第2話 悪魔と不死
「グッドイブニング、化け物さん。その子から、今すぐ離れてくれるかな」
自分を奮い立たせるために放ったリョーコの虚勢に、女はその動作をぴたりと止めた。しゅう、と
「……人を見た目で判断しちゃいけないけれど、自分が普通じゃないってのはあなたも認めるわよね?」
女の顔の右半分は黒い山羊のそれだった。その眼には瞳がなく、ただ白い球体が眼窩の中で、壊れた自動人形のようにぐるぐると回転している。人間と山羊との全く異なる口どうしが、何らかの
目の前の異形の
ここから海を渡ってはるか離れた「大陸」には様々な魔物がいる、という噂は聞いたことがあったが、王国のしかも王都のど真ん中にこんな異形が存在しているとは、さすがに想像していなかった。いくらこの場所が異世界でも、悪魔の出現などということが日常茶飯事であるはずがないし、実際に半年前に転生してからこのかた、物語の中に出てくる怪物や幽鬼といった超常的な脅威には一切出くわしたことなどなかった。
元の世界との違いと言えばそれこそ魔法の存在くらいなもので、だからこそリョーコは周囲に大きな疑問を抱かせることもなく、今日までひっそりと隠れ潜んで生活できていたのだが。
もはや女とすら言えないその魔物は、瞳のない目をリョーコに向けるとわずかに口をゆがめた。確かに、笑った。もしそれが正しいとするならば、この化け物には知能があるのか。そこに、何とか付け入る隙がありはしないか。
だが、それ以上深く考える余裕はなさそうだった。怪物は黒い翼を大きくはばたかせると、街路を低く滑空しながら突進してくる。心の準備をするためのわずかな時間も与えられず、リョーコは狼狽した。戦闘経験などない自分が、こんな攻撃をかわせるわけ……
リョーコはわずかに後退しながら体をひねると、右半身を魔物に向けて身体の投影面積を最小にし、直線状に突き出された爪を紙一重で避けた。手にした棒をすれ違いざまに、魔物の顔の左側、人面の方へと叩きつける。
いやぁあああ。
半人半山羊の口からほとばしる悲鳴が普通の女性の叫び声であったのが、より一層の嫌悪感を抱かせた。魔物は石畳の上にどちゃりと落下したが、すぐに起き上がると頭を振りながら体勢を立て直す。リョーコも乱れた息を整えると、木の棒を正眼に構えなおした。
動いて、くれた。眼前の悪魔に目をすえたままで、自分の身体の元の持ち主に感謝する。どうやら私は相当腕が立つ剣士だったようだ、相手の動きに身体が反射的に対応してくれている。
しかし魔物は実際には、その醜悪な叫びに反して大したダメージは受けていないようだった。上下二本ある右腕を同時に前方に突き出すと、それぞれの爪がまたたく間にサーベルのよう長大に伸びる。そして再び地面を蹴った怪物は、暴力的な速さでそれをふるった。思わず顔をかばった左腕に五条の爪痕が刻まれ、数瞬遅れてそれぞれの傷から血が噴き出す。激痛にたまらず膝をついたリョーコの手から木の棒が離れ、空を切って石畳に落ちる音がわずかに遅れて深夜の街路に反響した。
「つっ……」
少し調子に乗りすぎたみたい、と唇を噛みながら、左手を開いたり閉じたりしてみる。指が動くのであればどうやら
なあんだ。この世界に転生してまだ半年だってのに、私また死ぬのか。誰かを助けたいなんて思っても、弱くて臆病な私にそんなことができるはずがない。元の世界で医者やってた時だって、この世界でパン屋の売り子やってる今だって、そこには何の違いもない。転生したらヒーローになれるなんて、おとぎ話でしかないんだ。
やがて訪れるはずの死の恐怖に身体を固くしたリョーコの目に、いまだ動けないでいる銀髪の少女がちらりと映った。せめて、あの子だけは助けてあげたかったな。帰る場所がない自分とは違って、あの少女にとっては、ここだけが唯一かけがえのない世界であるはずだから。
リョーコの顔面に、かつて慣れ親しんだメスにも似た魔物の爪が迫った。
怖い。
やっぱり、死ぬのは怖いよ。
一度経験したからって、あんなこと、とても慣れるようなものじゃない。
自分で望んだことではないけれど、どうして私が異世界転生なんて。
固く目を閉じたリョーコの耳に、ごきゅんと何かがつぶれたような音が響いた。
きいやぁあああ。
リョーコが顔面を殴打した時よりもさらに悲痛さを増した魔物の叫び声が、夜の街路の隅々にまでとどろいた。
「……え?」
思わず目を開いたリョーコの視界全体に広がる、黒い人影。乱入者は赤い体液が付着した右のこぶしをぶるんと振るうと、ゆっくりとリョーコの方へと向き直る。月明かりに照らされたその顔に、リョーコは我を忘れて見惚れていた。
……あー。
これは、美少年だわー。
美少女、って思っちゃうくらいの、美少年。
軽くシャギーがかかった艶やかな黒髪、薄い白磁で作られたような広い額。強い意志を感じさせる黒い眉、真っすぐに筋が通った鼻梁。こんな美形が存在しているとは、なるほどこの世界はファンタジーだな、などと妙なところで異世界というものの存在に納得してしまう。
そして少年の年齢はといえば、十七、八歳くらいであろうか。そうであれば、自分より五つか六つほど年下ということになるが。しかしリョーコはなぜか、自分のその推測に自信を持つことができなかった。古木よりもはるかに老齢であるような、かと思えば生まれたばかりの赤子のような。一体全体、その印象のすべてがあやふやに感じられる。
しかしこんな状況でいきなり現れたのだ、ただの人間であるはずはなかった。その少年の両の瞳は、街灯の光がかすむほどの赤い輝きを放って暗く燃えていた。先ほど悪魔を殴りつけた右手の指先からは、赤い
見る者を魅了し
怪物を素手で一撃のもとに無力化する、恐るべき
はるか
これって、もしかして。
息をのんだリョーコの記憶が、ある言葉を結んだ。
吸血鬼。
不死の王。
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