第4話 アウトサイダー

「お母さん! リョーコお姉ちゃん、目が覚めたみたいだよ!」

 耳元で小さな女の子の声が聞こえた。それに続いて、ばたばたと階段を上ってくる足音が徐々に大きくなってくる。

「リョーコ、大丈夫!?」

 部屋に飛び込んできた若い女性の声に、うっすらと目を開ける。ここ半年間で慣れ親しんできた、いつもの自室の天井だ。

 寝台脇の椅子に座っていた少女がリョーコのほうに身を乗り出して、澄んだ青い瞳で不安そうに彼女を覗き込んでいる。ショートボブの金髪がきれいだな、と思いながら、リョーコは笑顔を作った。

「あ、ポリーナちゃん。おはよう」

 はあっと大きなため息をつくと、少女は頬を膨らませてリョーコを小突いた。

「おはようじゃないよ、お姉ちゃん。ずっと起きなくて心配したんだから」

 ポリーナと呼ばれた少女は小さな身体に毛布を巻き付け、足には毛糸の靴下を履いている。かたわらのサイドテーブルに置かれた空のカップの底には、とっくに飲み終わって乾ききった紅茶の跡が残されていた。

 そうか。私が起きるまで、ずっとそばに座っていてくれたんだ。

 リョーコは新しいシーツの匂いを吸い込むと、勢いよく身体を起こした。下着姿だ。室内に慌ただしく入ってきた女性は、寝台のそばにしゃがみこむとリョーコの顔を両手で挟み込んで、ポリーナと同じく安堵の声を漏らした。

「……本当によかった。リョーコ、どこか痛くない?」

 ポリーナの母親、レイラ。彼女は、リョーコが半年前から住み込んでいるこの場所、ベーカリー「トランジット」の女店主でもある。娘と同じ青い瞳のレイラは、セミロングの金髪をポニーテールに束ね、水色のワンピースの上には店のロゴが入った白いエプロンをつけている。階下の店舗にいたところを、ポリーナの呼び声を聞きつけて急いで上がってきたのだろう。

 レイラの手に触れながら、リョーコは謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい、レイラさん。私、どうしてここに?」

 やれやれと頭を振ったレイラは、腰に手を当ててリョーコを軽くにらんだ。

「覚えてないの? 自警団長のリカルド、あなたも知ってるでしょう? 夜の街路で気を失っていたあなたを、彼がここまで連れ帰ってくれたのよ」

 普段は優しいレイラも、さすがに厳しい表情だ。

「まったく、どうしてあんな真夜中に外に出たりしたの? 最近、小さな男の子や女の子が夜道で何者かに襲われてるって、噂になってたじゃない」

 リョーコは頭をかきながら、明るく笑って誤魔化した。

「そっか。今度リカルドさんに会ったら、お礼言っとかないとね。でも昨日の夜は寒かったし、見つけてもらえなかったら凍死してたかも。ラッキーだね、私」

「何、お気楽なこと言ってるの。見つけてもらったっていうけれど、リカルドが言うには、自警団の詰め所にフードをかぶった人がふらりと訪ねてきたんだって」

「ふんふん。それで?」

「むこうの道端にあなた達が倒れてるから助けてやってくれ、って言い残して、すぐに去っていったらしいのよね。なんだか若い男の子みたいで、それがまたすごくきれいな声だったとかで」

 それは、きっとあの美少年。いや、本人は否定していたが、あの吸血鬼に違いない。頭の中の霧が、少しずつ晴れてくる。

「……ねえ、レイラさん。あなた達ってことは、だれかが私と一緒に倒れてたって事だよね。私のそばに、女の子が一緒にいなかった? 銀髪の、ポリーナちゃんくらいの年齢の」

 レイラは眉をひそめながらうなずいた。

「ええ。あなた、アンナちゃんって子といっしょに気を失っていたのよ。ポリーナと学校は違うけれど、同じ町内の。でも、銀髪? あの子の髪は確か、銀じゃなくて栗色だったと思うんだけれど」

 あれ、私の見間違いだったかな? あんなきれいな銀髪、そうそういないと思うんだけれど。そして脳裏には、美少年に首筋を咬まれている少女の姿が鮮明に浮かんでくる。

「レイラさん、そのアンナちゃんって子。……今、どうしてる?」

 レイラは、きょとんとして首を傾げた。

「どう、って?」

「いや、言いにくいんだけれど。その、吸血鬼になってたりとか」

 レイラはぷっと吹き出すと、リョーコの話を一笑に付した。

「なあにそれ。リョーコ、何か悪い夢でも見たの? アンナちゃん、別にどこにも異常はなかったそうよ。乱暴されたような形跡もなかったって。ただ、どうして夜に一人で外へ出たのか、外で何が起きたのかは、全然覚えていないらしいけれど」

「その子、首に傷とか……」

 言いかけたリョーコは、自分の左腕の傷がすっかり消えていることに気付いた。あの半人半山羊の悪魔に、確かに五本の爪傷をつけられたはずなのだが。もちろん、何の痛みも感じない。完全に治っているのか、それとも元から傷などなかったのか。

 レイラさんの言う通り、あれは夢だったのかな?

 自分を無理やり納得させようとしたリョーコは、唇にちくりとした痛みを感じた。指先で、そっと触れてみる。そこにはわずかな、しかしはっきりとした傷痕があった。ううん、やはりあれは夢なんかじゃない。

 そして昨夜の一部始終を完全に思い出したリョーコの心に、ふつふつと怒りが沸き上がった。

 あんのやろー、人の唇を勝手に奪いやがって。

 私、初めてだったのに。

 顔を赤らめたリョーコを不思議そうに眺めながら、レイラが尋ねた。

「リョーコ。アンナちゃんがそばにいたことを覚えているのなら、他のことはどう? 夕べ、あの場所で何があったの?」

 悪魔。美少年吸血鬼。自分でもどこまでが現実かよくわからないが、とにかく目の前の二人には心配させたくない。

「すいません、実は私もほとんど覚えてなくて。鈴の音が聞こえてふらふらと外に出てみたら、女の子がいるのがちらりと見えたんだけれど。その後すぐに、なんだかくらくらとしちゃって」

 しどろもどろに、あいまいな説明を試みる。話を聞いていたレイラは首をかしげると、自分の娘の方を振り返った。

「鈴の音? ポリーナ、あなた聞こえた?」

 ポリーナは金髪を揺らしながら、ぶんぶんと首を左右に振った。

「ううん、何にも。私って寝つき悪い方だから、そんなの聞こえたらすぐに起きちゃうよ。リョーコお姉ちゃん、やっぱり夢でも見たんじゃない?」

「そうなんだ。二人とも、聞こえなかったんだ……」

 私だけに聞こえていた鈴の音。あれは確かに、誰かを誘い出すためのものだった。私じゃなければ、アンナちゃんっていうあの女の子を?

 レイラはいったんベッドのそばを離れるとすぐに戻ってきて、コーンスープが入ったカップをリョーコに手渡した。

「とにかくこれ飲んで。身体、あったまるから」

 そして彼女は、わずかにため息をつきながら続けた。

「……私、リョーコがもう帰ってこないんじゃないかって。あなた、半年前に私が森の中で見つけた時も、何も覚えてないって言ってたわよね。あれからずっと記憶が戻ってないし、また記憶を失ってどこかに行ったんじゃないかと」

 そうだった。そういう設定だった。心配、かけちゃったなあ。

 リョーコは罪悪感を懸命に隠しながら、おどけて言った。

「そうですね。私、記憶喪失の上に夢遊病なんですかねー。自分でも困っちゃうなあ」

 あははと笑いながら、リョーコは心の中で謝った。ごめんなさい、レイラさん。昨夜のことも、元の世界のことも、きちんと記憶はあるんです。それどころか、忘れることができないんです。

 レイラは黙ってリョーコを見ていたが、やがて口を開いた。

「リョーコ。昔のことが思い出せないのなら、それはそれでいいわ。だけど、黙ってここからいなくなったりしないで。あなたって、あなただけのものじゃないのよ」

 レイラは寝台に身を乗り出すと、両腕でリョーコを柔らかく抱きしめた。

「私たちの、家族なんだから」

 そばに立っているポリーナは、何も言わずにこくこくとうなずいている。

「……ありがとうございます。病気だったら、いつどうなるか分かりませんけれど、努力してみます」

 私は部外者、アウトサイダー。

 だから、そんなに。優しくしてくれなくても、いいのに。


 ふと窓から外を見たリョーコは、赤く染まりつつある空に驚いた。いったいどのくらいの間、自分は気を失っていたのだろう。

「レイラさん、今もしかして夕方? お店、手伝わなきゃ」

 レイラは立ち上がると、にっこりと笑った。

「リョーコがずっと寝てたおかげで、それはそれは忙しかったわよ。大丈夫、夕方からはお得意さんとカフェのお客さんくらいだから。落ち着いたら、ご飯食べに降りてきて。おなかすいてるでしょ?」

 飲み終わったスープのカップを受け取ると、レイラは階下に降りて行った。残ったポリーナは立ち去ることもなく、瞳をうるませながらリョーコを見ている。リョーコは寝台から下りると、かがんでポリーナを抱きしめた。

「ごめんね、ポリーナちゃん。大丈夫、私はここにいるから」

 リョーコの腕の中に顔を埋めたまま、ポリーナはぐすりと鼻をすすった。

 もう、戻る場所なんてない。だけど、前に進む強さも持てない。

 そんな自分が、悔しい。

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