにかく、何かわかったら報告しますから。リョーコさんも鈴の音が聞こえるんだし、よくよく注意してくださいね」

 リョーコはフリッツの話を、ただ黙って聞いていた。自分が異世界に転生してきた意味を、初めて知ったような気がした。忘れることができないことに飽き飽きしていたはずなのに、今この瞬間だけは決して忘れたくないと、何かに祈らずにはいられなかった。

 二人はしばらく、ぼんやりと外を見ていた。窓ごしに見える人々の群れが、幻燈の様にぼやけて揺れる。やがてフリッツはちらりとリョーコをうかがうと、ハンガーにかけていた黒いコートに手を伸ばした。

「すっかり遅くなっちゃいましたね、そろそろ出ましょうか。おなか、いっぱいになりましたか?」

 リョーコは黙ってうなずいた。

 うん。

 張り裂けそうなくらい、いっぱい。

 おなかも、胸の中も。

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