第23話 禁じられた学問
あらぬ方向に曲がった自分の左脚を、リョーコは改めて注意深く観察してみた。一番気になるのは骨でも筋肉でもなく、足の指の色だ。血の流れが途絶えて足が壊死してしまえば、元の世界ならば通常は切断するしか方法がなくなる。治癒魔法がどれだけの能力を秘めているのか分からないが、手足を無から完全に再生するというのは相当に難度が高いと考えるべきだろう。
左の母趾をつまんで圧迫し、それを離してみる。白い皮膚にすぐに赤みがさしたのを見て、思わず安どのため息が漏れた。ラッキーだ、少なくとも動脈は切れていない。
リョーコは次に足先に力を入れてみた。わずかながらも上下に動くということは、どうやら神経も生きている。当たり前のことだが、無事な組織は多ければ多いほど治療が簡単になるし、それは治癒魔法であってもきっと変わらないはずだ。
「オーケー、フリッツ君。それじゃあ『鎮痛』お願いできるかな」
「了解です、リョーコさん」
フリッツは目を半ば閉じて集中を始めると、大きく開いたの左すねの傷を中心に、太ももから指先までの広い範囲にかけて手をかざしていく。左脚の全体が白色にぼうっと淡く光ると、呼吸が急に楽になった。痛みに耐えるために緊張し続ける必要がなくなったからだということに気付いて、その意味に驚く。
嘘でしょ。麻酔がかかってるよ、これ。それでも触った感じは残っているし、足だって意思に従ってきちんと動く。「鎮痛」って、知覚神経と運動神経はそのままで、痛覚だけを選択的に
「……どうですか、リョーコさん?」
恐る恐る問いかけるフリッツに、右手でオーケーのサインを送る。
「んん、ばっちりよ。お姉さんびっくり」
フリッツは安心したようにうなずくと、再び傷に目を戻した。
「で、次は『浄化』でしたよね」
「うん。これもやっぱり、傷とその周りを少し広めにお願い」
顎に指を当てたフリッツは、視線を上げて自分の考えを口にした。
「『浄化』って本来は、汚れた飲み水なんかをきれいにするための魔法なんですけれど。それを怪我した場所に応用するってことは、もしかして傷口が腐らないようにするためですか?」
「正解。手や土なんかには、傷を悪くする小さな生物がいてね。カビなんかのもっと小さい奴、って考えてもらってもいいけれど。だからそれが増えて傷を悪くしないように、あらかじめきれいにしておくってわけ。これって覚えておくと、この先お得だよ」
なんでそんなこと知ってるかなあ、やっぱり変ですよリョーコさん、というフリッツのぼやきをことさらに無視して先を急がせる。
「ほらほら、治療に集中。『鎮痛』の次は『浄化』、この流れ、頭に叩き込む!」
リョーコの横顔をいぶかしげに見つめていたフリッツは、リョーコの
「お、鬼教官ですね……了解しました、次『浄化』いきます」
再び両手をかざしたフリッツの魔法は、やはりものの数秒で終了した。
「終わりました、リョーコさん」
無菌状態が視覚や嗅覚などで認識できるはずもないのに、自分の左脚が今までと違って清潔なものに感じられることが、リョーコには可笑しかった。病は気から、というのは案外こういう事だったりするのかもしれない。
「ありがとう、フリッツ君。さあて、ここからが私の腕の見せ所よ」
リョーコは
フリッツが今度こそ驚いた。ただのベーカリーの店員が、こんなことをできるはずがない。
「……リョーコさん。人を治療した経験が、ありますよね?」
「まあ、いろいろ見てきたから。骨折の整復なんかは何度も、ね」
フリッツは疑惑を含んだ目で、目の前の傷とリョーコを交互に見た。
「一度見たら忘れられないから、という理由はあるにしても、どうしてそんなに怪我の治療に詳しいんですか? 王立の治療院に所属している上級治癒師でも、リョーコさんに肩を並べられるような人はいないと思いますけれど」
そりゃあ外傷は専門だったからね、とリョーコはわずかに遠い目をした。
どうして整形外科を選んだのかと言えば、人が一番死にそうにない科だったから。しかしいざ整形外科医になってみれば、それは全くの勘違いで、救急の現場でも病棟でも死は向こうからやってきた。後から考えれば産業医や研究医などという選択肢もあったのだが、臨床の現場から離れた診療科に進むことはなぜか
人を救いたいのに、助けるのが怖い。自分の人生すらままならないのに、他人の人生を担う重さに耐えられない。
じゃあそもそも、なぜ医師など志したのだろう。何度考えてもその答えは出なかった。あるいはもしかすると、自分の弱さに対するコンプレックスの裏返しに過ぎなかったのかもしれない。それはそれで情けない動機だと自己嫌悪が日々心を
それでも今、自分の知識がほんのわずかでもこの世界の役に立つのなら。異世界転生までして生き恥をさらし続けてきたことも、全くの無駄ではなかったという事か。
リョーコは夜空を見上げて冷たい空気を大きく吸い込むと、フリッツの脇腹をどんとつついた。
「ほらほら、のんびりしている暇なんてないわよ。私の脚なんてとっとと済ましちゃって、早くこの子を治療しなくちゃ」
傷口に目を落としたままのフリッツは、言葉を選びながら尋ねた。
「一つ確認させてください。リョーコさんって、本当は治癒師だってことはありませんよね? 何らかの理由でアカデミーから追われて素性を隠しているとか」
「まさか、それだったら自分だけでとっくに治してるわよ。君みたいに治癒魔法なんて使えないわ、私に使えるのは恋の魔法くらいね」
沈黙するフリッツに、ここは笑うところでしょ、と肘で突っ込みを入れる。まあ、自分でもまったく笑えない冗談だとは思っているけれど。そんなものが使えたら、こんなに切ない気持ちにはなっていない。
気を取り直したリョーコは、自分の傷口を指し示しながら説明を再開する。
「与太話はさておきフリッツ君、今見えている二本の骨が脛骨と腓骨。内側の太い方が脛骨で、外側の細い方が腓骨ね。こういう事って、アカデミーではやっぱり習わないの?」
「だから、僕はアカデミーで習った記憶なんてないんですってば。でも、人間の体の中について調べたり学んだりすることは、この国では昔から法としても慣習としても禁止されていますからね。ほとんどの治癒師は、そういうものについては知らないと思いますよ」
それこそがこの世界の大きな疑問点だ、とリョーコは思った。
問題は、なぜそのような政策がとられているのかということだ。つまりこの世界においては、何者かが何らかの意図をもって、治癒魔法の能力を
もっとも考えられるのは、権力者が治癒魔法を独占するため、というものだが、これはリョーコが元いた世界のことを考えればつじつまが合わないようにも思える。考えてみれば、医学は膨大な症例から集められたデータをもとに発展してきた。言葉から受ける印象は悪いが、医学の進歩には常に人体での臨床実験が必要であったわけだ。そうであれば、権力者が治癒魔法の進歩を望むならば、臣民に対して手当たり次第に魔法による実験を行って、実践的な知識を蓄積していくのが手っ取り早い。情報を公開しない結果として、未成熟なままの治癒魔法を独占しても、それは本末転倒というものである。
となると、もう一つ考えられるのは。治癒魔法それ自体が大変危険なものであり、禁忌の技能であると認識された場合だ。しかしこれもどうだろうか、とリョーコは首をひねらざるを得ない。人を治療する技術の何が危険だというのだろう。転生前の私の世界で例えるならば医学を禁止するという事になるが、そんなばかげたことが受け入れられるとは到底思えない。
やっぱりわからないなあ、この世界の医療事情だけは。リョーコは軽く頭を振ると、まとまらない考えをいったん保留した。
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