第12話 情報交換会への招待

 油の切れた自動人形のようにぎくしゃくしながらリョーコがようやく座ったところで、レイラが二人分のティーカップを運んできた。破顔したフリッツが、丁寧にお辞儀を返す。

「ありがとうございます、お姉さん。リョーコさんからこちらのクロワッサンのうわさを聞いたんですが、来てみて本当に良かったです」

 レイラは耳朶じだまで赤く染めると、頬に両手を当てた。

「まあ。こんな可愛い子からお姉さんだなんて、おばさん張り切っちゃうなあ。ありがとう、ゆっくりしていってね」

 レイラはでれっとほほ笑むと、弾むような足取りでカウンターへと戻っていった。

 こいつ、天性の女たらしか。あるいは、天然の。

 リョーコはぐっと口を引き結ぶと、警戒心も新たに身構えた。実に如才じょさいない感じの今のフリッツ君だが、最初の夜に出会った時の突き放すような冷たさも、そして黄昏の中で見た孤独の陰も、確かに彼の中には存在するのだ。この愛想のよさも、もちろんそれにふさわしい効果を狙ってのものに違いない。

 ふん。君が何を企んでいるにしたって、その手は食わないわよ。このリョーコを軽い女だとあなどってもらっては困るわね、二つの世界にまたがってお独り様を貫いてきたのは伊達じゃないんだから。

 リョーコは紅茶を口に運びながら、横目でフリッツをちらりと見た。

「ところで私に用って、なにかな?」

 ぽんと手を叩くと、フリッツはリョーコの方に身を乗り出した。ちょっと、近い近い。計算ずくにしたってそれは反則だろ、距離感バグってるのかこいつ。背中に冷たい汗をかきながら、ずずず、と身を引くリョーコに構わず、フリッツは笑顔で続ける。

「あの。明日の夜、空いてます?」

 リョーコのカップが、がちゃんと大きな音を立てた。

「は。いや、あの、仕事が」

「あるんですか?」

「……ないけれど」

 フリッツが、ほっと胸をなでおろす仕草をした。彼の行動の一つ一つが、強烈な破壊力となってリョーコを襲う。

「本当ですか、よかった。ここから二区画ほど先にある『アングラ―ズ・ネスト』っていうレストラン、知ってますか?」

 フリッツの口から具体的な話が出たことで、リョーコの心は少しだけ平静を取り戻す。

「ん。『アングラ―ズ・ネスト』って、魚料理で有名なお店じゃない? 私は行ったことないけれど、友達が凄くおいしいって」

 たしか、ヒルダから聞いたんだっけ。引きこもりがちな私にとって、社交的な彼女は貴重な情報源でもある。でもなんだか、ムードのある勝負店だってヒルダが言ってたような……

「そうです、そこですよ。明日の夜、一緒に行きませんか?」

「え、私と? 二人で?」

「もちろんです。二人だけで、ゆっくり食事したいなーなんて」

 二つ返事で承諾しようとして、リョーコの思索はぴたりと止まった。

 待て待て、こいつは何かの罠に決まっている。彼ってば吸血鬼だし、私を誘いだして今度こそ始末する気じゃ。でもそのつもりなら、最初の時にとっくに殺しているよなあ。

「あの、駄目でしょうか」

 フリッツの不安げな声が、彼女を現実に引き戻す。リョーコは少し間をおいて顔を上げると、笑ってうなずいた。

「ううん、オーケーよ」

 疑う事は簡単だが、それでは何も変わらない。ここは素直に彼の好意ととらえて、それに応えておくべきだろう。人を誘うって、何かしら勇気が必要なことだから。

「本当ですか、ありがとうございます! いやあ、緊張したなあ。実は僕、誰かを食事に誘うなんて初めてで」

 照れたように頭をかくフリッツに、リョーコもつられてくすくすと笑う。緊張しているのはお互い様だけれど、案外こういうのも悪くない。

「でもそこって、結構おしゃれなところなんでしょ? フリッツ君、そういうお店によく行くの?」

「おしゃれとかはよくわかりませんけれど、本当においしいんですってば。それにほら、この前自警団員さんにも話したとおり、僕は路上生活者ですから。必然外食する機会も多いので、お気に入りの店もいくつかあるってわけです」

 レストランに通う路上生活者という構図がそもそもおかしい、とリョーコは思うのだが、この美少年にはそんな常識は通じそうにない。

「そういうわけで、僕の名前で予約しておきますから。ただし、夜道には気を付けてくださいよ」

 不意にフリッツは真顔に戻ると声を落とした。

「確かリョーコさん、鈴の音が聞こえたって言ってましたよね。今度また同じ音が聞こえたら、すぐにその場を離れてください。理由は分かりますよね?」

 フリッツに念を押されるまでもなく、リョーコはすでに二度にわたって、その音の持つ意味を思い知らされている。

 悪魔。狙われた子供。

「それよ、あの鈴の音はいったい何なの? レイラさんたちには聞こえていなかったみたいだけれど。他にも、聞きたいことは山ほど……」

 立ち上がりかけたリョーコを、フリッツが笑いながら押しとどめた。

「だからそういう事も含めて、食事でもしながら情報交換しましょう。僕、リョーコさんのことをもっとよく知りたいんですよ」

 顔を赤くしたリョーコを見て、フリッツが不思議そうに尋ねる。

「どうしました? 鈴の話をしたりして、ちょっと怖がらせてしまったですかね。何なら、明日の夕方迎えに来ましょうか? 近頃の夜道は物騒ですから」

 リョーコは両手を振ると、フリッツの提案を慌ててさえぎった。

「いい、いい! ちゃんと一人で行けるから!」

 フリッツは要領を得ないといった表情をしていたが、やがてうなずいて立ち上がると、二人分の代金をテーブルの上に置いた。

「そうですか、わかりました。じゃあまた明日、お店で。僕、楽しみにしてます」

 フリッツはにっこりと笑うと、扉をからんと開けて店を後にした。


 あとに残されたリョーコは、独り呆然と座り続けていた。これは、情報交換会。これは、あくまでも情報交換会。そう心の中で唱え続けていても、彼女の動悸が治まることはなかった。

 居合の練習なんかしてる場合じゃなかった。

 こんなことなら。

 デートの練習、しとけばよかった。

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