第5話
ああもう、夢心地ってか最高の夢だった~!
だってえ、陛下の顔があんなに近い位置にあるなんて、どう考えても疲れ過ぎたあたしの幻覚とか妄想とか白昼夢だったでしょ。
え? 蜃気楼? あたしの煮え滾る情熱が起こした可能性は大よ。
それにしてもワイバーンってば、どうしてこんな王都中心くんだりにまで?
まさかあれまで夢なわけはないだろうけど中々にあり得ないケースでしょ。まあでも、大丈夫かな。
だって大体二年後に始まる小説本編じゃ王都はまだ平和で、闇落ち聖女の影響で魔物が跋扈していてもそれは初めのうちはまだ外国とか王都から離れた地方での話だった。例えば先日のカナール地方みたいなね。
そこから徐々に世界を混乱に陥れながら王都の方へと侵食してくるって内容なんだけど、だからこそ大丈夫って思う。それまではワイバーン出現なんて一文字も出てこない。
それに、仮にまた出たとしても王宮の兵士達は粒揃いだから安心よ。今回のワイバーン襲撃は不意討ちだったから人質取られて後手に回ったけど、逆に教訓にもなったろうから同じ轍は踏まないと思う。
あ、もしや語られていないこの出来事があったからこそ対魔物のあれこれが強化されて本編の始まりの王都は平穏だったのかも。
それにしても強いっていいわよね。
だって前世を思い出してから薄々思っていたけど、治癒はともかくワイバーン一匹を苦しめる程度でへばる聖女ってぶっちゃけ聖女じゃなくない?
あたしが前世で楽しんできた創作物の聖女達はもっとこう強力な、それこそラスボス級の魔物を消しちゃえるような破格な力を有していたのに。それと比べるとあたしの力ってちゃちいわ~。
役に立たない訳じゃないけどスタミナもそんなにないし、ホントただ治癒力が抜きん出てるってだけじゃない。本音を言えば超余裕でもっと一度に沢山の人を治癒できたり、ワイバーンくらいなら軽く片手で一捻りできるような力があったら良かったのにって思う。
今まで考えた事なかったけど、レベル上げみたいに聖女能力の底上げってできないの?
能力アップアイテムがあったりしないの?
前世のあたしもそこの設定は見た事なかったけど、見た事がないからって方法が無いと考えるのは早計だ。
小説本編にこの世界の全てが書かれていたわけじゃない。設定集にもね。
この世界にはどこのパン屋が美味しいとか定食屋が人気とか、実際にここで生きてみてしかわからない真実がてんこ盛り。だから可能性は皆無じゃない。後で教会の誰かに訊いてみよう。
まあその前にはまず目を覚まさないといけないけどね。
何だか無性にお腹が減ってるんだもの。沢山頑張ったからだとは思うけど寝すぎて餓死なんてしたら目も当てられない。さあ胃袋のために起きようあたし。
ごっはっん~! ごっはっん~~!!
「セオ様はおっかっず~~!」
「……は?」
ばちっと両目を見開いて、空腹過ぎの変なテンションのせいか望みを叫んだんだけど、そこはもう、夢じゃなくて現実だった。ああ、夢というトンネルを抜けたら雪国じゃなく雪のように冷たい視線を注がれた。しゅーん。
何故か目の前におわした愛しのセオ様からん。くすーん。
「あ……ふふ、お早うございます」
なんて愛想笑いして誤魔化してみたけど明らかにもう遅い。陛下の目がね、うん。
見事なレース編みや装飾やレリーフなんかを施された高そうなカーテンとか家具とかこの天蓋付きベッドも見覚えがないけど、たったの今まで自分がここで寝ていたのはわかる。
ん、でも、どうしてあたしの推し様ってばこんなもうちょっと起き上がったらちゅっとぶつかりそうな距離にいるの? ベッド脇の椅子に腰かけているとかじゃなく、彼はほんとの本当に目の前にいる。あたしの顔を覗き込んでいたみたいに。
ま、まさか寝込みを襲いたくなったとか!?
「聖女アリエル」
「はははいすいません!」
ふっ、またあたしの奔放な思考回路が熱くなり過ぎたぜ。肩を竦めると、何を言うつもりかは知らないけど陛下からよく不良がやるように顔面をもっと近付けられ凄まれた。
全然怖くないって言うかむしろデンジャラスゾーン突入でしょこれ。間違ったふりしてこのままキスしてもいい?
直後、素早くされど不自然でなく彼はあたしの手の届かない位置まで離れた。
くっ、煩悩駄々漏れの一番の弊害は不意討ちが出来ない点よね。あたしはいそいそとベッドの上で起き上がる。
「そなたは煩悩を自粛する気ゼロだろう」
呆れ目な彼は益々残念そうにこっちを見つめわざとらしい溜息をつく。
「スッキリと起きたようだからこの際手短に言っておく。魔物にダメージを与えられるからと言って、もう二度と単独でワイバーンを相手にするような無謀をやらかすなよ」
「え? ……え?」
只今、あたしが見ているのは何をさせても良しの嫁にしたい男ナンバーワンなセオ様。彼の口から紡がれたものは全部金言になるけども、これはまさかのあたしの心配? いつもどうあたしをあしらうかに重きを置くセオ様が?
「私だって人の心配くらいはする」
あ、不機嫌な声。そうよね、鬼の目にだって涙はあるって言うしね。
「……誰が鬼だって?」
彼はもっと声を低くした。はいごめんなさい。
「あの、ところでここはどこでしょう?」
聖女が運ばれるなら病院か教会じゃないの? こんなめちゃ豪華な部屋はどちらにもないはず。教会は贅沢とか華美を嫌うし、VIP病室だってさすがにここまではないと思う。
「王宮だ」
「王宮ううう!?」
あたしの脳内にぶわわーっと花が咲き乱れた。
ならこれ王宮のベッドってわけ!?
そして目が覚めてすぐにセオ様がいるなんて……この大きな豪華なベッドは絶対に彼のベッドでしょ。で、とうとうあたし達はお早うお休みのキッスを交わす仲になって……って、あれ、でも結婚式が記憶にないけど? 甘い初夜も全く味わってないけど?
はっ、まさかあたし、これは俗に言う二重人格!? だから大事な事を覚えてないの? もう一人のあたしがセオ様との全てのめくるめーくあれこれを経験済みなの?
酷いっ、そんなのズルいーっ!
話したら前世の夫でさえ幼稚にも嫉妬したあたしの「妄想セオ様との甘い夜」を実体験したかったあああーーーーっ!
――急に視界がまた天井にと言うか天蓋に戻った。
へ? はれ? なに?
「誰の話だそれは」
「はい?」
「夫? そなたは故郷で結婚していたのか?」
「え、して、ない……ですけど」
遅ればせ、ベッドに押し倒されていたんだって理解した。
セオ様に。
あたしの顔の横に手を突く彼はいつものように眉間を寄せて見つめ下ろしてくる。
あたしはびっくりして頭が真っ白になって目を丸くした。
「しかし、夫と聞こえたが?」
「えーあはは、前世の、です」
「…………そうか。そなたの驚異の想像力には舌を巻く」
「あ、あー……どうもー」
さっきは雪のような眼差しだったのが液体窒素くらいまで冷えたものになってましたー。うう、ちべたい……。
でも何でどうして? あたしを心配してくれたーって勝手に舞い上がったのが不快だった?
そして、小言以外これと言って用件がなかったらしい彼は、あたしの食事の用意を廊下で待機していたメイドか誰かに命じると、同じく廊下で待機させていたらしいあたしの世話役達を呼び入れて彼らと入れ替わるようにして出ていった。
「私は一体何をやっているんだ……」
廊下で一人立ち止まったセオドアは、片手で顔を隠すように覆って溜息と共に呟いた。
驚き過ぎたのか常の煩悩も出てこなかったらしいアリエルの先の顔を思い出し、彼は我知らず指先を握り込む。
彼女が時々思考に上らせる、前世の夫。
元恋人を表現する独特の言い回しなのか、本当に彼女は前世という概念を信じていてのその中の想像の男なのかはわからない。
どちらであれ、気に食わなかった。
顔を合わせる度にセオ様セオ様と好意を浴びせてくる癖に、他の男を親しんだように思い浮かべ引き合いに出しさえする。
セオドアが名も知らないその男とは何者なのか。
物理的に追い込んで問い詰めるようにするなど、唾棄すべき過剰な反応だとは自覚し反省もしている。だが自分でも意外な行動だったのだ。
目を覚まして良かったと、ワイバーン討伐の件では感謝していると、告げるつもりだったのも結局はできなかった。
「本当にどうかしているな……」
こうも心を乱される彼女の事を考えるのが、案外嫌ではないなどとは。
セオ様はあたしの様子見に来てくれていたみたい。グッドタイミングであたしが目を覚ましちゃったってわけね。でも口付けなしで目覚めちゃうなんて、あたし達ってば白雪姫と王子よりも絆が強いんじゃないの?
前世の記憶を思い出すより前に彼に一目惚れまでしたのがそのいい証拠でしょ。いやん照れる~!
世話役から話を聞けば、あたしは大広場でぶっ倒れてから三日三晩こんこんと眠り続けていたそうなー。お腹も空くわけよねそりゃ!
「ふむふむ、ここは王宮の空いている宮殿の一つで、あたしはここで寝泊まりをする、と」
「そうです。これも聖女様の身の安全を考慮して下さったセオドア陛下の優しさですね」
これからはもう脱走不可脱走不可ですよバンザーイ……って彼の笑顔に書いてある。
彼ってのは、あたし付きの青髪ロン毛の青年神父の事。
基本的に教会でのあたしの世話役はこの男と、着替えとかの身の回りの世話をしてくれるメイドみたいな役回りも兼ねたシスターが二人の計三人。
世話役は十人も二十人もいらないって断固退けたからこうなった。実は護衛としても選りすぐりの三人はあたしに合わせて王宮暮らしをしてくれるんだって。今も皆ベッドの周りに集まってあたしを案じてくれていた。うう、有難い事で……。だけどちょー真面目。脱走の一つや二つ、目を瞑ってくれてもいいじゃない。まあ一つ二つどころじゃないけども。
誰でも自由に礼拝に訪れられる教会と違い警備が超絶厳重な王宮じゃ、勝手にうろつくと職質されかねない。
でも王宮警備兵はあたしの顔を大体皆知っているから、たとえ見つかってもすぐに聖女だってわかる……って即刻身バレで完全詰んでるじゃないのっ。残念ながらもう冗談抜きに脱走はできなくなりそうよ。
見つかるまでひたすら捜し回るとか、あたしからその手の迷惑を被っていた青髪神父はだからすっごく嬉しそうなのよねー。
教会に戻った方がよくない? 自由度高いし……って、ううん自由は減っても陛下がすぐ傍にいるなら耐えられる気もする。兵士を買収して彼の寝室に潜入するのも夢じゃない。彼の枕にスーハーするのも目じゃないっ!
「聖女様、悪い顔になっていますよ」
神父はあたしがまた狂犬の如く脱走を図りかねないと思ってか酷く不安そうにした。
彼の名はイザーク。
因みにシスター達は緑髪がメイで、赤髪がモカ。二人もイザーク同様長髪だ。
三人ともあたしよりも年長者で二十代、あたしが聖女としては少々変わり者だって知っている数少ない人間でもある。聖女指導の三角眼鏡の家庭教師達と違って厳しくないし聖女らしくありませんって怒らない。
当初は一挙に優しい兄と姉ができた気分だったっけ。ま、今じゃ泣きべそ茶飯事なイザークなんて兄には到底思えないけどね。
そうだわ、家族の皆は元気かな。聖女になるにあたって縁を切ったも同然だけど……本当は少しだけでも会いたい。
ここであたしはハッとしてこの思考を打ち切った。
まだ陛下がそこそこ近くにいるんだった。ホームシックだなんて聖女失格って思われかねない。
でもあたし、陛下になら知られてまずい事はほとんどない。
この世界があたしが前世で読んだ小説世界ベースなんだって思考も多分聞こえた事があると思う。
馬鹿げて意味不明な妄想だと思っているのか未だにその話題には触れられた事はないけど、率直に訊いてくれれば正直に答えるのになあ。
三人から説明を聞き終えたあたしは広場での顛末と自分が置かれている状況を飲み込んだ。あの母子は無事。ワイバーンに掴まれた際にやっぱり怪我を負っていたらしいんだけど、それもあたしの魔法で治ったんだって。
「ねえ、教会の皆はあたしがここに引っ越すのを反対しなかったの? 教皇のお爺ちゃんや枢機卿のおじ様達は何と?」
この国じゃあ、聖女の教会での地位は階級トップの教皇よりも上。だから本来は教皇へも畏まらなくていいんだって。まあそうは言われてもおしとやかにしておいた方が何かと便利だから猫被りはやめてない。
「そこは聖女様がご心配なさらずとも、教皇様から見習い達に至るまで、王家の血筋の継承をより重要視していますから」
そう微笑んだのは赤い髪のモカ。
「血筋? どういう事?」
論点がよくわからず小首を傾げたあたしへと彼女は少し困った風にした。他の二人も同様だ。聖女様はピュアですよねなんて呟いていた。あっはっはおかしなのーあたしのどこがピュア? どぼどぼの煩悩まみれなのにね。まあだけど彼らはあたしの煩悩までは知らないもんね。知らないって怖い怖い。
とにもかくにも推しと一つ敷地内のラブラブ新生活が始まるってわけだ。
独り身に沁みる王宮の夜には、あたしがぬくぬく抱き枕になってあげるから待っていて!
げへへへと下卑た笑いを披露したいところだけと、さすがに悪い顔って言うよりキモい顔になるだろうから控えた。……この時陛下が危うく階段を踏み外しそうになっていたなんて当然あたしは微塵も知らない。
「それから、暫くの間は自主的治癒活動もお控え下さいね。まあ脱走ができないのでその心配はしていませんが、元々言い渡されていた休暇期間にしてもまだ残っておりますし、この機会にしっかり体を休めて下さい」
今度は緑髪のメイから注意と労いをもらった。そういえばそうだった。
「ならここで何して過ごせばいいの?」
「何を仰っているんですか、今までと同じですよ」
イザークの言葉に思わず顔をしかめちゃった。
教会にいた間は祈祷、淑女マナーやダンス練習、座学だと聖女の心得や聖女の歴史が記された聖女全書なんかを延々読まされていたからもういい加減お堅い生活に厭き厭きしていたってのに。自然と表情が雲って溜め息が出てくる。
折角王宮にいるのに勿体ない時間の使い方よそれ。
いつ陛下の気が変わって教会に帰れって言われるかわからないんだし、できるだけ彼を見つめて過ごすか教会じゃ出来ない何かをして過ごしたい。
「本音を言えば、教会での日々は唯一の楽しみのお忍び治癒活動があるから我慢していられたのよね。当分は公私共にできないなんて、本気で退屈過ぎて死んじゃうー」
庭の散策にも限界があるし、王宮施設内を見て回るのだってそう。
「聖女様そのような事を仰らないで下さいよ~っ、駄目ですからね死んでは~っ」
「はあ……。今のは単なる言葉のあやでしょ。それくらいにまだまだアウェーなここでは、どうやってモチベーションを保とうか悩み所と言いたかっただけ」
あーあイザークの泣きべそスイッチ入れちゃった。全く心配性なんだから。メイとモカは温ーい目を彼に向けている。彼が一番歳上なのに駄目な子を見る目だ。
「訊ねたい事があったのに、教会に戻れないとなると手紙でも認めた方がいい……?」
「どのような疑問でしょう? 私共でもお答えできる事でしたらお答えしますよ」
緑髪のメイが言って、モカも泣き止んだイザークも頷いた。
別段隠したい内容でもないし、彼らが知っているなら手っ取り早い。
「ええとね、実は聖女能力の向上ってできないかなと思って。できるなら少しでも強くなりたいの」
「「「聖女様……!」」」
やる気を示して拳を作って見せれば、今度はイザークだけじゃなくメイとモカまで涙ぐんだ。この反応は予想外。
「ええと、もしかして禁止事項なの?」
いいえ滅相もない、とモカが頭を振る。
「でしたらどうして泣いてるの。泣かないでモカ、メイ」
イザークは「え、私は?」って孤島に取り残された人みたいな顔をしたけど、いつでも涙がスタンバってる人を慰める面倒はしーない~。
「聖女様のお心に感動してしまいました。メイも同様でしょう」
モカ同様に涙を拭うメイが同意の首肯をする。
「私もですよおっ!」
イザークも必死に沖まで
「ふふ、三人とも大袈裟。ところでできるの?」
苦笑して再度訊ねると、三人は縦に首を振った。
やった、あるんだ!
「それで、それはどんな方法なの?」
すると三人は申し訳なさそうにした。各自互いの顔を見てから代表してイザークが口を開く。
「過去に能力向上に励んだ聖女様がおりまして、向上はしたと聞き及んではおりますが何分古い話ですので、私共も具体的な方法は存じ上げないのです。お役に立てず申し訳ありません」
じゃあ、教皇や枢機卿達に訊いても知らないかもかあ。
と、メイが何か閃いたように顔を上げた。
「ああっそういえばここ王宮には大きな図書館がございます! 近年の聖女関連の書物は基本教会書庫の方が豊富ではありますが、もしかするとそこにない古文書に何か記載があるかもしれません。ここの方が教会よりも古文書の所蔵数は遥かに上ですし、調べる価値はありますよ」
「そっか王宮図書館か、存在を忘れてたわ」
「では聖女様の退屈凌ぎはそこで決まりですねえ!」
最後にイザークが張り切ってそう宣言。
「なら、早速今から行ってみよっか!」
「「「今日はまだ駄目です!」」」
あたしの健康を心配した三人から綺麗に駄目出しをハモられた。
もう大丈夫だからと三人を粘り強く説得した結果、かくしてあたしの調べもの生活は明日から幕が開く予定となりました~。
この後、ちょうど良い頃合いであたしの食事を王宮メイドが運んできて、体調を考慮されて作られたメニューはあたしの胃をそっと包み込むように優しい味のものばかりだった。ぺったんこだったお腹は大満足した。
食後、お行儀悪くもベッドにごろんと横になったあたしはぼんやりと天蓋を眺める。
「そう言えば王宮図書館って、何かあったような……」
思い出しかけたところでノック音がして、メイとモカが就寝準備に必要な一式を運んできた。
あたしが目覚めた時点でもう夜に近かったから、病人食はそのまま夕食になった。だからそれが済んだらあとは身綺麗にして寝るだけ。入浴を希望したあたしのためにお湯のたっぷり張ってあるバスタブの準備もできたみたい。明日からはこの宮殿にある大きな湯殿をご用意させますって言われたけど、まだ温泉気分にはなれないから当分はバスタブでって断った。
そんなやり取りをしているうちに、さっきの思考はどこかに行ってしまった。
その夜、あたしは夢を見た。
真っ黒い闇の中に仄かな金色の光が見える。
見ているとその黄金色の光は、ここに来て、連れ出して、と訴えていた。
それはもしかしたら音声でもなければ人間の言葉でもなかったのかもしれない、だけどあたしはそれの意思を理解できていた。
――今まで窮屈な暗闇の中で何度も何度も何度も何度も叫んだのに、誰にも声は届かなかった。
この身をこんな場所に閉じ込めたあの聖なる女が憎かった。
今では誰も、人間さえも訪れないこの知られずの場所で自分はあとどのくらい生きられるだろう。
もう嫌だ。寂しいのは。
ここに閉じ込められていた長い間ハッキリと意識だけはあったから何度も無理やり冬眠のような眠りにねじ込んでこれまで騙し騙しやってきた。
しかしそろそろ限界だ。心も体も。
炎も剣も跳ね返すどんなに頑丈な鎧で護られていようとも意味がない。
この身が朽ちるのが先か、何かが起きてこの場所が白日の下に晒されるのが先か。
かつてのように燦々とした陽光の下、じんわりした暖かさに包まれて時を待ちながら微睡みたい。大きく背伸びをしようと思える時まで。
切実に、きっと叶わないだろう願いと知りながら、その光はまたそう願った。
けれど、たとえ朽ちるにしても大嫌いな人間にどうにか一矢だけでも報いてやりたいと強く思う。
人間は敵。人間は害悪…………ただ、ここ最近感じる奇妙な気配が妙に意識に引っ掛かって、むくむくと好奇心が育つのを感じていた。不本意にも。何もできないながらも。受け身でいるしかないながらも。
よりにもよって大嫌いなあの力を持っている相手だと言うのに、気になって仕方がなかった。
とうとう頭がイカれたのかもしれない。ならばもういっそ誰でもいいと思った。仲間ではなくても、何者でも。
どうか。
変化を。
そう光は願う。
――夜中、ハッと目を覚ましたあたしは、変な夢って感じながらもわけもなく切なくなった胸を押さえた。だけど何かを考えるより先に眠気が強くなってすぐにまた眠りに落ちた。
わあ~お、これが作中に出てきたあの王宮図書館かあ~。
翌日早朝、あたしは赤髪青髪緑髪の世話役三人と共に大きくて荘厳な王宮図書館の入口で興奮していた。
小説本編で出てくるここは、ヒロイン達が必要あって本を読むシーンが少し描かれる程度だから、詳しくわかる実物は目新しさしかない。
王宮の一画を占めるこの図書館は渡り廊下では他と繋がってはいるけど、独立した建物と言ってよかった。
早い時間のせいなのか、中にいるのはパッと見職員だけ。
奥行きがあり、入口から一番奥の書棚が見えるけど、ミニチュアを見ているくらいに離れている。
各階が高く取られた二階建ての図書館のアーチ天井は所々明かり取りのためにガラス張りになっている。壁にも大きな窓が並んでいるから室内は想像以上に爽やかに明るい。直射日光は本を傷めるからか日の射し込む窓のそばには書棚は置かれていなかった。
入口から奥までは吹き抜けの太い一本通路が通っていて、その両脇に数え切れない書棚が林立して横方向に伸びている。書棚の置き方は二階部分でも同じみたい。
教会の書庫も結構なものだったけど、ここはその比じゃない。
本の数は十倍か二十倍か、ううんそれ以上はあるんじゃない?
教会に置ける図書には制約があるからなんだろうけど、それにしても壮観!
因みに閲覧席は中央通路真ん中に一直線と、二階席は手摺に沿ってズラリと机と椅子が並んでいる。
これはお目当ての本を探すのがとても大変そう。
ふふっ、だけどここには有能な司書達がいるからご安心めされ!
本編でも主人公が本を探す手助けをしていた司書達はあたし達の姿を認めると早速と近寄ってきた。
高い書棚へも台や梯子で上るからだろう、動きやすいように男女問わずパンツルックだし基本エプロンをしているからすぐに司書だってわかる。
彼らとは反対にここまで案内してくれた王宮兵は入口で待機しますって恭しく一礼をして離れていく。
護衛が一人なのは決して聖女の警護を手抜きしているわけじゃなく、基本王宮は警備が強固だから一人で十分ってわけ。
「あ、ええとリンドバーグ卿、時間が掛かるでしょうから通常の仕事に戻って下さい。ここを出る際には改めて誰かを呼びますから」
「そういうわけには参りません。陛下から直々に聖女様の警護と案内を仰せ遣っております故。どうぞこちらの事は気にせずごゆるりと読書をなさって下さい」
実直そうな若い王宮兵リンドバーグは少し微笑んでから扉の横に立ちピンと背筋を伸ばすと、きっちり正面を向いて顔付きを仕事モードの締まったものにした。あれは説得しても動かないタイプね。
生真面目なリンドバーグをモカが甚く感心したようにして見つめる。……乙女な眼差しで。
刈り上げた茶色い髪と茶色い瞳の男らしい顔付きのリンドバーグは逞しいの一言に尽きる。モカは彼みたいな男性が好みなのかあ~。この国じゃ聖女と違ってシスターの結婚前提の恋愛は自由だし、頑張れモカ~!
「来訪の旨は聞き及んでおりました。ようこそ聖女様。どうぞ心置きなく書物と戯れていって下さいませ。私めは司書長を務めさせて頂いておりますノートンと申します」
傍まで来て足を止めた白髪な年配の男性司書ノートンが相好を崩した。ふうん、長って事は彼がここの責任者か。
書物と戯れるってちょっと変わった独特の言い回しは、それだけ本をこよなく愛する人の証なのかもしれない。
「本日は宜しくお願いします、ノートン卿」
「どうかノートン、とお呼び下さい」
「わかりました」
あたしは聖女スマイル全開で一歩を進み出て握手を求めた。
彼は意外そうに青灰色の目を丸くしたけど、少し照れたように握手を返してくれた。きっとここを訪れる貴族はほとんどが偉そうにするだけで握手なんて求めないに違いない。
「あの、実は調べ物があって来たのですが、業務に差し支えなければ協力して頂けませんか?」
「勿論です。ここでは調べられないものはないとまで言われておりますから、ご期待に添えるかと」
「あと、調べ物とは別に沢山読みたいと思っているので図書館の案内も頼めますか?」
「それは光栄ですね。聖女様のような方ならご案内のし甲斐もあると言うものです。とは言えこの広さと通路の多さなので、割と歩きますよ?」
「ふふっ甘い物は別腹と言うのと同じで、読書のための体力は別体力です。ですから張り切って行きましょう。確かここは……地上二階地下三階まであるのでしたよね?」
設定集ではそうなっていたはず。地下は珍しい書物とか禁書が所蔵されているって読んだっけ。どんな感じなのかなあ。ああ今から楽しみ!
「ふむむ、地下三階? あのぅ聖女様、地下は三階ではなく二階部分までとなっております」
「へ? そうなの?」
思わず素で返しちゃって慌てて咳払いで誤魔化した。
でも、あれえー、地下三階じゃなかったっけ?
司書長がそう言うんだしあたしの記憶違いかも。まあ何にせよ有意義な時間を過ごせそう。
そんなわけで、まずは聖女能力アップについてが書かれていそうな本を司書達に探してもらっている間に、あたしは司書長に連れられて内部をぐるりと歩いて回った。さらりと一回りするのだけでも思った以上の時間が掛かっちゃったけど、興味のあるジャンルがどの辺りにあるのかを把握できたから良かった。
地下はやっぱり二階までしかなかった。
地下一階も二階も地上フロアよりも面積は大幅に狭くなっていて、中央通路の幅はそのままだけど、長さは半分かそれ以下。書棚の数に至っては一割くらいしかなかった。
世界に一冊とかの稀少な書物の防犯上の観点から、目が行き届くように狭さが必要だったのかもしれない。そういう書物の絶対数だって多くはないだろうしね。
地上の雑音の届かない地下は静かで、足音がよく響いた。地下二階はより音が冴えた。
自分達以外の足音のしない奇妙なまでの静寂の中をノートンの手短な説明と共に進みながら観察したけど、どこを見ても地下三階に下りる階段も通路も見当たらなかったから本当にあたしの記憶違いだったみたい。
図書室は地下階も魔法でなのか湿度や明るさを調整されていて健康に悪そうなカビ臭さや薄暗さとは無縁だった。本好きには癖になる古い紙のにおいはしたけどね。
その後は、司書の皆が集めてくれていた書物を片っ端から読み漁った。勿論世話役赤青緑にも手伝ってもらったわ。
この日、お目当ての記述に関係するだろうものは数個程見つかった。
命懸けで真実の愛をドーンと貫くと聖女パワーもぐーんと増大するらしいわ。へーえ。
――ってもうしてるじゃないのーっ! 推っっっしのセオ様の御ためなら何だってやるわ!
ったくもう何よ、伝説の聖なる獣と契約するだとか、聖なるアイテムを身に付けるだとか、聖なる液体を飲むだとか、妖精の粉を振り掛けるだとか、そんなベタな内容だったら良かったのに。
それかぁ~、究極の強さは強き肉体からって感じでひたすら熱血に筋トレをしろとか。それだったらモカと一緒にリンドバーグを誘って鍛練したのに、残念。
「ふう、一応は方法はわかったけど、よくわからない方法でもあるわね。……あ」
疲れた声で書物から顔を上げたあたしは、外がすっかり暗くなっているのに気付いた。お付き三人は返答がないなと思えば昼食を挟んだとは言え慣れない長時間読書に疲れてか閲覧机に突っ伏して寝ている。司書達はまだ残って返却図書か何かを手に図書室内を歩き回っていたから幾分ホッとはした。まだ深夜帯じゃあなさそうで良かったー。前世じゃ読書に熱中してふと気付いたら夜中だったなんて日もあったからねー。
だけど、良くない案件が一件。
「リンドバーグ卿を忘れてた……」
あたしは急いで図書室の入口を振り向く。
「……あ、聖女様……そろそろお戻りになられますか……?」
さすがに朝から晩までただ立たされて、鍛えているとは言えさすがに彼も顔色が悪かった。向けられた儚い笑みが痛い。ホンットごめんねリンドバーグ!
「すぐに借りたいの借りちゃうからもう少しだけ待って!」
もう猫被りも忘れて、あたしは手を合わせて頼む込むようにして返事も待たずに席を立った。
早足で静かな図書館を進む。戻す本は司書にお任せだけど、読みたい本はあたし自身で探さないとね。
そんなわけで一人読みたいジャンルのある図書館の奥の方に進んでいたんだけど、ふと、誰かの声が聞こえた。
近くには誰もいない。
「な、に……? 子供のみたいだったけど」
また聞こえてきた。その場で辺りを何度も見回したけど近くには誰の姿もない。
ひーっ夜の図書館での心霊現象なんてお断りーっ。背筋をぞわぞわさせながら誰かいないかと辺りを見回して、少し向こうの通路にたまたま見えた司書の姿に安堵した。あたしは駆け出そうとして、だけど足を止めてしまった。だってどうして無反応なの? あそこにいたって聞こえる声の大きさなのに。
「これってあたしの頭に直接響いてる、とか? もしかして魔法……?」
――誰か、誰か、ここに来て、ここから出して。
声はずっとほとんど同じ言葉を繰り返している。
ここか街中なら世話役とか他の誰かに告げていたと思う。だけどあたしはそうしなかった。気持ちのどこかで王宮の警備はしっかりしていて悪者がいるわけないって思っていたのもある。
それ以上に、声の主の所に早く行ってあげなくちゃって思った。まるで何か見えない手に背中を押されるみたいに足を動かす。
あたしのお節介なのも否定しない。
くすんくすんと可哀想なまでに嗚咽が聞こえて切なくなる。何年も何十年も或いはそれ以上に長く迷子の子供をやっていたらきっとこんな風に泣くんだわって何となくだけど思った。
希望はとうに砕けたのに最後のひと欠片を捨てられない孤独な誰かがそこにはいる。
奇妙だけど、不思議ともう怖いとは感じなかった。
導かれるかのように進むあたしの感覚じゃ声は図書館の地下に行くにつれて強くなっていた。
地下一階、地下二階と下りて行き、ここまで司書の誰にも会わなかったのを特に変だとは思わなかった。
「行き止まりよね」
声は依然聞こえているのに、それ以上どうもできない。
「ねえ、誰か知らないけどどこにいるの? 知ってるなら行き方を教えて! 今からあたしが助けに行くからっ!」
あたしが現在立っているのは地下二階のおよそ真ん中。この階の中央通路。
一度一番奥まで行ってぐるりと一周してみたものの書棚しかなく仕方なくと言うか何となく均等に周りを見渡せるここに戻ってきたの。
声はまだ聞こえていて、焦りだけが募っていく。
もしも怪我をしていたら? 手遅れになったら?
死んじゃったらあたしには延命さえもできないのに。
「ねえっ、本当にどこなの!?」
無意識に体から魔法の力が溢れ出していた。
叫んだあたしの声は多分司書の誰かに聞こえていて、階段を下りてきた人影が怪訝そうに通路に出てきた。
「そのお声は聖女様ですよね……? どうかされたので……――!?」
「あ、え……――っ!?」
あたしもその司書も大きく目を見開いた。
あたしの真下の床が突如光り出し、あっという間に視界を奪う。
ふっと足元がすっぽ抜けた感覚に見舞われた。
「ぬあっ!?」
眩し過ぎて状況を把握できなかった。
聖女様って叫ばれた気がしたけど、それも強い力に引き剥がされるみたいに急激に薄れた。
落ちる落ちる落ちる――って何で落ちてるのーーーー!?
何これあたし死ぬの?
いーーーーやーーーーっっ!!
興奮と未知への恐怖のせいか、ふ、と失神した。
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