第18話 毒を食らわば皿まで

 夜の街路は点在する魔法の街灯でぼんやりと照らされているだけで、ふと目を留めればいたるところに暗闇が息をひそめていた。くだんの連続殺人事件の影響もあるのだろう、繁華街の中心からそれほど離れてもいないのに、周囲の人影はすでにまばらである。

 しかしそのような暗い夜道を、リョーコはフリッツと並んで、過ぎる時間を惜しむようにゆっくりと歩いていた。ひんやりとした夜風に混じるブーツの足音が、耳に心地よく響く。フリッツの吐く息がわずかに白く染まるのに合わせて、リョーコも少し大きく息を吐いてみた。同じだ、温度差はそこにはない。

「このままで、よかったんですか」

 何か話さなきゃ、と思いながらもまとまらない自分の考えを持て余していたリョーコは、いきなり声をかけられてびくりと肩を震わせた。

「え。な、何が」

「結局聞かなかったじゃないですか、僕が何者なのか。本当は、それが一番聞きたかったことじゃないんですか」

 あらためて指摘されて、ようやくそのことに思い当たる。

 よく考えてみれば確かにそうだった。悪魔を破壊できる血液、咬むことよって記憶を消去できる能力。それに加えて、希少な存在である治癒魔法の使い手。しかも本人の話を信じるならば、三百歳でしかも定住せずに流浪の身であるという。到底、得体が知れない。

 でも、今は。

「それはもう、どうでもいいかな」

 厳しい調子で詰問されることを予想していたのだろう、顔をこわばらせて身構えていたフリッツは、あははと笑うリョーコに毒気を抜かれた形になる。

「どうでもいいんですか。本当の僕を知ったら、リョーコさんは僕の事を絶対に嫌いになりますよ」

 ぶっきらぼうに言い放つフリッツに、リョーコは微笑で応えた。 

「本当の自分なんて、そんなの幻想だよ。私だって自分が何者かなんてわからないんだから

 ほうけた表情でリョーコを見たフリッツは、頭の後ろで手を組みながら夜空を見上げた。

「へえ。リョーコさんって哲学だなあ」

「なあにそれ、嫌味?」

「いいえ、心の栄養になったってことです」

「やっぱり馬鹿にされてる気がするんだけれど」

 リョーコはフリッツと笑い合いながら、身体の隅々まで満たされていく自分を感じた。私が異世界転生者だろうが、彼が人外だろうが、そんなこと全然かまわない。自分のことをつまらない人間だなどと決めつけなければ、世界はこんなにもきれいに映るのか。

 いつしか二人は、静かな住宅街まで戻ってきていた。ベーカリー「トランジット」は、もう目と鼻の先の距離にある。

「この後、どうしよっか」

 背負った長刀の位置を直しながら、リョーコが小さくたずねた。フリッツはコートのポケットに手を突っ込んだまま、さりげなく周囲に目を配っている。

「もちろんお店まで送りますよ。遠足は家に帰るまでが遠足なんですよ、知ってましたか?」

「ふうん、これって遠足だったんだ。あんまり子ども扱いしないでよね、そこそこいい歳なんだから」

 くっくと笑ったリョーコは、横目でちらりとフリッツの横顔をうかがう。

「で、私を送った後でフリッツ君はどうするの? 泊るところ、ないんでしょ」

 フリッツは大きく伸びをすると、明るく笑った。

「ありがとうございます、僕なら大丈夫です。悪魔がらみの事件は夜間に集中していますから、夜中って僕はいつも街中を巡回しているんですよ。奴ら、特に夜行性というわけではなさそうですが、人目に付くからか日中は行動を控えているみたいですし」

 そして思い出したように付け足した。

「あ。別に僕、夜しか行動できないとか、日光を浴びるとパワーが半減するとか、そんなことないですよ。何度も言いますけれど、僕、吸血鬼なんかじゃありませんからね」

 おどけるフリッツに、リョーコは後ろ手を組んだままでさらりと言った。

「あてがないのなら……どこかに一緒に泊まってあげようか?」

 がたり、と転びそうになるフリッツ。慌てて隣を見たが、リョーコの表情にふざけたり浮ついたりしている様子はない。レモンソーダしか注文していないので、酔っているはずもない。

 あはは、とようやくフリッツは乾いた笑い声をあげた。

「やだなあ、リョーコさん。もし僕がそんなこと言ったら、どうするんですか」

 リョーコは、前を向いたままで答えた。

「別に。断る理由は、ないかな」

 君が一緒なら、常夜灯がなくても眠れるような気がして。

 リョーコはいつかの親友の助言を思い出していた。ヒルダの言う通りだ、彼なら私の世界を変えてくれるかもしれない。

 冷めたもう一人の自分が、すかさず警告を発する。

 リョーコ、あなた、わかってる? 相手のことが忘れられなくなるのが怖いから、あなた今まで恋愛から逃げてきたんじゃないの。

 いずれ、永遠に苦しむことになるよ、きっと。

 憂鬱な顔を悟られまいとリョーコは笑いに紛らわしながら、どぎまぎしているフリッツの背中をどんと叩いた。

「あはは。冗談よ、冗談。お店すぐそこだから、ここまでで大丈夫よ。これもあるし」

 リョーコは例の長刀を、白い布の上からぽんと叩いた。あのグラムロックの男の言葉を信じたわけではないが、用心に越したことはない。

 分かれ道の角で立ち止まると、少し背の高いフリッツをリョーコが見上げた。

「今夜の情報交換会、凄くためになったわ。……ありがとう」

 フリッツは笑って答えた。

「こちらこそです、リョーコさん。でも、もう僕とは会わない方がいい。記憶喪失の件は自分で何とかしてみますから、リョーコさんは自分の身の安全だけを考えてください。鈴の音にしたってそうです、関わらないに越したことはない。どうか気を付けて」

「……うん。おやすみなさい」

 リョーコは小さく片手を挙げると、フリッツに背を向けて家路についた。

 会わない方がいい、なんてことは、さっきの自分にすでに言われた。

 けれど、もう出会ってしまったんだよ。

 毒を食らわば皿まで。すでに私の禁忌は破られた。


 レイラの店の近くまで来たリョーコは、心残りの理由に気付いた。左腕の傷を治してもらったお礼、言い忘れてたな。フリッツ君、まだ遠くへ行っていないかも。立ち止まり振り返ってみて、苦笑が漏れる。私ったら、なんだかんだと理由をつけて。こんなに未練がましい女だったなんて、自分でも気付かなかったな。

 やれやれと首を振って帰ろうとしたリョーコの耳に、突然にあの忌まわしい音が聞こえてきた。聞き違えようのない、頭の中に直接働きかけてくる呼び声。

 リン。リリン。

 フリッツが去っていた道とは逆の方角から、その音は確かに響いてくる。サミー少年の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、リョーコのしなやかな両足は、硬い石畳を強く蹴りつけていた。

 私はもう、見ないふりはしない。

 長刀を覆っていた布を外すと、黒いミニスカートをひるがえして街路の角を曲がる。やはり、いた。小さな少女の上に覆いかぶさり、その顔をのぞき込むようにしている人影。

「フリーズ。そこまでよ、悪魔さん」

 リョーコの命令に従ったわけでもないだろうが、人影は動きを止めると、ゆっくりと振り返った。

 リョーコの予想に反して、それは一見ごく普通の人間だった。緑のメッシュの入った短髪に、よれた黒いシャツと短パンを身に着けた若い男。

「……んだあ、てめえ」

 顎を上げた男は紫に光る瞳をリョーコへと向けると、思い出した様に口の端を曲げた。

 この笑い、すれ違ったあの時と同じだ。こいつがあの少年を殺した奴だ。

 左手に長刀をつかんで身構えたリョーコは、男の身体越しに少女を見やって思わず息をのんだ。両目が、横一文字に切られている。傷から流れる血が、まるで聖母の流す赤い涙のようだ。そして同時に、少女の髪が鮮やかな銀髪であることにもすぐに気付く。

 痛みと恐怖のあまり気絶しているのか、あるいはそれよりもはるかに危険な状態なのか、少女は石畳の上に仰向けに横たわったまま身じろぎ一つしない。

 鋭く睨みながら少しずつにじり寄るリョーコに向けて、男が笑いを含んだ声を投げた。

「どこかで見たようなと思ったら、この前の姉ちゃんか。そういやおたく、あの時も俺たちの鈴の音が聞こえたような顔してたよな」

 リョーコのこめかみから伝わる汗が、顎の先からしたたり落ちる。やはりフリッツ君にやられた最初の奴とは違う、こいつは人の言葉が話せる。知能だって人と同じか、それとも。

 男はひゅうと細い息を吐くと、ばん、と翼を広げた。風切羽かざきりばねをを持つまだらのそれは、わしあるいはたかといった猛禽もうきん類のそれである。

 しかし再び悪魔を前にしたリョーコの心は、自分でも驚くほど静かだった。

 大丈夫だよ、恐怖も不安も感じない。

 弱虫で泣き虫な私だけど、できることを、やりたいことを、やるわ。

 君が教えてくれた通りに。

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