第21話 先延ばしの行方
夜の街路に静けさが戻った。思い出したように湧いてきた虫の声だけが、そこかしこから響いてくる。
リョーコは両肘で体を支えながら、倒れている銀髪の少女の元へと這い進んだ。途中で首を曲げ、真っ向から両断したばかりの悪魔をちらりと見やる。その身体は切断面から泡立ちながらみるみるうちに崩壊を拡げ、やがて石畳の隙間に吸い込まれ消えていくと、後にはわずかなしみだけが路上に残されていた。
急に吐き気が込み上げる。斬った。私、命を終わらせた。ナイルとかいう最初の奴の時には、フリッツ君に倒されてざまあみろ、みたいなことを思っていたけれど、それは自分の手を汚していない者の無知ゆえの
リョーコは地面に向けて唸り声を上げると、口中にたまった血液を吐き出した。割り切れ。私にだって譲れないものがある、黙って殺されるわけにはいかない。奴の正義も、いや私のそれだって今はどうでもいい。私がしたいことは悪魔を倒すことなんかじゃない、あの子を助けること、ただそれだけ。異世界転生したって私は医師なんだ、自分で選んだ私の仕事なんだから。
顎を上げ、再び前だけを見る。夜空に顔を向けた少女は、銀髪を地面に広げたまま身動き一つしない。切られたのは目だけなのか、それとも。視界が汗と涙でにじんでぼやける。もう、誰にも死んでほしくない。
肺と左脚から流れる血液量に比例して、四肢から少しずつ力が失われていく。一度ならず地面に突っ伏し、そのたびに起き上がってはにじり寄っていくのだが、それももう限界に近い。右頬の傷に泥が入り込んで、じくじくとしみるその痛みだけが、リョーコの意識を現実につなぎとめていた。
届いて、もう少しだから。
リョーコの肘がずるりと滑り、地面で顔面を強打しそうになったその時、誰かが背後から彼女の身体を強く支えた。服の上からでも伝わる、柔らかな手のぬくもり。振り向かなくてもその持ち主が分かる、そしてそれは続けて耳に届いてきた声で確信に変わった。
「戦っちゃだめだって……言ったじゃないですか」
来てくれてありがとう、私うれしいよ。リョーコは地面を向いたまま、あははと笑った。
「年上なんだもん、恰好つけさせてくれたっていいじゃない?」
後ろから彼女を抱いたままのフリッツは、安堵とも
「僕が三百歳だって話したこと、もう忘れたんですか? リョーコさんは年上じゃありません」
「もう、またそれ? しつこい冗談は嫌われるよ」
「だから僕、リョーコさんに嘘はついてませんってば。まあ、年齢なんてどうでもいいっちゃいいですが」
続いて聞こえてくる背後の声が、わずかに沈んだ。
「不死、なんですよ。吸血鬼じゃなくったって、ね」
言葉のうちに冗談では済まされないものを感じ取って、リョーコは息をのんだ。最初に出会った時に私が発した不死という言葉に対する、彼の嫌悪の表情。死にたがっているというその時の私の印象は、的外れなものではなかったのか。
しかし、そもそも不死などあり得るのだろうか、とリョーコは疑問に思う。魔法の存在こそあれど、転生した先のこの世界のすべての事象はやはり一定の法則に従っていて、それは科学を魔法という概念で置き換えれば元の世界と全く違いはなかった。
だが不死についてはどう考えても、科学でも魔法でもそれらの
だから彼が言うところの不死とは、単なる比喩的な表現なのだろう、とリョーコは自分を納得させた。本当の不死ではなくても、老化を遅らせるような手段がいくらかあって、それが三百年という驚くべき寿命を可能にしているのかもしれない。私がいた元の世界でも医学の進歩でアンチエイジングは進み、平均寿命は少しずつ延びてきたのだ。この世界でも同じことが起きていないとは限らない。
そんな楽観的な想像に紛らわせて、リョーコはフリッツの言葉に対する追及を先延ばしにしてしまった。あるいはそれは、自分と彼とをより引き離してしまうような真実を知ることに
ゆっくりと振り向いて座りこむと、心配そうに見つめるフリッツを見上げる。もう関わるな、なんて言われちゃったけれど、それは無理な相談だよ。さっき君と別れてから三十分とたっていないのに、もう我慢できなかったんだから。
はは、とリョーコは憂いを笑いで紛らわせた。
「年齢なんてどうでもいい、か。君のいう通りだよ、どちらが年上でも年下でも年の差婚には変わりないしね」
いつものリョーコ節が戻ったことにやれやれと胸をなでおろしたフリッツは、コートのポケットから布を取り出すと、泥と血に汚れた彼女の頬をぬぐい始めた。
「何、くだらないこと言ってるんですか。一度キスしただけで結婚を迫られるなんて、こんなに恐ろしいことはないですよ」
「それは勝手にキスした君の自業自得じゃない。責任の取り方ってやつ、どうやら教えてあげなきゃいけないみたいね」
「参ったな、親切心で記憶を消してあげようとしたのが
「え、まだ続ける気なの。誰よ、歯に魔法を付与しようなんて考えたのは」
再会できた嬉しさのあまりについ無駄話をしてしまったが、そんな場合ではもちろんない、と真顔に戻る。
「そんな事よりも、フリッツ君。あそこの、ほら、女の子」
リョーコが指さした方向を見て、フリッツも表情を改めた。仰向けに横たわった銀髪の少女は、血にまみれた無残な顔を夜空にさらしたままである。
「いけない。あの子、目を怪我してますね」
「うん。申し訳ないけれど、ここまで運んでくれないかな」
「それは、リョーコさんが自分で確認すれば早い…」
一段低くなったリョーコの声に違和感を感じたフリッツは、ぎょっとしたように彼女の左脚を見つめた。
「その傷。リョーコさん、歩けないんですか」
リョーコは少し怒ったように、厳しい口調で言った。
「こんなの別に大したことないから、早くあの子のところへ行ってあげて」
フリッツはためらいながらもうなずくと、銀髪の少女の元へと駆け寄った。視線を走らせて状態を手早く確認すると、揺らさないように抱き上げてゆっくりと戻ってくる。リョーコの横にそっと少女を横たえたフリッツは、浮かない表情で眉を曇らせた。
「気絶していますが、命に別状はなさそうです。ただ……目については僕には何とも」
困惑しているフリッツに、ありがとう、と小声で言うと、リョーコは少女の身体に触れ始めた。
「脈拍問題なし、動脈もしっかり触れる。頭、腹部、手、足、オーケー。確かに、目以外には大きな外傷はないみたいね」
そういってリョーコは、フリッツから借りた布で少女のまぶたを注意深くぬぐった。
「……まずいわね。ざっと見た感じ、かなり深く切られてる。角膜までは確実に達しているし、ひょっとしたら、網膜とか視神経まで」
リョーコがつぶやく単語の羅列に、フリッツははじかれた様に隣を見た。食い入るように横顔を見つめるその瞳が漆黒から暗赤色へと変化したことに、少女の観察に気をとられているリョーコは気が付かない。
奥歯を強く噛み締め、両の拳を強く握りしめたフリッツは、やがてそれらをふっと緩めると力なく首を横に振った。深い黒に戻った瞳を横たわった少女に向けながら、リョーコに気取られないように静かに息を吐く。彼もまた、何かを先延ばしにしたかのように。
そのようなフリッツの変化を知る由もないリョーコは、目の前の危機に対して懸命に頭を巡らせていた。新しい布を少女の目に当てて傷を覆っても、すぐに赤い染みがじんわりとにじみ出して徐々に広がって行く。少女の浅い呼吸とは対照的に焦りと動揺が入り混じった自分の深い呼吸を、リョーコは必死に抑えた。
冗談じゃない。こんな小さな子から、この先ずっと光が奪われるなんて。
何か方法があるはずだ、何か。
やがて決意に瞳を強く輝かせると、リョーコは顔を上げた。
「フリッツ君、治癒師だよね?」
傷ついた少女の傍らには、臆病な女医はもういなかった。
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