第3話 ファーストキス
吸血鬼。
二十四のいい年した大人が想像するには、あまりに
リョーコは、吸血鬼についての乏しい知識を頭の中でまさぐってみた。いわく、人間の生き血を吸って生きている。いや、不死の怪物だから生きてはいないのか。血を吸われた人間は……やっぱり同じ吸血鬼になるのかな。おっと、それはゾンビだったっけ。あとは確か、処女の生き血を好むとかなんとか。少年をもはや吸血鬼だと信じて疑わないリョーコは、自分の中で勝手に妄想を膨らませていく。
もし彼が吸血鬼だとしたら、私とあの女の子は二人して血を吸われてしまうのだろうか。空腹でなければ見逃してくれるかもしれない、か? いや、魔物との常人離れした戦闘現場を目撃してしまったのだ、証拠隠滅のためにやはり消される可能性は高いような気がする。
うーん。死ぬのはもちろん怖いけれど、吸血鬼になったりしたら、きちんと死ぬこともできないんじゃないかしら。できればそれは避けたいかなあ。
散々迷った末に、自分を見下ろしている少年にリョーコはおずおずと声をかけた。
「……あの。私、処女じゃないんで。私の血って、あまり美味しくないと思うんだけれど」
言ってしまってから、初対面の相手にかけた第一声としては最低の台詞だったことに気付く。ましてやそれは、血を吸われたくない一心でついた真っ赤な嘘だった。はたして少年は困ったような表情を浮かべると、それきりリョーコを無視して座り込んだままの銀髪の少女のほうへと歩み去っていく。
しまった、最悪な第一印象を与えてしまった。しかも年下の男の子に見栄を張るような真似をするとは、あまりにみじめすぎる。これっていっその事、血を吸われた方が良かったんじゃない?
ひとしきり自己嫌悪に身もだえした後で我に返ったリョーコは、あらためて周囲を見渡してみる。さっきの魔物はどうなったのだろう。街路の向こう側に目を凝らしてみると、ぶつぶつと泡立つ黒い汚泥の塊のようなものがそこには溜まっていた。どうやら、先ほどの少年の一撃でその肉体は崩壊しつつあるらしい。
マジか。あの男の子、素手であの怪物を倒しちゃったよ。
しかし同時に、やや奇妙な事実にも気付く。拳による打撃で倒したのならば、普通はへこんだりちぎれたり、あるいはばらばらになったりするものだと思うのだが。それが溶けているというのは、一体どういうことなのだろう。
おっといけない、と疑問を振り払って立ち上がる。とりあえずは目の前のことに集中しなければ。悪魔と吸血鬼が一度に現れたのだ、これ以上何が起きても不思議ではない。
リョーコは左腕を押さえながら、少年と少女の方へと向き直った。路上にへたり込んでいる銀髪の少女は、もはや震える事も忘れて、近づいてくる美少年を呆然と見上げている。さもありなん、あの美貌は対象年齢など関係なく有効であるに違いない。
黒衣の美少年はゆっくりかがむと、少女をそっと抱き起こした。放心状態でされるがままに任せているその首筋に、少年は黙って唇を寄せる。
ええ、そっち? 自分で言うのもなんだけれど、今の私の容姿ってば、結構イケてると思う。この点で、私は再びこの身体の元の持ち主に感謝しなければならないのだが。その私を差し置いて小さな女の子に先に手を出すとは、一体どういう了見なのか。
「ちょっと待ちなさいよ、このロリコン!」
少年が少女に手を出すことをロリコンと呼ぶのかどうかは、この際問題ではなかった。しかし憤然としたリョーコを一顧だにすることなく、少年は赤い瞳を輝かせながら、少女の細い首にためらいなく歯を立てる。少女は顔に喜悦の表情を浮かべると、そのままがっくりと少年の腕の中に崩れ折れた。
やっぱり血を吸うんだ。吸血鬼確定ね。
少年は眠ったように動かない少女を静かに街路に横たえると、どこからか取り出した毛布でその身体を覆った。ふう、と一息つくと、顔を上げてリョーコの方に向き直る。その瞳からいつしか赤い光が失われていることにリョーコは一瞬たじろぐが、気を取り直すと少年を強くにらみつけた。
「……やってくれたわね。未来のある小さな女の子を、不死の道連れにするなんて。君、責任取ってあげれるの!?」
美少年は、リョーコの放った「不死」という言葉に、ぴくりと眉を上げた。あからさまに顔をしかめ、嫌悪をあらわにしている。ようやく感情を見せた少年に向かってリョーコは猛然と駆け出した。一発殴ってやらなきゃ気が済まない。
「ルックスに恵まれている奴って、何でも思い通りになると思ってるから本当にたちが悪いわ。みんながみんな、君に血を吸われて喜ぶなんて思わないことね!」
少年の左頬に向けて、無傷なほうの右腕で拳を放つ。怪物を一撃でノックダウンするような相手に我ながら無謀だ、とは思わなかった。人間、馬鹿にしないでよね。
リョーコの放った打撃は自分で想像していたよりもはるかに鋭いもので、むしろ彼女自身のほうが驚いていた。少年もやはり意表を突かれたようだったが、わずかに身体を後退させて顔面に当たる寸前で拳をつかむと、彼女の腕を引き寄せて再び困ったような表情でリョーコを見る。握られたところから生命力でも吸い取られるんじゃないか、などというあやふやな知識に基づいた予想に反して、少年の手が暖かいことにリョーコは戸惑ってしまう。
二人の距離が、危険なまでに近づく。
うわー、きれい。思わず顔面に殴りかかってしまったけれど、こんな顔に傷をつけたら一生後悔しそうだ。今度殴る時は、絶対に腹パンにしよう。まあさっきの彼の動きから察するに、私の攻撃なんてきっと当たらないんだろうけれどね。
美少年のアップによってかきたてられた内心の動揺を振り払うと、リョーコは強気にまくしたてた。
「ちょっと、君。さっきから黙っているけれど、何とか言ったらどうなの?」
無反応な少年にもどかしさを感じて、さらに言葉を継ぐ。
「君、吸血鬼なんでしょ。どうしてあの悪魔から私を助けてくれたの? 幼い女の子っていう自分の獲物を、悪魔に横取りされたくなかったからかしら?」
少年はリョーコの手を離すと、初めて口を開いた。
「……別に。ただ助けたかった、それだけです」
うお、しゃべった。おお、めちゃいいじゃん。
容姿にたがわぬ美声であったことに、心の中で
それにしても。私を助けたかったって、あの悪魔から? もしそうだとしたら、少しは感謝しないと失礼かもしれない。
「女の子のことは許せるはずもないけれど、とりあえずはありがとう、って言っておこうかな」
回りくどく格好をつけたリョーコは、大人の余裕を示そうとほほ笑んで見せる。少年は宙を見上げてため息をつくと、うんざりした表情で答えた。
「いえ。助けたかったのはお姉さんではなくて、あちらの女の子の方ですが」
ふーん。やっぱり君、ロリコンなんだ。いやいや、そうじゃなくて。
「何だ、私を助けてくれたんじゃなかったんだ。お礼言って損しちゃった」
「誤解されるのは、お姉さんの勝手ですが」
おっと、可愛い顔して皮肉言ってくれるじゃない。吸血鬼なだけに感じの悪い冷血漢だと思っていたけれど、なかなかどうして
わずかに緊張から解放されたリョーコは、少年に尋ねた。
「君は何者なの。デーモンハンター?」
「そういうわけではありませんが。まあ、結果的にハンティングしている形にはなっていますけれど」
吸血鬼が、悪魔を倒す。でも吸血鬼って、悪魔の親戚みたいなものじゃないのかしら。まあ、彼とさっきの化け物とでは、あまりにもその容姿や感じられる知性が違いすぎるけれど。
少年はふと気づくと、毛布にくるまって横たわっている銀髪の少女を振り返った。
「あと、僕の事を吸血鬼って呼びましたけれど、それ全然違いますので。お姉さんがどんなイメージを僕に持たれたのかはわかりませんが、少なくともあの子に有害なことは起こりませんから、そこは安心してください。もちろん、吸血鬼になったりなんかしませんよ」
少年の話を、リョーコは思わず無条件で信じてしまいそうになる。美少年ゆえか、それとも吸血鬼に備わるという魅了の能力ゆえか。しかし、いつまでもこんな悠長な会話を続けているわけにはいかない。
リョーコは胸をそらすと、自分よりも少し背の高い少年を見上げた。
「ありがとう。色々教えてくれるのね、お姉さんうれしいわ。ところでこれだけ話をしてくれるってことは、私を生かして返すつもりはないってことでオーケー?」
少年は、心底意外そうな顔で言った。
「まさか。お姉さん、死にたいんですか?」
簡潔だが根源的な質問が来たな、とリョーコは一瞬返答に詰まった。哲学、とでもいうべきか。死にたいのかとのその問いには、悩むところだけれど。
「死ぬのはいいけど、殺されたくはないわね」
「そうですか。それは、そうですよね」
少年の声の中に含まれるわずかな憂鬱さに、リョーコは気付いた。
え、何? この子、死にたいの? でも吸血鬼って不死じゃないの?
そこまで考えたリョーコは終わりのない自分の境遇に思い当たって、かすかなため息をついた。確かにね。死にたいのに死ねないってのは、結構きついかも。忘れたいのに忘れることができない、私のように。
つかの間うつむいたリョーコに少年は
「あの。ここで起きたこと、すべて忘れてもらえませんか?」
我に返ったリョーコは、少年に苦笑を返した。何言ってるのよ、こんな美少年をどうやって記憶から消去できるのよ。もっとも、美少年じゃなくても私は忘れることができないわけだけれど。
「それは無理な注文ね。私って、思い出だけで生きているから」
少年はまたしても困惑した表情を浮かべた。
「やっぱりだめですかね。それじゃあ、仕方ないか」
やれやれと首を振ると、少年はリョーコに身体を寄せてきた。
わ、大胆。これってひょっとして、しょーもない私の命の代償としては、悪くないんじゃない?
頬を赤くしたリョーコが顔を上げると、そこに広がっている少年の瞳は再び暗く赤い輝きを放っている。わずかに開いた少年の口を見て、咬まれる、とリョーコは思った。
だめ。さっき彼は、咬まれても害はない、みたいなこと言ってたけれど。彼に咬まれては絶対に駄目だと、理屈じゃない、私の中の本能的な何かが警告を発している。
リョーコは痛みも忘れて、両手で自分の首筋を覆い隠した。少年はそれに構わず、彼女の肩を両腕で抱く。
そして、静かに唇を寄せると。
リョーコの唇に、優しく重ねた。
「……!」
唇に、ちかりとわずかな痛みを感じ。
リョーコの意識は、フェード・アウトした。
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