第15話 記憶の功罪

 リョーコのその言葉を理解するのに、フリッツはしばらく時間を要したようだった。居住まいを正すと、ためらいがちに切り出す。

「忘れることができないって、生まれてからずっと?」

「物心ついてから、ずっと」

「そんなまさか。今まで経験してきた出来事を、全部忘れずに覚えているということですか? 一度読んだ本の内容も、人との何気ない会話も、毎日の天気も、すべて?」

 リョーコはただ、こくりとうなずいた。


 挨拶をスキップしたニュース番組のように、涼子の最初の記憶は優し気な女性の声で突然に始まっていた。

「あなたはこれから、叔母様と一緒に暮らすのよ」

 そして目隠しを取られた彼女の前には、母の妹だと称する中年の女性の笑顔。しかしリョーコはその女性も、それどころか自分の父も母も思い出せなかった。黙って立ち尽くしている涼子を抱きしめながら、叔母と名乗った女性は涙ながらに語った。

「あなたのご両親、二人とも火事で亡くなったの。涼子も危うく炎に巻かれるところだったんだもの、記憶をなくすのも無理ないわ」

 そう、なんだ。何も覚えていない涼子は、言われたことを正しい記憶として受け入れるしかなかった。

「もう大丈夫だから」

 その叔母の言葉に何の感情も湧きあがってこない自分に、涼子は戸惑った。こういうときって、悲しいとか苦しいとか寂しいとか、そんなことを思わなければいけないんじゃないだろうか。空気を読んで涙を流してみせた彼女のその反応に、叔母は大層満足したようだった。

 そうして可能な限り人との交渉を避け、自分の部屋にこもり続けながら。病院の屋上から突き飛ばされるまでの一切の記憶を抱えて、リョーコはこの世界に転生してきたのだった。


 皿の上のマリネをフォークでつつきながら、ぽつりぽつりと話し続ける。

「私はそれ、ただの病気だと思っていたんだけれど。記憶を失うことができないように改変されたんだって、変な奴に言われてね」

 フリッツがぴくりと体を震わせた。

「……改変。誰が言ったんですか、そんなこと」

 体を固くしたフリッツの真っ青な顔色を見て、リョーコの手が思わず止まる。

 あのいけ好かないグラムロックの男の言葉が、頭の中をよぎる。遺伝子をいじられている、だから改変というのがふさわしいかと。

 リョーコは転生して間もなく、自分が今いるこの世界の科学技術が、元の世界のそれよりもかなり劣っていることに気付いた。その理由は明らかで、やはり魔法というものが科学の代替として存在しているからだろう。高度な科学は魔法と区別がつかない、とはよく言ったものであるが、逆もまた真なりで、原理がどうであろうと同じ結果が得られれば多くの人々にとってはどちらでも構わないという事でもある。飛行機が魔法で飛んでいても、乗客は誰も困らないという理屈だ。

 一方、医療に関する知識や技術についてもこの世界はやはり遅れていると言わざるを得なかったが、こちらについては治癒魔法の発展のためだとは必ずしも言えない節があった。むしろこの世界での治癒魔法は、浅い傷を治したり熱を少し下げたりといった応急処置程度の役割しか持たない、極論すれば日常生活にはさして影響を与えない大道芸といった扱いに甘んじている。

 サミーという少年が悪魔に心臓を刺された際も、彼の母親こそ治癒魔法に蘇生などという希望を抱いていたが、実際には蘇生どころか骨折すらも治すことができないことを人々は知っていた。自警団員がフリッツに一応の敬意を払っていたのも、聖職者に対するそれと同じように名誉職に対する扱いでしかない。その存在が明らかになってまだ五十年足らずと歴史が浅いという事情はあるにしても、人々の治癒魔法に対する無関心さについては、何かしら作為的なものすら感じさせた。

 医療技術も治癒魔法も共に未発達な、人の生死に直結する治療という重大事に関して奇妙に冷淡でアンバランスな世界。医師であったリョーコは、そこに大きな疑問を持ち続けていた。

 そんな世界で生きているのだから、まさかフリッツ君が遺伝子なんてことを知っているとは思えない。それなのにどうして彼は、改変という言葉にこんなにも敏感に反応するのだろう。

 リョーコの探るような視線を感じたのだろう、フリッツはすぐに表情を消すと、あいまいな微笑を浮かべた。

「えっと、すいません。忘れることが出来ないなんて、あまりに突拍子もない話だったので。でも、もしよかったら、リョーコさんにその話をしたという人のことを僕に詳しく教えては頂けませんか?」

 問われたリョーコは、歯切れが悪くならざるを得ない。

「ごめん、ほとんどわかんない。そいつの話が本当かどうかも怪しい」

 あのグラムロックの男、見た目からして怪しいを通り越して奇抜そのものだったし、存在自体も全く得体が知れない。そんな奴の荒唐こうとう無稽むけいな与太話など、到底鵜呑みにするわけにはいかない。嘘かもしれないなどと自ら語っていたが、ブラフにはまって疑心暗鬼に陥ることこそ、奴の思うつぼだ。

「まあ、あまり気にしないで。たちの悪い夢だったんじゃないか、と今でも思っているくらいだから」

 フリッツは小さくうなずくと、明るく笑った。

「いえ、ちょっと気になっただけですから。ごめんなさい、話がそれてしまって。それで結局、僕が咬んでもリョーコさんの記憶が消去されなかったっていうのは」

 リョーコはわずかに顔を赤らめると、そっと唇に指をあててみた。とっくに咬み傷は治っているはずなのに、ちくりとした痛みがいまだに残っているような気がする。傷が癒えても刺激という記憶を忘れられないのは、この場合ちょっと役得かもしれないな、などと不道徳な考えがリョーコの頭の中をちらりとかすめる。

「まあ、そういう体質だったってことだよね。もっとも君のキス、私に気を失わせる程度の効果はあったみたいだけれど」

 背もたれに身体を預けると、天井を見上げる。

「まったく、なんでこんな体なんだろうな。私もアンナちゃんみたいに、あの悪魔のことなんて忘れちゃえばよかったのにね」

 吐息とともに自嘲がこぼれる。元の世界でもこの世界でも、数えきれないくらい繰り返してきた笑いだった。本当、つまらない思い出ばかり増えて馬鹿みたい。笑いすぎて、涙が出ちゃう。

 黙ってリョーコの顔を見つめていたフリッツは、組んだ両手をテーブルについて頭を下げた。

「ごめんなさい、リョーコさん。嫌なこと聞いてしまって」

「え?」

「……今までずっと、苦しい思いをしてきたんでしょう? それなのに僕、無神経にリョーコさんの傷に触れるような真似をして」

 わ。なんで、フリッツ君が謝るのよ。

 慌てたリョーコは、広げた手を目の前でぶんぶんと振った。

「ああ、いいのよ全然、気にしなくて。そ、それにね、悪いことばかりじゃないのよ。私ね、今まで勉強して来たことなんかすべて記憶してるんだから。私の筆記試験の成績を知ったら、フリッツ君驚くわよ」

 リョーコは頬を薄く染めてそっぽを向くと、聞こえるか聞こえないかという小さな声で、ぼそりとつぶやいた。

「それに。この前の事忘れちゃってたら、こうしてフリッツ君と会うこともできなかったわけだし」

 耳ざとく聞きつけたフリッツの顔が輝いたのを横目で見て、リョーコは再びため息をつく。その笑顔はずるいよ、この厄介な自分の体質に初めて感謝しちゃいそう。

 リョーコは咳ばらいを一つすると、精一杯の威厳を取りつくろう。

「と、とにかく。これに懲りたら、今後一切キスをしようなんて思わないでよね。君のことを忘れさせようったって、そうはいかないから」

 フリッツは両手を上げて、降参のジェスチャーをした。

「そうですね。リョーコさんの記憶を消去するのは、現状あきらめた方がよさそうだ」

 ふん、とリョーコはうなずくと、すっかり炭酸の抜けたレモンソーダを一息に飲み干した。

 よし。これで、キスについての疑問はようやく解決、と。

 もっとも、ファーストキスを奪われた件に関しては、決して納得したわけではないのだが。

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