第7話 ないものねだり

「それで。あのかわいい彼氏君とは、その後どう?」

 テーブルの対面から身を乗り出したヒルダが、リョーコの顔をのぞき込みながらからかう。

「だから、そんなんじゃないって」

「うお、親友の私にまだ隠すか。マインドブラストの魔法で精神を破壊してでも、口を割らせてやるから」

 ヒルダは細い指で印を結ぶ仕草をしながら、まさしく魔女の笑いを浮かべた。うんざりしたリョーコは、しっしと軽くあしらう。

「こら、物騒なこと言うな。ヒルダがそれ言うと洒落にならないでしょ」

 リョーコはベーカリー「トランジット」のカフェテーブルに頬杖を突くと、盛大なため息をついた。

「あのね。彼と私、まだ三度しか会ってないんだよ。何がどう進展するっていうのよ」

「恋愛は、回数ではなくて深さよ」

 含蓄がんちくのある話をしたつもりなのだろう、ヒルダは腕を組んで一人でうんうんとうなずいている。リョーコは白けた表情で、胡散うさん臭そうに彼女を見やった。

「まったく、どの口が。ヒルダがそんなこと言っても、全然説得力ないんですけれど」

 ぼやいたリョーコの鼻先に、びしっとヒルダが人差し指を突き付ける。

「でも、キスはしたんでしょ」

「う」

 ヒルダの指摘に、リョーコはぐうの音も出ずに押し黙った。そりゃあ、するにはしたけれど。でもあれは、絶対に恋愛じゃないと思う。

 ヒルダは肩をすくめて苦笑すると、目の前の親友に助言した。

「とにかくお付き合いしてみなさいよ。彼が触媒しょくばいになって、あなたの世界がまったく別のものに変わるかもしれないわよ?」

 魔導士らしいヒルダの言い回しに、リョーコは再びため息をついた。別に世界を変えたいなんて、そんな大それたことは思っていないけれど。

 私、変われるのかな。そもそも、自分が変わりたいのかどうかもよくわからない。

 リョーコは自分の記憶にそっと触れてみた。何も出来ないと勝手にあきらめていた、今までの、そしてあの時の自分。

 だけど。もう、あんな思いは二度としたくない。

 そしてフリッツ君は、そんな感情が私の中に残っていることに気付かせてくれた。彼のことをもっと知れば、何かが変わるのだろうか。

「うーん。だけど、彼が私のことをどう思ってるか……」

 黄昏の街路でフリッツと別れてから一週間。あれから彼は、一度も店に姿を現していない。

 眼を閉じたリョーコは自分の頬を両手でぱんとはたくと、笑いながら立ち上がった。

「ねえヒルダ、おなかすいてない? レイラさんの新作、未発表だけれど特別に試食してみる?」

 ヒルダはきょとんとしたが、やがて首を振りながら小さく笑うと、リョーコを優しい眼差しで見上げた。

「ワーオ、それ最高。常連やっててよかったわ、役得ね」

「了解。それじゃあしばしお待ちあれ、美貌の魔導士様」

 そう言い残すと、リョーコは勢いよく厨房へと駆け出して行った。

 いけない、いけない。人待ち顔なんて、らしくないわね。


 テーブルを挟んで二人が今まさに新作のパンを口にしようとした時、店の扉がからんと乾いた音を立てた。びくりとして立ち上がったリョーコを、ヒルダが面白そうに見つめる。

「ざーんねん、彼氏君じゃなくて」

「もう。怒るよ、ヒルダ」

 入り口に立っていたのは、革製のベストを着た屈強な体格の男である。金色の短髪に彫りの深い顔だち、年のころは三十代前半であろうか。あごに無精ひげを薄く生やしているのが、浅黒い顔に精悍さを加えている。左の腰には巨大な鋼鉄製の手甲が二つ、革のベルトでしっかりと吊り下げられており、何らかの戦闘の経験者であることをうかがわせた。

 そして年季の入ったベストの左胸には、双頭の蛇の印章が焼き付けてあった。この街の自警団に所属していることを示したものであり、先日の殺人事件の現場で出会った団員たちが付けていたのもこれである。

「あ。いらっしゃい、リカルドさん!」

 リョーコは喜色を顔に浮かべ、その後で慌てて頭を下げた。

「よう、リョーコちゃん。この前は大変だったな」

 リカルドと呼ばれた男はきさくに片腕を上げると、かちゃかちゃと金属音を響かせながら店内に入ってくる。リョーコは恐縮しきった様子で、ぺこりともう一度お辞儀をした。

「この間の夜のこと、すいません。あの後なんだかんだバタバタしてて、ここまで運んでくれたお礼もつい言いそびれちゃって」

「いいって、いいって。レイラさんから無事だって聞いてたからな。でもよ、アンナちゃんだったか、小さな女の子と二人で真夜中の路上に倒れていたんだからな。さすがに驚いたぜ」

 フリッツと初めて会ったあの夜、意識を失ったリョーコをこの店まで運んできたのがこのリカルドだった。リカルドはかつて王国の正規軍に所属していたが、ある時期を境に軍を辞してこの街の自警団長に就任したのだとリョーコはレイラから聞いたことがあった。そのレイラ自身も軍属経験があったとのことで、レイラとリカルドは古い顔なじみであるらしい。

 リョーコは腕を組んで首をかしげると、一生懸命に思い出そうとするふりをした。

「私、前後の記憶が全然なくって。なんでも若い男の子が、私たちの事を見つけてくれたんでしたっけ?」

 リョーコは心の中で謝った。この世界に来てから私、嘘をつくのだけは上手になったなあ。ごめんなさい、リカルドさん。

「そうなんだが、フードで顔まではよく見えなくてな。でもきれいな声してたぜ、ありゃあどこかの吟遊詩人かもしれねえ」

 いやいやじつは治癒師なんですけれど、などと思いながら、リョーコは宙をにらんで考え込む。

 フリッツ君、か。私たちの事を助けてくれたけれど、アンナちゃんの血を吸ったり、私に、その、キスなんかしたり。あれは一体何だったんだろうなあ。そりゃあ吸血鬼なら血を吸うのが当たり前にしても、悪魔と敵対しているふしがあったりと、その行動には不可解な点が多い。もっとも彼自身は、自分は吸血鬼ではないと否定してはいたが。

 リカルドは椅子に座って一息つくと、さりげなく店内を見回した。

「ところで、今日はレイラさんは?」

「おあいにく様、ポリーナちゃんを学校にお迎えに行ってます。ほら、ここ最近、登下校が物騒だから」

「なるほど、そいつは確かに心配だな」

 ふうむ、と顎を撫でたリカルドに、リョーコが訳知り顔でにやりと笑った。

「心配って、ポリーナちゃんが? それともひょっとして、レイラさんかな?」

 リカルドは渋面をつくると、やれやれと肩をすくめた。

「リョーコちゃん、変な勘繰りは勘弁して欲しいぜ。俺はレイラさんの旦那、レオニートのダチだったからな。奴の家族が心配になるのは当然だろう?」

 リカルドの言葉を聞いたリョーコの顔から、途端に血の気が引いた。

「そうだった。レオニートさん、たしか五年前から行方不明だったんだよね。……ごめんなさい」

 少しはしゃぎすぎたようだ、とリョーコは自分の迂闊うかつさを呪った。

 レイラの夫レオニートもやはり王国軍の軍人で、レイラが結婚を機に退役した後も、彼自身は軍に所属したまま任務を忠実にこなしていたのだという。しかし五年前に突然に消息を絶ったレオニートからの連絡は、ついに現在に至るまで途絶えたままである。上層部からも、あるいは王族からも信頼の厚かった彼については大規模な捜索が行われたが、依然として何の情報ももたらされてはいない。

 作戦行動中に行方不明となった兵士は、戸籍や遺産相続などといった手続き上の問題から、失踪しっそう後六か月を経過すると死亡扱いになる。それ以降、レイラには王国から支給される遺族年金を受け取る権利が発生しているのだが、彼女はそれを固辞し、女手一つでポリーナを育てながらこのベーカリーを経営していた。

 うつむいたリョーコの肩をぽんと叩いて、リカルドは陽気に笑った。

「そう気にするな、リョーコちゃん。かなり昔の話だが、奴と俺とは同じ部隊に所属していてな、王国軍ではちょっと名の知れた二人だったんだぜ。何か厄介事に巻き込まれたにしても、そう簡単にくたばる奴じゃあない」

 ただの慰めではなく確信に満ちたリカルドの横顔を見て、リョーコは救われる思いだった。

 今までの出来事を全て覚えているはずのリョーコには、家族の記憶がない。彼女を育ててくれた叔母からは、両親は二人とも火事で死んだと聞かされていた。兄弟姉妹の存在もないリョーコは、ゆえに肉親への情愛というものに無縁のままで生きてきた。

 だからこそリョーコは、家族の絆というものを尊く思う。

 レイラから彼女の夫の話を聞いた時、リョーコははっきりとした痛みを感じた。もともとそれを持たない自分とは違って、一度築いた絆を失う悲しみは、いかばかりだろう。ポリーナも自分の父親のことについては何も言わないが、きっと寂しい思いをしているに違いないのだ。

「リカルドさん、私にできることがあれば何でも言って。こう見えても体力には少し自信があるから」

「サンキューな、リョーコちゃん。でもまあ王国軍の捜索部隊もずっと動いてくれてはいるしな。自警団も俺個人も、仕事の合間に引き続き奴を探してみるさ。もっとも俺は、この件に関しては絶対に何か裏があるとにらんでいるがね」

 厳しい顔で窓の外を見るリカルドに、リョーコは黙ってうなずいた。

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