第9話 グラマラス・マン

 顎の先から汗が滴り落ちる。もう三十分以上も左胸を押し続けているのに、心電図の波形はただ機械的な圧を示すのみで電気信号は拾えておらず、手を止めればすぐに平坦に戻ってしまう。

「平野先生、高木さんのご家族が来られました」

「……ごめん、心マ変わってもらっていいかな」

 黙ってうなずく看護師に背を向けると、涼子は鉛のように重い足を説明室へと向けた。

「お待たせしました、主治医の平……」

「一体どうなっているんですか!?」

 扉を開けるなり、患者の親族から恫喝どうかつするような声が飛んでくる。涼子は深呼吸をすると、彼らに着席を促した。

「お電話でも少しお伝えしたと思いますが、急変の原因については、はっきりとわかっていません。今も心臓マッサージは続けていますが、これ以上はご本人を苦しませることにしかならないと思います。残念ですが……」

「わからない、ですみますか? ただ骨折の手術を受けただけで、もうすぐ退院だねって、昨日までは私たちとも携帯で元気そうに話していたのに。病院の管理に何か問題があったんじゃないですか?」

 眼鏡をかけた神経質そうな男が涼子の説明をさえぎると、あらかじめ用意していたように責めの言葉を並べたてる。患者の長男だと看護師からは聞いていた。

「いえ、特にそのようなことは。ただ、高木さんには狭心症の持病がありましたので、あるいは」

 男の声のトーンが一段上がった。

「患者のせいだって言うんですか! だいたい、あなたみたいな若い女性が主治医だって聞いた時点で、私たちには不安しかなかったんですよ。もう結構です、話にならない。院長を呼んでください、場合によってはカルテ開示や法的措置を検討させてもらいますから」

 こうなってしまっては、もはや冷静な話し合いは不可能だ。涼子は顔をこわばらせながら、マニュアル通りの対応を試みる。

「なにぶん深夜ですので、上司には明日の朝に報告した上で、また改めて」

 男の隣に座っていた肥満した中年女がいきなり立ち上がると、涼子に人差し指を突き付けながらわめいた。患者の娘なのか、それとも長男の嫁なのか。

「何言ってんのよ、人ひとり死なせておいて! 今すぐ謝って。ほら、床に手をついて謝りなさいよ!」

 「わ、私は……」

 唇をわななかせた涼子は、膝を震わせながら立ち上がると――


 リョーコは小さく叫び声をあげると、寝台の上に慌てて身を起こした。サイドテーブルに置いてある魔法仕掛けの常夜灯が、やわらかなオレンジ色の光で部屋の中を淡く照らしている。秋の夜はしんしんと冷えているにもかかわらず、肌着は汗ですっかり濡れていた。額に手を当てたリョーコは眼を閉じてうつむくと、長いため息を吐き出す。

 また、昔の夢だ。でも私の夢は夢じゃない、すべてが過去に経験してきた事実だ。物心ついた時からの記憶を、私は消し去ることができない。

 リョーコは試しに、五年前に買い物をしたときのレシートの内容を思い出そうとしてみる。九月二十四日、十六時五十三分。ルーズリーフ二百十五円、ボールペンの替え芯百九十八円、税込みで総計が……それらを全て覚えていたことがおぞましく思えて、リョーコは肩をぶるっと震わせた。

 そして往々にして、楽しかったことよりも嫌なことや辛かった出来事のほうが、はるかに記憶には残るものである。そんな心が削られるような一言一句を細大漏らさず、リョーコはどうしても忘れることができない。

 半年前のあの日のことだってそうだ。大学病院の屋上から落下した私は、眼前に迫るコンクリートのくすんだしみに至るまで、そのすべてを鮮明に覚えている。きっと同僚たちは、引きこもりがちだった私が、精神を患って飛び下りたのだと思っているに違いない。しかし私は、直前に私の背中を押した誰かの手の感触もまた、決して忘れてはいない。

 そして何より、最大の問題は。

 私、死んだのに。記憶がリセットされていない。

 静まり返った部屋の中で、リョーコは独り自嘲した。そりゃあそうよね、違う世界に転生したって自分でわかっているんだから。記憶を引き継いでいなければ、そんなことが認識できるはずもない。

 リョーコは毛布を引き寄せながら何気なく室内を見回して、一点でぎくりと視線を止めた。部屋の片隅に、誰かが立っている。

 ラメが入った水色のスーツにトリコロールカラーの派手なネクタイを締めた、針金人形のようにスリムな人物だった。人、としか言えないのは、男女の判別がつかなかったからだ。

 男装の麗人、あるいは女装した美男。青いアイシャドウと長いまつげ、灯りを反射して輝くターコイズブルーの神秘的な瞳。暗い部屋に浮かび上がるおしろいをぬった顔、赤い口紅をひいた唇。逆立った金色の短髪。

 リョーコはその奇妙な風体を見て、古いアーカイブで見たことのあるミュージシャンを連想した。

 あれ、なんていうんだっけ。グラムロック?

 その人物は、リョーコが目覚めるのを待っていたかのように口を開いた。

「寝室にうかがった失礼はご容赦を。何分、お悩みのようでしたので」

 声色は、男性だ。壁にもたれて腕を組んでいるその男を、リョーコは注意深く観察しながら尋ねた。

「高級そうなスーツね、オーダーメイドかしら? 私が知る限り、この世界にはスーツは存在していないと思うんだけど。それを着ているってことは、あなたは私が以前いた世界から来たってことでオーケー?」

 男性はそのルックスにふさわしく、低く歌うように答えた。

「どうでしょうか。そうかもしれませんし、多少位相がずれた別世界かもしれませんね」

 ふん、とリョーコは鼻を鳴らした。こいつ、すっとぼけちゃって。

「いずれにしても、この世界の住人じゃないわよね。あなたも私と同じ、異世界転生者なの?」

 男は薄く笑った。

「いえ、それは違います。私は転生者ではなく、転移者ですので」

 答えを出しているようで謎を増やす、詐欺さぎ師の手口だとリョーコは冷ややかな目で男を眺めた。まあしかし、こいつはどうやら私とは立場の全く異なる人間らしい。もっとも、人間かどうかもわかったものではないが。

「……それで。こんな夜中に下着姿の女性の寝室に入ってくるなんて、さぞかし重要な用件なんでしょうね?」

 男は人差し指を額に当てると、流し目でリョーコを見た。

「重要かどうかはともかく、喫緊きっきんの課題であるのは間違いないと思います。先ほどお話ししたとおり、あなたのお悩みについても」

「私の悩み? たくさんありすぎて、どれのことやら。そうねえ、ひとつ恋の悩みってやつを相談してもいいかしら?」

 リョーコの皮肉に、男はすまし顔で答える。

「そういうたぐいのものについては、ご自分で解決していただくほかはありませんがね。私がアドバイスして差し上げられるのは、ほら、先ほどの夢の件」


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