第6話 弱虫で泣き虫な黄昏
「あー。買い出し、遅くなっちゃったなあ」
秋の夕暮れは早い。
こういうのを確か、つるべ落としっていうんだっけ。秋の日がたちまち暮れてしまうことを、井戸水を汲むためのつるべ桶が早く落ちるさまに例えたものだとか。でもつるべ落としには、もう一つ別の意味もあったりする。大木から落ちてくる、妖怪。諸説あるが、生首やつるべ桶、あるいは怪火などが木の上から落ちてきて、下にいる人間を襲うのだという。
リョーコは我に返ると、自分の妄想癖に
リン。リリン。
リョーコはぎくりとして立ち止まった。あの夜に聞いたものと同じ鈴の音が、前方で枝分かれした暗い裏道の奥から響いてくる。まさか。人通りが絶えないこんな街中で、大胆不敵にも活動を続けているのか。あの、見るもおぞましい悪魔が。
手に持った紙袋をばさりと落とすと、リョーコはじりじりと後ずさった。
私、何の関係もないじゃない。人の生き死になんて、もうたくさん。
そうこうしているうちに、鈴の音はぴたりと止んだ。洞穴じみた暗闇の奥から、背の高い何者かが足音もなく歩き出てくる。紫の長衣を頭まですっぽりとかぶってはいるが、全身から放たれているまごうことなき瘴気は隠しようもない。
その影は夕陽を背にしながら近づいてくると、特段何をするでもなく、ただ彼女の横をゆっくりと通り過ぎた。その瞬間、フードの端から見えた口元が笑ったのを、リョーコは確かに見た。あの美少年に倒された先日の魔物とは異なり、その口は完全に人間のそれである。そしてやがて表通りに出ると、人影は雑踏に紛れてあっという間に姿を消した。
冷たい汗を背中に感じながら、リョーコは暗い裏道を凝視していた。
あの奥に子供がいる。賭けてもいい。
行かなきゃ。
しかしその自分の意思に反して、リョーコの足は地面に縫い付けられたように動かなかった。
どうして足がすくんでるの。私、医師じゃない。目の前に死にそうな子がいるのよ。
私、何やってるのよ。
どのくらいそうしていただろう。それは
「お姉さん! この辺りで鈴の音を聞きませんでしたか?」
振り向かずとも、リョーコにはその声の持ち主がわかった。今の自分とはまるで正反対の、澄んだ、まっすぐな少年の声だった。
やだ。こんなところ、見られたくない。
その願いもむなしく、駆けつけてきたのは果たしてあの黒衣の少年だった。少年はリョーコの正面に回ると、彼女の両肩をつかんだ。
「大丈夫ですか? 悪魔に、会いましたか?」
「……鈴の音が聞こえて、会った。そして、もう行ってしまった」
少年はリョーコの目を覗き込んだ。その瞳は何の輝きも映さず、ただ暗い淵に沈んでいる。リョーコは確かに打ちのめされていた。あの悪魔が浮かべた笑み、それは彼女が欠片ほどの勇気も持ち合わせていないことを見越した
「私、何もできなかった」
その声のかぼそさに、少年は一瞬言葉を詰まらせた。
「まだ、できることがあるかもしれません。お姉さんはここにいてください」
少年はリョーコをそっと座らせると、裏道の中へと踏み込んでいく。そしてすぐに、一人の幼い男の子を横抱きにして出てきた。リョーコの視線は、自然その髪に吸い寄せられる。それは予想した銀髪ではなく、ごくありふれた赤毛だった
少年は男の子を街路に横たえると、深紅に染まっている上着を脱がせた。胸の左側に深い刺し傷。リョーコには分かる、心臓を一突きされている。
いてもたってもいられずにリョーコは男の子ににじり寄ると、首筋と右手首に指を当てて探った。脈はすでにない。がっくりとうなだれた彼女を、少年は沈痛と疑念の入り混じった表情で黙って見下ろしていた。
二人の背後で、中年の女性の悲鳴が上がった。
「サミー!」
その女性はもはや動くことのない子供に駆け寄ると、泣きながら抱き上げた。
「ちょっといなくなったと思ったら、なんてこと……返事をしてちょうだい、サミー」
女性はぐちゃぐちゃになった顔で男の子をゆすり続けている。少年はやや逡巡していたようであったが、やがて前に進み出ると声をかけた。
「彼の、お母さんですか?」
救いを求めて周囲を見回していた女性は、少年の方を振り向いた。放心状態のまま、壊れた人形のように頭を縦に振る。
「……あなたが、サミーを見つけてくれたの?」
少年はうなずいた。
「あの裏道で、何者かに襲われたんだと思います。僕が駆け付けた時には、すでに」
そして少年はかたわらにかがみこむと、男の子の胸に手を当てた。
「せめて、この傷だけでも治させてくれませんか」
男の子の左胸の小さな、しかし深いその傷の周囲が、ぼんやりと薄く光る。そしてごく短い時間で無残な刺し傷は周囲の皮膚に溶け込んで跡形もなくなり、シャツに付着して固まった暗赤色の血痕だけが事件の面影を残していた。
少年の横顔を、リョーコは驚きのまなざしで見つめた。彼、治癒師だったのか。王国中を探しても一年に数人しか現れないという、治癒魔法の使い手。魔導士については親友のヒルダを通してある程度の知識があった彼女も、治癒師を実際に見るのは初めてだった。
母親は驚きと喜びに飛び上がると、少年にすがりついた。
「あなた、治癒師なのね? じゃあ、サミーの命を助けてやってちょうだい。蘇生の呪文だとか何とかあるんでしょ? 早く!」
少年は、唇を強く咬んでうつむいた。母親の表情が不安から、やがて絶望と怒りに変わる。
「どうしたっていうのよ、治癒師なんでしょ? 傷を治すだけしか能がないの? 何よ、この役立たず!」
それを聞いたリョーコは、胸がずしんと重くなるのを感じた。
彼じゃ、ないんです。役立たずは、私。
少年は眠ったように安らかな子供の顔から、視線をそらさずに言った。
「……一度死んだ者は、治癒魔法でも生き返らせることはできません。僕は、間に合いませんでした」
母親は呆然とすると、二度、三度と少年の胸を叩く。少年はただ、彼女のなすがままに任せていた。
後方から、どやどやと声が聞こえてきた。群衆をかき分けて近づいてきた男たちのベストの左胸には、双頭の蛇の紋章が縫い付けられている。騒ぎを聞きつけた、この街の自警団員たちだった。少年から引きはがされた母親が彼らに手を引かれて、よろめきながら現場を離れていく。
団員の一人が子供の身体を手早く検分しながら、少年に話しかけた。
「君が、第一発見者?」
少年は淡々と事実だけを口にした。
「そうです。深い刺し傷が左胸にあって、それが致命傷だったと考えられます。傷跡が見当たらないのは僕が治したからです、証拠隠滅のようになってしまって申し訳なかったのですが」
少年の言葉に、団員は眉を上げた。姿勢を正すと、打って変った丁寧な口調で少年に質問する。
「治した。あなた、治癒師殿でしたか。失礼ですが、お名前は?」
「……フリッツと言います。あの、住所はありません」
手元でメモを取っていた団員は、驚いて顔を上げた。
「治癒師殿は、路上生活者なのですか? 確かにこの下町には多いですが、それにしてもあなたのような方が」
「仕事上、この方が都合がよいのです。それよりも犯人ですが、例の」
団員は周囲を見回しながら、小さくうなずいた。
「ええ。最近話題になっていますから、ご存じかもしれませんがね。ここひと月で、もう三人の犠牲者が出ています。それも、全員が十歳未満の少年少女たち。同一人物、変質者のしわざだと我々はにらんでいますが」
「変質者、僕も同意見です。不幸なことに、僕が到着した時はすでに犯人は逃げ去った後でした。お役に立てず申し訳ありません」
少年は、リョーコだけにわかる嘘を団員についた。
「とんでもない、大変参考になりました。ご協力感謝致します、治癒師殿。なにか気が付いたことがあれば、自警団の詰め所までお知らせいただければ幸いです。それでは」
団員は小さく会釈をすると同僚を呼んで、包んだ毛布ごと少年を運び去って行った。
少年はしばらく黙って立っていたが、やがてコートについたほこりを払うと、リョーコに背を向けて立ち去ろうとした。
「待って! あの……フリッツ君って言ったわよね?」
自警団員にフリッツと名乗った美少年は、憂鬱そうに足を止めた。
「どうして、あの女の人に言い返さなかったの?」
リョーコは、必死に少年に呼びかけた。誰かを責める資格なんて、今の私にはあるはずもないのに。何かを言い続けなければ、情けない今の自分がバラバラになりそうだった。
「あの子の傷を治してあげたのも、せめてきれいな体でお母さんに返してあげたかったからなんでしょ? それなのに、あそこまでひどいこと言われて。感謝されこそすれ、責められる筋合いなんてないじゃない!」
少年はうつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。
「僕は、あの子を助けられなかった」
「でもあの子が死んだのは、君のせいじゃないわ。あの悪魔が……」
続けようとした言葉を、振り返ったフリッツがさえぎった。その瞳は、先ほどのリョーコと同じように暗く閉ざされている。
「頑張ったとか、最善を尽くしたとか、そんなの何の意味もない。結果が、現実が、すべてなんです。……僕は、果たすべき誓いをいつも裏切り続けている」
違うよ。
そんなことない。
君は、自分にできることをしようとした。それなのに、私は。
リョーコの頬を、涙が伝った。
私、最低だ。
無様で、卑怯だ。
みじめだ。
フリッツは顔を上げると、静かに泣いているリョーコに気付いた。後悔の念が彼の顔によぎったように見えたのは、いましも沈みかけた夕陽がその瞬きを強めたからなのか。フリッツは静かに歩み寄ると、細い指で彼女の涙をぬぐった。
「ほら、お姉さん。目、赤くなってますよ。あなたは僕みたいな吸血鬼なんかじゃないんだから」
そして再び踵を返すと、今度こそ街路の向こうへと去っていく。その背中が、たまらなく寂しそうで。
「私、リョーコっていうの」
彼に聞こえていなくても、構わなかった。それぞれの悲しみを焼き尽くすかのように、黄昏が二人を赤く染めていく。
「またパンを買いに来てね、フリッツ君。私のお勧めは、クロワッサンだから。きっとよ」
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