第14話 くちづけの理由
「それじゃ乾杯しますか、リョーコさん」
レモンソーダのグラスを目の前に掲げたフリッツに、リョーコがいたずらっぽく首をかしげた。
「それはいいけれど。何に乾杯するの?」
確かに、とフリッツは視線を宙にさまよわせたが、やがてぱちんと指を鳴らした。
「そうですね。さしずめ、悪魔と戦って生き残った健闘を祝して、ってところでどうですか」
「……そうか。生き残ったことをお祝いできる気分なんだね、いまの君は」
ふつりと黙った目の前の少年に、リョーコは少しばつが悪そうに笑った。
「あの時の君って、なんか楽しそうじゃなかったから。見当違いだったらごめんね」
眉をひそめたフリッツの表情は、リョーコの言葉が当たらずとも遠からずという事を物語っている。
「リョーコさん、人を観察することに慣れてますね。ベーカリーの受付って、そういうことが必要な職業なのかな?」
はは、とリョーコはあいまいに笑った。確かに医師という仕事にはそういうところがあるが、別にそれとは関係なく、ただ単に私が人の顔色を
「まあ、お互いにあまり根掘り葉掘りは聞かない方がいいのかな? 私だって、そこそこ訳ありだしね」
「なるほど、情報交換会らしくなってきましたね」
小さく笑いあうと、二人はグラスを掲げた。
「それじゃあフリッツ君、乾杯しようか。美味しいものを食べられる、今のこの瞬間にさ」
「確かにそっちのほうが楽しくていいですね。それじゃ、乾杯」
カチリ、と澄んだ音が響いた。
やがて運ばれてきた食事に、二人はしばらく夢中になる。うわあこれ初めてなんて魚、いやこっちの方も食べてみてくださいよ、などとにぎやかに料理をつつき合う。
「こんなお店に誘ってくれてグッジョブだよ、フリッツ君。この国って島だからさ、
「何をいまさら。リョーコさんって、他の国の人?」
「おっと誘導尋問か、そうはいかないわよ。ミステリアスな部分を残しておいた方が、君に早く飽きられずに済みそうだしね」
「僕、そんなに悪い奴に見えますかね……」
やがて食事がひと段落して落ち着いたところで、リョーコはようやく今夜の本題を思い出した。改めて咳ばらいを一つすると、身を乗り出して話を切り出す。
「さーてと、フリッツ君。いろいろと聞きたいことはあるんだけれど」
フリッツは身構えるように、少し姿勢を正した。
「どれからいきましょう? 僕が、リョーコさんが言うところの、いわゆる吸血鬼だってことですか?」
「それもあるけれど。……どうして私にキスしたの?」
ずるり、と滑ったフリッツが、呆れたようにため息をつく。
「……初めの質問が、そんなことですか」
リョーコが、がたんと椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「そんなこと、って何よ! 私のファーストキスだったのよ!」
何事かとリョーコの方を振り返った客たちは、周囲を
目の前のフリッツも、さすがに驚愕を隠しきれない。
「え? あれって初めてだったんですか? だってあの時、処女じゃないって」
うん、私。
そんなことも、言いましたね。
二人の間に沈黙が流れた。
「しょ、処女じゃなくったって、キスしたことがないかもしれないじゃない!」
「そんなレアケース、聞いたこともない……」
こめかみを押さえるフリッツに、リョーコは顔を真っ赤にしながら尋ねた。
「と、とにかく。あれは何だったのよ?」
フリッツはリョーコから視線を逸らすと、窓越しに街の夜景を見ながらぼそりとつぶやいた。
「リョーコさんの記憶を、消去しようとしたんですよ」
「え。記憶」
ここでも記憶か、とリョーコはそこに何か偶然ではないものを感じた。前世の記憶を保持したまま異世界に転生し、一度経験したことを忘れることが出来ないように改変された自分。アダプテーションDNAと記憶継承型サルベージャーRNA。
「何よそれ、キスしたら記憶を消せるの?」
「僕は相手を咬むことで、直前の短時間のものに限られますが、記憶を消去することができるんですよ。リョーコさんにあの場での出来事を忘れてもらいたかったから」
「ちょっと待って。それって、生まれつきの君の能力? 吸血鬼にそんな能力があるなんて、聞いたことがないんだけれど」
「ああ、それはそうです。これは僕の歯にかけられた付与魔法の効果ですから。だから言ってるじゃないですか、僕は吸血鬼なんかじゃありませんって。もちろん血を吸っているわけでもなんでもないですよ」
合理的な説明だ、とリョーコは思った。考えてみれば、魔法がある世界だから吸血鬼なんかもいるだろう、などというのは勝手な連想であって、先日
「そうか、魔法だったのか。でもさ、人の記憶を消す魔法を自分の歯に付与しているなんて、それじゃ忘れて欲しいような悪いことを相手にするって前提じゃない。言葉は悪いけれど犯罪者の発想じゃないの、それ」
フリッツは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「まあ、誰にも覚えていて欲しくないのは確かですがね。僕、敵も多いですし。証拠隠滅、と言われれば反論できませんが」
彼、敵が多いのか。悪魔を退治しているのだから、それは良いことをしているんじゃないのか。確かに大っぴらにすることははばかられるにしても。
「自分の歯に、ってのも変わってるわね。付与魔法って、普通は剣や指輪みたいなアイテムにかけるものでしょ?」
「アイテムにかけると、なくしちゃう可能性があるじゃないですか。実際それで僕も今困っているし……」
「なに、魔法の道具をなくしちゃったの? どこで」
「それを覚えていたら苦労しませんよ」
リョーコは思わずくすりと笑ってしまった。フリッツの
「ふうん、君って結構忘れっぽいんだね。私と代わってほしい位だわ」
「え、何です?」
「何でもない。そうか、じゃあ君が私にキスをしたのは
そこまで言って、ようやくリョーコはあることに気付いた。
「それじゃあ、アンナちゃんを咬んだのは」
「そうですよ。あの子の記憶こそ、消去しておいたほうがいいと思って。悪魔に襲われた記憶なんて、それこそ悪夢でしかありませんからね。首筋に残る咬み傷も、僕なら治癒魔法で消すことができますし」
そうか、フリッツ君は治癒師でもあったんだ。私の左腕の傷がすっかり治っていたのも、気を失った後で彼が治癒魔法で治してくれたのに違いない。軽い調子のフリッツの笑顔に、リョーコは自分の警戒心が急速にしぼんでいくのを感じた。なるほど、これは確かに誤解だわ。心の奥に闇は抱えているのだろうけれど、倫理観は私とそう遠く離れてはいない。
「そっか。フリッツ君、優しいんだね」
今度はフリッツの方が顔を赤くする番だった。
「よしてくださいよ、なんか不気味なんですけれど。リョーコさん、
「詐欺師だったら、騙してます、なんて自分から言わないでしょ。ほら、照れない照れない……」
組んだ両手に顎を乗せてにこにことフリッツを眺めていたリョーコは、不意に真顔になった。
「ちょっと待って。じゃあ何でアンナちゃんは首筋で、私の時は唇だったのよ!」
豹変したリョーコの怒声に慌てたフリッツは、何事かと厨房から顔を出したブルーノに愛想笑いを返すと、声を潜めて言った。
「ちょっと、声が大きいです。……だってあの時のリョーコさん、首筋を両手で覆って完全に隠してたじゃないですか」
「じゃあ、胸だとか太ももだとか、もっと別の場所を咬めば……」
がたり、と椅子ごと下がるフリッツ。これまで冷静沈着で通して来た彼も、この時ばかりは明らかに
「それって、唇よりもっと問題じゃないですか。変わった人だとは思っていましたが、ここまでとんでもないことを言い出すとは……」
「何ですって!?」
「それよりもリョーコさん、僕に咬まれても記憶が消えなかったですよね。この間のベーカリーではまさかと思いましたよ。そんなこと、今まで一度もありませんでしたから」
探るようなフリッツの視線を感じながら、リョーコはその原因について考えてみた。私が魔法に耐性がある? しかしそれなら、直後に意識を失ったのはどう考えればよいのだろう。アンナちゃんも同様に意識を失っていたところを見ると、記憶を消去するという付与魔法は、一度はきちんと発動したのではないか。そうであれば、一度記憶を失った後にまた取り戻した、という可能性は無いのか。わからない、改変されたという自分の記憶についてのメカニズムが明らかにならない限りは。
リョーコは小さくため息をつくと、窓越しに夜の街路を眺めながらぼんやりとつぶやいた。
「フリッツ君。私ね、何かを忘れることができないんだ」
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