第4話

 ワイバーンからの避難は続行中。魔物から離れようと各々の気の向く方向に逃げようとする群衆のごちゃつきで大広場は全然収拾がつかない。ああカオス……。

 魔物に応戦するための兵士達が険しい面持ちで駆けていくけど、人が多過ぎて中々思う通りに進めていないみたい。

 あたしはあたしで何度も見知らぬ人から肩をぶつけられ怒鳴られたりよろけたりしたけど、立ち止まらずに走った。

 セオドア陛下の所へと。


 萌え? 煩悩? それもあるけど、今は使命。


 万一の時に彼を護るのがあたしの究極の存在理由だから。


 自身も逃げもせずこの場の指揮を執るつもりの彼が怪我をした場合、即刻あたしが治して事なきを得る。そのためには傍にいなくちゃならないでしょ。


 それこそが聖女になって大好きな家族と切り離されたあたしの唯一の利益、特権、幸運、幸福。

 彼が導くならきっとこの国は悪くはならない。あたしはそれをサポートしていく。聖女として。


 だからあたしは、アリエル・ベルは、――この世界の元々の筋書きみたいに絶対に「闇落ち聖女」になんてならない。


 そして、その小説の中じゃ推しの容姿端麗セオドア国王陛下は残念ながら主役じゃなくて当て馬的役回りだった。


 ヒロインに惚れて気の毒なくらい一途に全てを差し出す勢いで猛烈にアプローチをかけるけど、見事玉砕する男として書かれている。

 でもまあ失意に沈むだけで死んだりはせず、ヒロインへの想いを胸に生涯独身を貫いて微妙な位置付けだった国を大国にまで押し上げた中興の祖って感じの偉人になるの。因みに跡継ぎは親戚筋から迎えたのよね。


 対するあたしは聖女だけど脇役も脇役で、ヒロインの物語が始まる前に闇落ちして大迷惑をかける問題児。


 ヒロインが遭遇する悪女は他にいるせいか、アリエルは悪女とまでは書かれていなかったけど、聖女なのに魔に魅入られて聖なる力が悪魔の力になって魔物の活動を活発にする原因を作って、しかも行方知れずになるっていうミステリアスな人物として描かれている。そのまま最後まで行方不明のままだしね。


 故に読者からは闇落ち聖女って呼ばれていた。


 ヒロインの使命は闇落ち聖女のせいで不安定になった世界を安定させる事。

 彼女は魔物討伐の戦女神になるの。

 もうね、アリエルは物語のプロローグどころかそこ以前のさらっとした歴史の一部みたいなものだから、彼女がどうして闇落ちしたのかは詳しく書かれていない。だからあたしにも闇落ちの原因はわからない。


 だけど、あたしがあたしとしてアリエルに生まれたからには闇落ちなんてしてやらない。


 けどそうするとヒロインの物語が始まらないかもしれない?


 ふんだ、セオ様を袖にして泣かせたキャラの話なんてあたしが考えてやる必要はないでしょ。魔物が蔓延らないならその方がいいんだしあたしはあたしの生きたい道を歩むでがんす。


 最高の推しキャラのためのきちんとした聖女になってみせる!


 ……もしも、彼がまたヒロインに恋をするなら、今度は成就するよう応援してあげるのもありかもしれない。


 推しには幸せになってもらいたいってのが真のファンってものでしょ。あたしは女主人公と一緒にいる彼の蕩けるように弛んだ顔をとくと眺めて酒の肴にでもするかな。

 ただ誤算だったのは、あたしの煩悩が陛下本人に聞こえるその一点のみ。完璧聖女の仮面があっさりパキリボロボロって剥がれちゃった。理由はあたしにもさっぱりだ。

 小説の内容をよく知るあたしに彼の心の声が聞こえるならまだわかるけど、何故にこっちの恥ずかしい思考が向こうに筒抜けに? 何か意味があるの?


 考えても答えなんて出ないから現実に意識を戻すと、ワイバーン達はもう大広場上空にホバリングしていた。


 あはは思ったよりもお早い到着でー。正直もう少し避難が進んでいてほしかった。

 今はまだ小説本編が始まる前だし、あたしにもこの場がどうなるのかは読めない。

 確実なのは、セオ様は死なない。だって彼は本編が始まって健康体そのもので登場するもの。カッコ良くね! だから実はそれ程心配はしてないの。

 でも、無名の庶民や兵士にどの程度の被害が出るのかは心配だわ。


 あたしはもう読者じゃない。


 この世界も空想じゃない。


 あたしはこの世界の誰もを慈しむ、尊い尊い聖女様。


「総員一気に攻撃を放て!」


 陛下の号令で攻撃魔法と普通攻撃の武器たるボーガンの矢が一斉に放たれる。初撃で五体いるワイバーンのうちの三体が地に墜とされた。巨体が広場の石畳に落下して大きく激しい衝突音を複数上げる。塵と砕けた石畳とワイバーンの鱗が舞う。幸い真下には誰もいなかったから良かったけど、兵士の中には少しズレていたら危なかった人はいたし、砕け飛び散った物体で怪我をした人もちらほら出ていた。多少無謀だと言わざるを得ない。市街地の魔物は早期討伐が鉄則とは言え、犠牲者が出かねない戦い方は見ていてとてもハラハラだ。


「でも、残り二匹」


 墜ちた個体には既に兵士が集中して息の根を止めに掛かっている。

 あたしはチラチラと戦闘状況に視線を向けながらバルコニーの下方へとひた走る。陛下はあたしに気を向けてはいないはず。だって思考がそれどころじゃないでしょ。

 あたしもあたしで、この戦闘で彼に何事もなければこっそり教会に帰るだけだしね。まあ、負傷者が聖女の魔法じゃないと命が危ないなら話は別だけど。


 と、バルコニーを見上げていたあたしの耳に一際大きく甲高い悲鳴が届いた。


 尋常じゃないからこそ出てくる類いの声にハッとして振り返れば、急降下したらしいワイバーンの一体が逃げ遅れていた若い女性をその鋭く太い爪のある脚で掴んで浮上するところだった。


 連れ帰って食べるつもりなんだわ。悲鳴はあの女性のものなんだろうけど腰回りを掴まれた彼女はワイバーンの握力のせいか急にぐったりした。内臓が傷付いたのか血も吐いた。

 魔物への恐怖からか大広場は皆が固唾を呑むようにして急激に静まり返った。

 そのお陰でワイバーンの下方から小さな子供がお母さんと必死に叫ぶ声が聞こえてくる。あたしは状況を知りたくて目についた既に無人の出店の荷物によじ登った。現場では小さな男の子が女性へと両手を伸ばして泣き叫んでいる。女性があの子の母親なのは疑いようもない。それにあの場から動かないままじゃあの子だって危ない。

 兵士達はもう一体を集中攻撃。人質に当たりかねないから件のワイバーンへの攻撃をできないみたい。気持ちはわかる。だけどこのままじゃ連れ去られちゃうわ。


 素早く荷物から下りたあたしはバルコニーとは反対方向に爪先を向けていた。


 せめて、即席で彼女の治癒だけでもできたらいい。

 それか、あたしが治癒魔法を連続する間に彼女の怪我のリスクを無視してワイバーンを狙わせるって荒い方法もある。これならたとえ攻撃が当たっても瞬時に治るから怪我はない。

 でも、あの子にはトラウマになるかもしれない。命の危険はないとは言え、集中砲火に晒される母親の姿なんて地獄絵図でしょ。


 どうしようって迷いはすぐに消えた。基本、聖女の能力は荒事に向かない。


 だけど、裏技がある。


 小説の中じゃ語られていない裏技が。


 前世で読んだ説定集の中にあったものだ。かくなる上はその方法を試すべき。

 思案の最中にも、四体目のワイバーンが地上に墜落し兵士達によって討伐された。

 それにしても、この大広場は冗談抜きに広過ぎっ! 辿り着かないーっ。どんだけ面積あるのーーーーっ!


 最早フードが頭から外れるのも構わずに、息も切れ切れになりながらあたしは最後の戦闘場所にひた走る。


 ふわりと舞う銀髪に、周囲からの視線が集まる。


 アリエルとしてのあたしの生まれた地方じゃ銀髪は珍しくないけど、この都会じゃレアなんだってここに来て知った。だから、あたしと面識がなくても銀髪を晒せばあたしが聖女かもしれないって考える人は多いと思う。視線達が追ってくる。面識のある兵士達なんかは早々と気が付いたようで聖女様って驚く声が聞こえてくる。


「皆そこのワイバーンから離れて! その子も退避させて!」


 ようやく男の子の人相がわかる距離まで近付いたあたしの声に、あたしが聖女だと認識した人々から従うようにして動き出す。


 周囲に同じ言葉を叫びながらあたしは人の流れとは逆方向に走り抜け、ワイバーンの近くにいた兵士が例の子供を抱えて避難するのとすれ違い、終には最もワイバーンに近い位置に立った。


 あたしの正体はまるで波紋のように知られていって、最前線の兵士達は声すら忘れたように注目している。

 そんなあたしの意識はワイバーンと女性の微動に集中していた。

 ワイバーンは仲間がやられたせいなのか、手に獲物があるにもかかわらず飛び去ろうとはしない。気が立っているんだろうけど、それでもあたしを怪訝そうに見下ろしている。


 逃げないなら都合がいい。聖女の聖なる治癒魔法は何も病や傷を癒すだけじゃない。


 これまで公式には誰もやってみなかったから知られていないけど、――魔物にとっては害になる。


 つまり、攻撃魔法と同じってわけ。ふふん、ドヤー。


 ……ただ、魔法威力は最大にしないといけないけども。


「全力疾走と同じだから、精々もって一分いくかなあ」


 ここまでも広~~~い広場を走ってきたから体力は消耗しているし、回復薬の一つも持参していない。持っている人を探して融通してもらって飲んでいる暇もない。


「あなた達は彼女を受け止める準備をして!」


 きっとあたしがどうしてこんな台詞を口にしているのかわからないよね。だけど魔法兵士達は構えを取った。

 彼らは有能だから後を任せるのに心配はしていない。

 彼らがセオドア陛下だけじゃなくあたしの指示出しに従ってくれるのは、やっぱり聖女だからだろう。

 そう言えば陛下は突然出しゃばったあたしに注意も邪魔もしてこないけど、今どうしてるの? まだバルコニーにいるの? ま、気になるけど気にするのは後。今のあたしの仕事はこっち。


「覚悟しなさいワイバーン! このあたしが月に……いやいや、偉大なるセオドア陛下に代わってお仕置きよ!」


 気合いの声を張ってワイバーンの真下に滑り込むと両手を石畳に突くようにして全力を魔法構築に注ぐ。

 石の地面にワイバーンをすっぽり範囲内に収める大きな白い魔法陣が浮かび上がって強烈な光を上空へと放つ。普段の治癒仕事でも実は魔法陣が出るけどそれは掌サイズに収まるくらいで、大抵は手に隠れて見えなかったりするし、魔法もここまで強烈なものじゃない。


 因みにこれを出したのって陛下を助けたあの初対面時以来だわ。


 聖なる白い光を浴びたワイバーンは瞬間的にギャッと鳴いて苦しそうに醜い悲鳴を継続させた。バサバサ飛んで魔法の範囲外に逃げようとしたけど、へへーんお生憎様、あたしが魔法を行使している間は魔法陣の影響下からは出られないよーん。

 なんて余裕ぶっこいている場合じゃない。くっ、キツイ、まだ女性を放さないなんて食べ物に貪欲で頑固な個体だねあんた!

 あたしはワイバーンが全身を苛む痛みに耐えかねてさっさと女性を放すのを待っていた。なのに十秒三十秒と経っても解放する気配はない。

 一方、これは治癒魔法だから女性がどこかに怪我をしていても完治しているはずで、彼女のコンディションは心配していない。


「いいっ加減彼女を放しなさいよーっ!」


 これはもう根比べだ。あたしの体力が尽きるかワイバーンが女性を放り出すかの。

 きっともうそろそろ一分?

 全力疾走と同じ疲労を体が負担しているから、心臓が破裂しそうに苦しい。走り込みをして鍛えているアスリートじゃないからもうくたくたよ。日頃からもっと鍛えておけばよかった。でも諦めるわけにはいかない。根性論は好きじゃないけどここでは根性出さないと。


 兵士達は聖女の力の意外な効能にさぞかしびっくりしているだろう。


 それはさておき、あたしは奥歯を噛み締め力を放出し続ける。


 もう何よこのワイバーンってば、早く降参してよ! ねえ!

 もしかするともう二分は過ぎた?

 まだ降参しないの!? 体感時間がとーっても長い。兵士達も民衆もあたしの邪魔をしないようにと黙って見ている。

 呼吸が乱れて浅く速くなり心拍数は尋常じゃない。自分でも倒れないのが不思議だった。も、もう三分経った? 視界が霞んできた。あーどうしよ、このままじゃ助けられない。


 こんな事ならいざという時の槍投げでも何でも習得しておくんだった。少しは敵の体力を殺げたかもしれないのに。


 ええいとっとと放しやがれ! このくそボケ女好き(※女性は中々の美人ママ)ワイバーンがあああ!


「うっ……くっ……うぅ……ふううううううウウウーーッ!」


 振り絞るように渾身からの聖女パワーを込めた。

 白光が増す。魔物にとっては苦痛が激増のはずだ。


 結界とも言えるあたしの魔法領域内を目茶苦茶に飛び回って暴れていたワイバーンがついに一層高い悲鳴を上げ、同時に女性が空中に放り出される。


「受け止めてえっ!」


 精鋭の集う王宮の兵士達はここでへまなんてしない。ワイバーンオンリーになれば攻撃を躊躇だってしないだろう。

 あたしは安堵感を滲ませて両手を地面に突いたままの姿勢からふらりと傾いだ。強烈な睡魔に呑まれるみたいに意識が遠のく。力を使い果たしたせいね。


 くすん、顔面から無様に突っ込みそ…………――う?


 あれ? 痛くない。兵士の誰かがあたしの様子に気を配ってくれていて公然での顔面強打からの鼻血ブー聖女はさすがに同情するってんで支えてくれた、とか?


 疑問符一杯で、だけど疲労困憊で瞼さえ重くて開けられないでいると、ペチペチベチベチってその心優しき誰かにほっぺを叩かれて結構痛い。


 これが雪山ならおい寝るな死ぬぞーって救命の意図だからわかるけど、疲れてる人間をベチンベチンってやって無理矢理叩き起こすこの刺激はほっぺたにも心にも全然優しくない。ちょっともしもし半端なく痛いんですけどおっ!?


「おい、目を開けろ! しっかりするんだ聖女アリエル! 聖女アリエル! ――アリエル!」


 うん? でもこの声って……。


「セオ、さ……ま?」


 頑張って薄ら目を開けるとそこには世界一の殿方の尊いお顔がありました。


 彼に抱えられている。

 これは一体全体どうしたってのよねえ。ああーんキュンと、ううんギューンとくるぅ~っ。

 どうしてバルコニーじゃなく危険なこの場にいるのって疑問もあったけど、何より、そう何より思ったのはこれ、――もう思い残す事はなし……ぐふっ。






 聖女アリエルは就任一年足らずだというのに何やかんやとやらかし過ぎる娘だった、セオドア的に。

 蒼白な顔色で意識を手放そうとする彼女の様に、死んでしまうのではと危惧したセオドアは咄嗟に意識を手放すなと頬を叩いたのだが……。


「…………全く平気そうだな」


 アリエルはがくっとご臨終かのように意識を手放したものの、成仏しそうな煩悩の声が彼の脳裏にはそよ風のように響いて流れていった。

 よく見れば規則正しく呼吸もしている。


「これは……」


 寝ているのでは、とセオドアは半ば確信を抱いたが、周囲は「聖女様!?」と動転した。すぐさまセオドアが軍医を呼んで診させたが「脈も正常ですし休息の必要はありますが大事はございません」との事。つまりは、見立て通り寝ていたというわけだ。


「陛下も一時は必死に聖女様の頬を叩いて案じていらしたが、あの落ち着きよう、指導者が取り乱してはならないと自らを律しておられるのだろう。何とお心の強い方だ!」


 落ち着きを取り戻すというよりは人の心配を返せとばかりに腹立たしげに呆れたセオドアを、周りにいた臣下達はさすがは若くして王座に君臨しただけはある男だと感心した。

 勝手にセオドアの君主としての株が上がっている。

 しれっとした彼の表情が感情を読みにくいせいもあるが、何故か彼が聖女アリエルと関わると物事は悪い方にはいかないのだ。……彼の胸中とは裏腹に。

 地面に寝かせたアリエルの状態をまだ少し確認していたベテランの軍医がセオドアを見上げた。


「ですが陛下、今回は幸運にも大事には至らなかった、と申しておきましょう。今はただ疲労困憊して眠りに落ちているようですが、それでは済まないケースも起こり得るのだと、念頭に置いておかれませ。聖女様にはくれぐれもあまり無理をさせませんよう」

「ああ、わかった」


 軍医は過去の聖女の悔やまれる事例を仄めかしているのだ。

 聖女も人間で、過剰な力の使用は命取り。セオドアもそれは知っている。聖女の正式な活動を教会側で調整しその上で国王の承認制にしているのはそのためだ。

 それなのにこの煩悩聖女は言う事を聞かずによく独断で行動する。人を治したいという善意はわかるが、自分の立場や魔法多用のリスクをよくよく考えてほしいものだと彼は彼女が脱走したと聞かされる度に苦々しく思っていた。

 この国は聖女を喪うわけにはいかないのだ。

 大体にして聖女ともあろう者が人目を盗んで教会を脱走するなど言語道断。今日が初犯ではないのも頭の痛い話だ。彼女は絶対この先も同じ事をやらかすだろう。そして無茶をする。


(どうにかしなければ、な)


「それと聖女様ですが、今夜か三日後か、いつ目覚めるかは断言できません。近日中にとしか」


 セオドアは畏まる軍医の話に再度わかったと頷くと、駆け寄ってくる足音へと目を向けた。


「聖女様あ~! やあっと見つけましたあ聖女様ああぁ~!」


 そんな呼び掛けと泣きべそと共に猛ダッシュしてくるのは教会の聖職者やその見習いが纏う法衣姿の青年だ。


 丈の長い法衣に合わせたわけではないだろうが青色をした髪の毛も長い。結んでいないそれは女性かと見間違えるようなサラサラヘアーだ。

 密かにバルコニーからきっちりセオドアに付き従い警護していた兵士達も彼の服装から制止すべきか悩んだようだがとりあえずは抜き身の剣を交差させて進行を阻んだ。


「ひぃええぇ~っ」


 青年から悲鳴が上がる。大の大人の泣きべそ度合いもぐんとアップした。セオドアはハア、と溜め息をついた。


「通してやれ」


 万一刺客でも、セオドアは剣を携行しているので自身の身は護れる。日頃警護の兵士を彼が指導もするので実は彼らよりも腕が立ちもする。護衛を置くのは王宮の制度なのと年がら年中気を張っていたくないからだ。

 法衣の若者は抑揚のない割にはよく響くセオドアの声にも怯えるようにした。彼はセオドアより歳上だ。教会で聖女の身の回りの世話をする者の一人でセオドアも顔を知っている。時に聖女の護衛も兼ねる青年だが、土台そうは見えない。セオドアは教会は人手不足なのだろうかと危ぶんだ。


(この神父、相変わらず普段は頼りない様子だな)


 いざという時には強力な水系の魔法を使って聖女を護るらしいが、セオドアもその姿はまだ見たためしがないし、想像もできない。


(全く、付き人がこれだから簡単に逃げられるんだ)


 青年神父はアリエルのすぐ傍に丸まって意識のない彼女に取り縋った。


「うわああーんまた何バカやったんですか聖女様あ~っ」


 こんなになってええ~っと人目を憚らずに喚く青年にセオドアはやれやれと嘆息すると早いところ教会に連れ帰れとアリエルを託そうとして、しかし開きかけたその口を閉じた。

 聖女が無理をしないように目を光らせる良い手を一つ思い付いたのだ。


(さすがに躊躇いはある。しかしこの際聖女の身の安全の方が優先されるべきか……)


 それは確かに良い手だが、セオドアにとって気乗りしない手でもある。彼は三秒のうちに酷く迷い葛藤し、とうとう決断した。


「聖女を王宮に運べ。彼女はこれより王宮で生活させる」


 神父は勿論だが、周囲も驚いたように目を丸くした。


 波乱の即位前と即位後の公務に忙殺される日々のせいと、彼自身の性格のせいで女っ気のなかったセオドアが、ついについにつ・い・に・女性を囲うのか、と誰もが内心で歓喜したのだ。


 その相手が聖女なら大いに喜ばしい。


 国民に崇められる歴代の聖女達のおかげで、彼女達と婚姻を結んできたこの国の王家は基盤を強くしてきたと言っても過言ではない。既に王宮の一部の臣下が聖女ウェルカムと画策していたのをより捗らせるだろう。


(そこを考えると頭痛がする。だがしかし、聖女を監視するなら王宮が最も適している。国のためにも、私が当分煩悩声を我慢すればいいだけだ)


 慣れに慣れてしまえば舞踏会の時のBGMのように気にならなくなるかもしれない。とは言え果たして耐えられるのか甚だ疑問ではある。

 それでも未だに不安なく磐石とは言い切れない彼の国王としての基盤をより安定させるためにも、魔物との戦いで後手に回らないためにも、更には内憂が過ぎればそこを突いてこの国を獲ろうと虎視眈々と狙う周辺国の野心を完全に挫くためにも、聖女の存在は欠かせないのだ。

 望むなら王宮で聖女の世話をしてもいいと青髪神父には告げた。彼はセオドアの提案を飲んだが、一度教会に報告に戻ると急いで馬車に乗り込んだ。その彼が王宮に戻ってくるのと共に他の世話役達も来るだろう。その点も見越して事前に許可はした。


 聖女アリエルには王宮内の空いている宮殿で寝起きしてもらうつもりだ。過去に姫や妃が暮らした場所で現在の主はいないが、建物が傷まないよう手入れや掃除はさせていたのでいつでも利用できる状態なのだ。


 国王命令に従って担架に聖女を乗せて運んでいく兵士達を何となく見送りながら、まだこの場に留まり事態の収拾をつける必要のあるセオドアは広場での騒ぎを振り返る。


 彼にはアリエルの煩悩声がバルコニーに出るかなり前から聞こえていた。


 故に彼女は間違いなく大広場にいると把握していた。


(あんな自由人過ぎる聖女は歴代でも珍しいだろ)


 出会ってから心の声が聞こえてくるまでも多少個性的な娘だとは感じていたが想像以上だった。


「心の声、か……」


 先の演説前のセオドアも、控え室の椅子に凭れて同じ言葉を呟いたものだった。その時の彼は眉間を揉んで嘆息さえ落とした。


『――心の声、か……。よくもまあ尽きないな。あんな煩悩の権化はどこだろうとそうそう育つものじゃない。彼女はかなり変わっている』


 そんな聖女から色濃い興味と好意を寄せられている。悩むなという方が無理だろう。

 彼は広場で食べ歩きをしているらしきアリエルの心の声にげんなりしたが何とか堪え、演説原稿の最終確認などを続けた。


 前世や夫など、アリエルの思考にはスルーしていいものか悩む内容もあったが、彼はなるべく自分の仕事に集中した。


 演説中はアリエルの煩悩にちょいちょい凍り付きながらも問題なく終わるかに思われた。


 しかし、ワイバーンが現れた。


 彼はアリエルのおかげで出現の少し前に異常を知り、まさかこの王都の中心部にと半信半疑ながらもまもなく自らの剣士としての研ぎ澄まされた感覚でも同じ結論を得た。

 この点では彼女に感謝かもしれない。薄くでも心構えができたからだ。だから冷静さを欠く事なくいられた。あらかじめ会場の警備のために揃えていた人員が彼ら自身も大きく取り乱さず、即座の命令に呼応してくれたのも大きい。日頃の訓練の賜だろう。

 こうなるとワイバーン討伐は揺るぎない。


 しかし、予想外が起こった。


 女性が餌として連れ去られるかもしれないという危機的状況を言っているのではない。


 聖女が、自ら進んで戦闘に加わった。


 セオドアの目に眩しい程の白い光が高く上がったのが見え、そのいつになく強い聖なる光はワイバーンをも包み込み、途端ワイバーンは苦しむように暴れ出した。


『まさか、効いている!?』


 あの白光は紛れもなく聖女の魔法だ。


 彼は指示出しにも有利だった見晴らしの良いバルコニーから咄嗟に身を翻していた。何かを深く考えての行動ではなかった。


 衝動的。


 石畳を蹴って走りながら、どうして急いでいるのか焦っているのか明確な理由を考えないまま、愚か者馬鹿者とアリエルを胸中でなじった。この時は自らの強い思考に忙しく、アリエルの思考は意識に入ってこなかった。


 聖女の光が続いている間、どうしたわけかワイバーンは光の範囲外には出られないようでもある。


(一体何が起きている?)


 駆けながら訝しむ。

 その時まで誰も、セオドアも、知らなかったのだから仕方がない。


 聖女の治癒魔法は魔物への攻撃になるのだとは。


 アリエルの繊細な銀髪が魔法と苦しむワイバーンの翼が起こす風に煽られて乱れ狂う。

 その間から覗くのは決然と見開かれた鮮やかな一対のエメラルド色。


 あれがいつも人前では猫被りな煩悩聖女と同一人物なのかと疑いすら抱いた。


 戦場を勇ましく駆け巡る戦士と表現するのがまさに相応しい顔つきだった。

 しかしこの、ここまでの力の放出は自殺行為。


『駄目だ、アリエル』


 眩しさに目を細めていた彼が半分無意識に呟いた刹那、女性は解放され宙に放り出されたが、即座のアリエルの指示で近くにいた兵士達が難なく受け止めた。

 駆け付けて一部始終を目撃していたセオドアが、周囲の大半の人間同様に呆然として眺めているしかできなかった間の展開だった。


 まだ半月も経っていない先日、派遣先で無理をして疲れた様子で帰還したアリエルと対面した時を彼は思い出す。


 とてももやもやしてこの場と同じく感じた苛立ち、あれは案じる心から生まれたものだ。

 女性は助かり、兵士に保護されていた小さな子供が無事だった女性に縋り付いてわんわんと泣いた。


 アリエルの願い通り。


 初めてアリエルの故郷で出逢った時は、彼女は泣きそうな必死な顔で治癒を願ってくれてそれが叶った。


 文字通り彼女の願い通り。


 セオドアは改めて聖女と言う存在の神秘を感じずにはいられない。


 すると、彼女の体がふっと傾いだ。


『アリエル……!』


 爆発的な瞬発力で地を蹴って石畳ギリギリで抱き止めて、ここで気を失うなと急かされるような気持ちで意識を戻そうと試みた。……レディの頬を些か必死に叩き過ぎたかもしれない。


 しかし、らしくなく何故か必死に懸命になってしまったのだ。


 ――そんな風に思い返しつつ視界の中で小さくなる担架を見据えながら、セオドアは複雑な感情を抱いていた。


 間違いなくこの件は語り草になる。

 聖女アリエルの評判はこれまで以上に鰻登りだろう。


 見る目も変わる。おそらくはその価値と、そして彼女の使い道も。


 彼女自身にもそれなりの戦闘能力があると知られたからには、これまでは病院での治癒のように後方での救護には参加させても魔物の大群と直接戦うような戦場最前線への派遣は論外だった彼女を、そこに配置する提案などが王国軍内部から上がる可能性も出てくる。


 ワイバーンは熟練の兵士達が複数でかかってようやく倒せるような強力な魔物だったせいか先の白光ではジリジリ体力を削られはしても消滅しなかったが、王都守備でも地方守備でも大半の兵士達が相手にするより小さく低級な魔物相手なら、あれで死滅していたに違いない。

 現在の戦力としては決して百人力とまではいかないが、有効活用はできる。鍛え方次第では更に有用になるだろう。

 とは言えセオドアには聖女を危険に晒す気はない。


(あんなのでも、失うわけにはいかないこの国の大事な聖女様だ。大体、聖女って肩書きを引いたら単なる欲求不満のエロ娘だしな)


 しかし、少し見方が変わったかもしれない。


 先の凛とした姿もまた、彼女の本当なのだろう。


「不可解な女だな」


 何も言わずセオドアに付き従っていた護衛兵士が怪訝な顔をしたが、セオドアは王宮の規定によって兵士達がワイバーンの骸を運び出すための準備を始めている様子を尻目に颯爽とその他に必要な指示をして回った。広場はまだ混乱が治まってはいないのだ。無事だった母子は念のためにと軽傷の兵士と共に軍医に診せるように言ってある。


 アリエルの昏倒中は煩悩声に苛まれる面倒はない。


「……静かで幸いじゃないか」


 そう自らの心に強いるように呟いた。

 それでも、思考の片隅ではどうしてか、元気な姿で迷惑を掛けられている方が気が楽かもしれないと思ってもいた。

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