第5話 追加注文はお好き?

 店の扉に取りつけられたベルが、からんと乾いた音を立てた。開店前に伝票を整理していたリョーコは、慌てて顔を上げる。

「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、まだ準備中で……あ」

 涼し気な目鼻立ちとすっきりとした顎のラインを持つ端正な顔立ちの若い女性が、朝日を背にして入り口に立っていた。生気にあふれて輝く大きな黒い瞳、マッシュショートの黒髪がクールでキュートだ。白いシャツにぴったりとした黒いスラックス、黒いジャケットというマニッシュな外見に違わず、闊達かったつな足取りで店内に入ってくると、カウンターに向けて片手を挙げた。

「おっはよー、リョーコ。聞いたわよ、昨日のこと。大丈夫?」

「さんきゅ、ヒルダ。この通りピンピンしてますよーだ」

 二人は目を見交わして笑った。開店前にこうして店の中で談笑できるのも、この女性がベーカリー「トランジット」の常連で、なおかつリョーコと親友でもあるからだろう。ヒルダと呼ばれた若い女性はカウンターにつかつかと歩み寄ると、いたずらっぽくリョーコの顔をのぞき込んだ。

「夜中に抜け出して、道端で気絶してたんだって? 酔っぱらった挙句に、どこかのいい男とあいびきでもしてたんじゃないの?」

 まあ確かに美少年と会ってはいたけれど、あれは断じてあいびきなどではない。下手したら、吸血鬼にされていたかもしれなかったのだから。

 リョーコは腰に手を当てると、わざとむくれて見せた。

「何言ってるのよ、ヒルダ。私だけでなく、アンナちゃんていう小さな女の子も一緒だったし。最近物騒な事件多いでしょ、怖かったんだから」

 ヒルダは手を合わせて、笑いながら謝った。

「冗談、冗談。でも真面目な話、リョーコは誰かと付き合った方がいいと思うんだけれどな。そんなに美人なんだし、もったいないよ。いい人、紹介しよっか?」

「ご遠慮させてもらうわ。ヒルダみたいにたくさんの人とお付き合いするなんて、多重人格者じゃなきゃやっていけない」

 ヒルダはその抜群の容姿に加えて開放的な性格から、同性異性を問わず人気が高い。それ故に、その手のうわさにも事欠かない。

「あら、私は自分を相手に合わせたことなんてないわよ。むこうが勝手に私に合わせてくれるんだから。それに第一、私は付き合ってるつもりなんてないし。みんないいお友達よ」

 すまし顔で答えるヒルダを見て、リョーコはため息をついた。ヒルダ本人はそのつもりでも、言い寄る男女たちはたまったものではないだろう。まあ、ヒルダ相手なのだから自業自得ともいえるし、あるいはお互いがドライな関係に納得しているのであれば、他人がとやかく言う筋合いもないのだが。

「はいはい。それでヒルダ、今朝はいつものホットドッグ?」

「うん、一つお願い。あと、ミックスフルーツジュースももらおうかな。ここのホットドッグって本当に飽きないのよね、さすがレイラさんだわ」

 まったくもって同意見、とリョーコは笑ってうなずく。レイラさんのパンは、それだけでおかずになるレベルだ。

「了解。今日は朝から、アカデミーの授業?」

「うん。もうすぐ卒業でしょ、単位がぎりぎりなんだよねー」

 リョーコはホットドッグとジュースを紙袋に詰めながら、悪びれる様子もないヒルダを軽くにらんだ。

「もう、ヒルダったら。魔導士アカデミー始まって以来の秀才のくせして、素行不良で落第寸前なんだもんね。ちょっとは自重しなさいよ」

 アカデミーとは、王立の教育機関であり最高学府でもある。魔法や冶金やきん、芸術などの多岐にわたる専門的な素養を持った者を集めて幼少期から訓練を行い、卒業後は王国の関係機関に編入することを意図して設立されている。

 その中でも特に魔導士アカデミーと治癒師アカデミーの二機関においては、素養を持つ者自体も少なく、卒業もまた狭き門であった。そして魔導士アカデミーは、落第しなければ、通常は二十四歳で卒業である。

 ヒルダは、だるそうにあくびをかみ殺した。

「ふぁい。昨日もバイトで深夜まで踊ってたから、眠くて眠くて」

「ヒルダ、またデッカーズでバイトしてたの? もしかして、例のあんな格好で……」

 魔導士という人種はやはり変わり者が多いが、ダンサーのバイトでその日を暮らしているのはヒルダくらいなものだろう、とリョーコは目の前の親友をあきれ顔で見やった。一度だけ連れて行ってもらったデッカーズというそのクラブでの彼女の官能的な踊りを思い出して、リョーコは思わず赤面する。あれって、ほぼ下着だけみたいな衣装だったよね……でも、あの時のヒルダのダンスは本当に最高だった。

 くるりとリョーコの目の前できれいに一回転して見せたヒルダは、笑って言った。

「リョーコもやってみる? あんたスタイル抜群だから、お客さんもきっと喜ぶわよー」

「じょ、冗談。あんなにたくさんの好奇の目にさらされたら、私死ぬ」

 ヒルダは少し真顔になった。彼女なりのプライドを、わずかに傷つけられたのかもしれない。

「そうかなあ。私の身体を見て元気になってくれるんだったら、それはいいことなんじゃないかと私は思うけれど。これも一種の魔法だよ」

 そう言ってヒルダは、リョーコに派手なウィンクを送った。

「リョーコも、疲れたらいつでも連絡してね。私、思いっきり慰めちゃうから。リョーコって思いっきり私のタイプなんだよねえ」

 リョーコは真っ赤になった。こいつは危険だ。お願いします、なんて思わず言いそうになったじゃないか。

 ホットドッグの入った紙袋をヒルダに押し付けると、扉の方へと無理やりに押し出す。

「もう。馬鹿言ってないで、早く学校に行きなさい。遅刻しちゃうわよ」

「そうなんだけどさ、制服に着替えるためにいったん家に帰らなきゃいけなくてね……うー面倒くさい」

「あんたが朝まで遊び惚けてたでしょ、まったく」

 その時、再び店の扉がからんと開いた。

「あ、いらっしゃ……」

 リョーコの声は、そこでぴたりと止まった。

 店の中に入ってきたのは。白いハイネックのセーターに、黒いショートコート。スリムな脚にぴったりと合った、革製のスラックス。あの夜と異なるとすれば、その瞳に宿っていた深紅の輝きが今は影を潜めていることか。

「うっそ……可愛い」

 先に声を上げたのは、ヒルダの方だった。リョーコはエプロンのすそを握りしめたまま、黙って硬直している。

 なんと。向こうからやってくるとは。

 その美少年はショーケースの中を覗き込みながらカウンターの方へと歩いてくると、何気ない口調で言った。

「おはようございます。シナモンロールを三つ、お願いできますか」

 無表情の少年に、リョーコはたまらずに言った。

「き、君。一体、何しに来たの」

 当然のリョーコの反応に、少年は本心から驚いたようだった。

「……まさか。お姉さん、僕の事を覚えているんですか?」

 リョーコはそばにヒルダがいることも忘れて、少年にまくしたてた。

「忘れるわけないじゃない、いきなりキスなんかしといて!」

 静まり返る店内。少年は困惑した表情で、顎に指を当てて考え込んだ。

「こんな状況は初めてだけれど……僕の能力が、抵抗されている? でも、そんなことがあり得るなんて」

「何ぶつぶつ言ってんのよ! あのアンナちゃんって子、本当に大丈夫なんでしょうね!?」

 少年は顔を上げると、リョーコにシナモンロールとは別の注文をした。

「お姉さん。もう一度、キスさせてくれませんか?」

 リョーコの顔が完全に凍り付いた。

「な、な……」

 少年は、自分を食い入るように見ているヒルダに気付いて小さく会釈をすると、一人合点にうなずいた。

「そうですね、人目につくところでは、ちょっとはばかられますよね。何はともあれ念のために確認しに来て、不幸中の幸いというか。それじゃまた、いずれ。まあ、特に急いではいませんので」

 少年は踵を返すと、扉へと向かった。

「そうそう、シナモンロールはまた買いに来ますね。こちらのパン、美味しいって評判ですから」

 からんという乾いた音とともに、少年は屋外に消えた。


 固まったままのリョーコは、ようやく我に返った。びしびしと痛いほどの視線を背後から感じて、恐る恐る振り返る。

「ちょっと。リョーコ」

「あ、あはは……」

「あんなとんでもない美少年と知り合いだなんて、どういう事? もう一度キスをさせてくれ? 一度じっくりと、説明してもらう必要があるわね」

「ヒルダ、落ち着いて。目、わってるよ」

「これが落ち着いていられるかっての! もう私、うれしいやらくやしいやら。今夜は乾杯だね親友、コングラッチュレーションズ!」

 両手をぶんぶんと振って暴れ始めたヒルダを、懸命になだめるリョーコ。

「ほ、ほら、ヒルダ。急がないと、授業に遅れちゃうよ?」

 その一言ではっと正気を取り戻したヒルダは、むう、と腕組みするとリョーコをじろりとにらみつける。

 「あーそうでした。単位ね、単位。じゃあ続きは後日、絶対に語っていただきますからね」

 ヒルダは代金をリョーコの手に握らせると、袋から取り出したホットドッグをほおばりながら、疾風のように店の外に飛び出していった。からあん、という大きなベルの音とともに、扉が勢いよく閉まる。

「あ、ありがとうございましたー」

 ベーカリー「トランジット」の朝の店内に、ようやく静けさが訪れた。

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