第40話 ヒルデガルトの呪文

 子供たちの髪が銀色へと変化したことにおののきながらも、ジュディは彼らを守るために、双剣を手にしたキュニフォルメの前に両手を広げて立ちふさがった。汗にまみれた彼女の長い黒髪が、眼鏡と頬に海藻のように張り付いている。その顔は幽鬼のように青ざめ、気を失っていないのが不思議なほどだ。

 キュニフォルメは三人を眺めると、唇を震わせているジュディに向けて優しく呼びかけた。

「そこな女の方、あなたには何も含むところはありません。我々は、無関係な者を殺したくはないのですよ。速やかに、この場からお立ち退き頂きたいのですが」

 悪魔の言葉には、嘘偽りのない誠意がこもっていた。そのことがかえってジュディを正気付かせ、また怒らせてもいた。

「……親を奪われ、行き場を奪われた子供たちから、更に命まで奪おうとする。そんな理不尽、私は認めないわ!」

 キュニフォルメはため息をついた。心底、悲しそうに。

「あなたがそう答えるであろう事は、質問する前からすでに分かっていました。お互いに守りたいものがあるのですもの、仕方がありませんね」

 広げたクジャクの羽をラバの手で自嘲するようになでたキュニフォルメは、そのさまをジュディに存分に見せつけた。

「どうですか、私のこの身体。目をそむけたくなるほどの醜さでしょう? でもね、守るためには力が必要。私は守りたいものがあるゆえに、このような醜い悪魔となってまで力を手に入れました。あなたには、そこまでの覚悟がありますか?」

 ジュディは、息をのんだ。キュニフォルメの覚悟に、のまれた。

 その反応に女悪魔は満足したように笑うと、手にした双剣を無造作に持ち上げた。陽光に光る切っ先が、恐怖と悔しさに泣き濡れたジュディの頬をとらえようとする瞬間。

「ふうん。覚悟、か。今のお前に必要なのは、死ぬ覚悟よ」

 鳥のような影が施設の壁を乗り越えて宙に跳躍すると、ジュディ達の姿をその目から隠すように女悪魔の前に降り立った。

 翼を思わせる、風にはためくダークブラウンのコート。黒いショートヘアに、猫のように鋭く光る黒い瞳。

 人影はそのままキュニフォルメに右腕を突き出すと、手指を大きく広げた。澄んだ女性の声が、流れるように言霊を紡ぎ出す。

きみ、五元のほむら灯し冥暗を穿うがて!」

 女性の指先のそれぞれに白く輝く光条が発生すると、それらはいったん空中に放射状に放たれた後に急速に加速を始め、意志を持っているかのように収束しながらキュニフォルメに襲い掛かった。

 連続する閃光、わずかに遅れて轟く爆裂音。

 女性の口元がきゅうと笑った形をとると、緊迫した状況であるはずなのに、どこか嬉しそうな響きを含んだ声が漏れ流れてきた。

「……やっぱりノーダメージか。私の通常魔法の中では、最強の一つなんだけれどな」

 爆煙が晴れた中心部には、その言葉通りに肉体的には無傷のキュニフォルメがたたずんでいたが、そのプライドは決して無傷とは言えなかった。じり、と動きかけた女悪魔をそのひとにらみで牽制すると、女性は後方の三人を振り返った。

「ジュディ先生、ご無沙汰してます。マシューとジムは、いい子にしてた?」

 彼女は朗らかに笑うと、挨拶のつもりだろう、肩越しに軽く右手を挙げる。

 魔導士アカデミー最上級学年にして首席、ヒルダのその細い指先からは、ゆらめく陽炎かげろうがいまだに立ちのぼっていた。


「すいません、先生。差し入れのパンを買っていたら、少し遅くなっちゃいました」

 呆然と見上げるジュディに向かって、ヒルダはいたずらっぽく舌を出して笑った。王立大学に現役で合格した後、そこでずっと勉強を続けている、とのヒルダからの報告を信じてそれを誇りにもしていたジュディは、彼女が魔導士であったという事実をすぐには飲み込むことが出来ない。

 治癒師ほどの希少種ではなくても、やはり魔導士も現存するその数は非常に少ない。ジュディも魔導士を実際にその目で見たのは初めてだったが、それがまさか幼少時から寝食を共にしてきたヒルダであったとは、さすがに想像の外であった。

 突然の闖入ちんにゅう者から放たれた魔法の直撃を受けたキュニフォルメは、自分を目の前にして平静を保っているヒルダの不遜ぶりに、それまでの仮面をかなぐり捨てていら立ちをあらわにした。

「……一度の詠唱で五本のマジックミサイルを同時に放つとは、よほど高位の術士。あなた、王室付きの宮廷魔導士でしょう? 泥亀のように鈍重な王国が、まさか我らの動きに気付くとはね」

 ヒルダはキュニフォルメに視線を戻すと、肩をすくめて苦笑した。

「宮廷魔導士か、それって私の就活の第一志望よ。一度もぐりこんでしまえば、国が老後までまるっと面倒みてくれるからね。でもおあいにく様、私ってまだ卒業試験も終わっていない、ただの学生なんだけれど?」

 ちっと舌打ちしたキュニフォルメは、手にした双剣をぶるんと振った。

「ふざけた奴。ネズミはネズミらしく巣穴に隠れてなさい、私たちの邪魔をすると怪我じゃすまないわよ」

 はっ、とヒルダは乾いた嘲笑で返す。

「この私のことをネズミと呼ぶか。しゃーない、一応名乗っとくかな」

 目を細めたヒルダの輪郭が、急速にぶれてゆがんだ。周囲の空間が、収束する魔力の影響で対流を始める。ヒルダはすらりとした右手を悪魔の方へ差し伸べると、自分の真の名を告げた。

「ヒルデガルト・フォーゲル・ストームゲイザーよ。でもまあ、今後二度と会うこともないわけだし、あなたがこの名を覚える必要はないわね」

 キュニフォルメはヒルダを凝視していたが、やがて口にラバの手を当てると、ほほと笑った。

「まさか真名を名乗るとは、どうやら本気で私を消滅させるおつもりのようですね。その意気やよし。ですがヒルデガルトさんとやら、あなたは果たしてその意味を理解していますか? 私を滅ぼせるのは、ほら、そこにいるフリッツ殿のみですよ。もっとも肝心のその彼は、今しばらくは動けそうにもありませんが」

 いまだにうずくまったまま立ち上がれないでいるフリッツを見て、ヒルダは軽く眉根を寄せた。

 なるほど、フリッツという名前の美少年なんてそうそういないとは思っていたけれど、やはり彼が、噂にきく肉体の不死というやつだったのか。しかしそれがまさか、よりによってリョーコと知り合いだったとは。私にとってはやりにくい事この上ないが、彼女の浮かれっぷりを見ればもはやそうも言ってられない、とヒルダは内心で頭を抱えた。

 それにしても彼、がらにもなく押されているように見えるんだけれど、とヒルダはフリッツをいぶかしげに観察する。彼の力についてはいまさら疑うべくもないけれど、それにしては、ちょっとメンタル弱いんじゃない?

 そのような評価を下されたことなど知る由もないフリッツは、ベーカリーで会ったばかりのヒルダとの思いがけない再会に驚きを隠しきれない。しかしすぐに我に返ると、両膝をついたままで警告を発した。

「ヒルダさん! 奴の言っていることは本当です。どんなに強力な魔法であっても、悪魔には効果が……」

 言葉を続けようとしたフリッツの頭部に、ゴーグルの男ランディのかかと落としが電光の速度で振り下ろされた。フリッツはとっさに横転すると、紙一重でそれを避ける。手負いの相手からの反撃を警戒して再び距離をとったランディは、逆立った赤い髪を後方に撫でつけると、余裕の表情でヒルダに呼びかけた。

「そういう事さ、いかした魔導士のお嬢さん。ただの人間が悪魔を倒そうなんてのは、蟻が象を倒すよりも難しいぜ。悪いことは言わない、引っ込んでいてくれ」

 自信に満ちたランディの言葉に、ヒルダは不敵な微笑でこたえた。

「無知って本当に罪だわ。自分たちだけが全てを知っているつもりなんでしょうけれど、あなたたちの知らないことが、この世にはたくさんあるわよ」

 キュニフォルメはあきれたように首を振った。

「はったりなど、何の助けにもなりませんよ。命のやり取りにおいては、力だけが真理。部外者には、何らかの形で退場していただくほかはありません」

「あら、部外者なのはお互い様よ。だから、あなたに先に退場してもらっても問題ないと思うけれど」

「何?」

 ヒルダの言葉の意味を図りかねたキュニフォルメは、その動きが一瞬遅れた。身の安全を確保してから魔法を放つのが常道であるはずの魔導士が、護衛もつけずにたった一人で向かってきていることに対する慢心も、そこには確かに加わっていた。

 ヒルダの黒い瞳が、ぎらりと狂暴に輝く。

「私の弟妹ていまいに怖い思いをさせたお前は、絶対に許さない」

 ヒルダは跳躍すると、瞬時に相手のふところに入り込んだ。キュニフォルメに驚愕が走る。こやつ。魔導士でありながら、速い。

 右の手首をくるりと回転させたヒルダが、悪魔の眼前で呪文の詠唱に入る。

「君、核をほどきて螺旋らせんことわりを断て!」

 無駄なことを、と剣を構えかけたキュニフォルメは、彼女が発した単語の一つに耳を疑った。

 核、だと?

 悪魔へと突き出されたヒルダの右腕が言霊に呼応してまばゆい青に輝くと、周囲の大気から抽出され収斂しゅうれんした魔力が、可聴域をもった振動を生成して物理的な唸りを上げた。悪魔の左の脇腹に、渦巻く光をまとった掌底が打ち込まれた瞬間。

 爆裂、絶叫。

 本来の場所にあった肉塊がはじけた勢いのままに四散して、ぼとぼとと重たい雨のような音を立てながら周囲の地面に落ちていく。直撃を受けた悪魔の胴は半ばちぎれかけ、その傷の辺縁はぐずぐずと泡立っていまだに崩壊を続けていた。

「馬鹿なっ!」

 悪魔になってから初めて味わう肉体の苦痛を感じながら、キュニフォルメは今やはっきりと悟った。自分たち悪魔の天敵がフリッツだけではない、というランディの仮説が、どうやら現実のものとなったらしいことを。

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