第2話
陛下と会う予定のこの日、あたしは聖女のお仕事をしていた。彼と会うのはその後だ。
王宮の敷地に隣接した王国軍病院の一室で、あたしは患者の腫れて膿んだ傷口に両手を翳す。
その動作で揺れた長い銀髪がさらりと肩口を滑った。
この場の医者も患者も見舞い客も、そう広くはない室内にいる誰も彼もが固唾を呑むようにしてじっとあたしアリエル・ベルの手元を見つめている。
あたしは白銀の睫毛をやや伏せて、その下のエメラルド色の瞳を真剣なものにして、薄く開いた薄紅の唇から深呼吸をするのですら慎重なものにする。
するとどうだろう、あたしの手から優しい白い光が生まれて傷口を覆うと傷はみるみるうちに快癒した。
傍目にも傷がなくなって、ベッドを囲む者達から「おおおっ」とどよめくような感動と驚愕の声が上がった。
「終わりましたけど、具合はどうですか?」
「おおっ、すっかり痛くなくなりました! ほらもうこの通りです!」
控えめに訊ねると、足に重傷を負っていて医者からもう自力では立てないと診断されていたはずの王国兵がベッドを降り、その足で立ち強く数回床を踏みしめてみせた。その嬉しさ満点の笑顔は青い顔で痛みを堪えていたついさっきまでとは全く異なり、頬には赤みが差し溌剌ささえ滲ませる。
「ありがとうございます! これでまた魔物と戦えます!」
彼は魔物からこの王国を護る兵士で、それが彼の生き甲斐でもあった。しかし脚を負傷し軍医から戦闘はもう無理だろうと診断され生き甲斐を失い、失意に沈む彼を案じた仲間達が陳情嘆願して幸運にも決まった今回のあたしの――聖女の来訪だった。
聖女と呼ばれるだけあってあたしはほとんどあらゆる怪我や病をたちどころに治してしまえる。
「さすがは聖女アリエル様だ!」
「聖女アリエル様ありがとうございます!」
「聖女様がおられればこの国は安泰です!」
わあわあと、ベッド周辺からだけではなく奇跡をその目で見ようと集った者達からも沢山の称賛と感謝が上がった。
「それではわたくしはこれで」
あたしは護衛を引き連れて部屋を出る。皆笑顔で見送ってくれた。
どんな怪我でも相手が生きていれば治せてしまえると言うとんでもなく強力で便利な才能は、まさに天からのギフトなのだと人々は囁く。
だからこそ、アリエル・ベルは聖女と呼ばれ称えられている。
ただ、あたしの意思では治す相手を決められない。
基本、聖女の力は国王の管理下に置かれているからね。
教会が推挙し、更には国王からの承認を得た者でなければ聖女の治癒は受けられないって決まりなの。
病める者達を片っ端から治していては切りがなく、癒し魔法を使うあたしの体力にも限りがある。うん、事実身を削る聖女仕事は結構疲れる。
その昔、人々を救いたいとの善意から力を使い過ぎて死んでしまった聖女がいたのでそうなったんだとか。聖女なのに過労死とか笑えない。
加えて、聖女は百年に一人現れるかどうかと言われている逸材中の逸材。国としても簡単には失えない事情があったりするみたい。
この国に聖女はあたしただ一人。
マンパワーは言うまでもなく限られる。
故にあたしが今使った破格な治癒魔法たる「聖女の奇跡」は誰でも受けられるものじゃない。
例外は国王のみ。
教会の至高は聖女だけど、王国の至高は間違いなく国王だもの。
その国王がひと度倒れれば国は乱れる……というわけで、いつでも聖女の力を享受できるとされていた。
病室を辞して門に横付けされている王宮行きの馬車に向かって歩くあたしは上機嫌に周囲の景色を眺める。目に映るのは林立する幾つもの尖塔。無論王宮のだ。王宮と軍病院は敷地が接しているだけあって割と見えるのよね。
うっふふっふ~、きっとこれでまたセオ様に誉めてもらえるはず。ああお顔を拝するのが楽しみ~っ。……たとえ煩悩が駄々漏れでも。
その分正直な自分の気持ちを知ってもらえてアピールにもなるわ。我ながらの病的ポジティブ思考と共に馬車に乗り込むと、窓にカーテンを引いて座席中央に悠々と陣取った。他に乗る人はいない。
病室でのような清楚な雰囲気など微塵もないあたしはだらしなく鼻の下を伸ばしてどこか別の次元に意識を飛ばしている。
おそらく、これが聖女だと言われて信じる人は百人中二人くらいよね。ふっ、二%の聖女なんてどうよ。
「ああ~もうっ、セオ様ってば少し思い出しただけでどうしてあんなに格好いいの! 顔ちっちゃいのに背が高いから理想の九頭身! 足も長いし素敵に鍛えられた厚い胸板には惚れ惚れだわ……ってまあ服の下はまだ実物では見た事ないけど~。少なくとも前世の夫のよりは厚いはず。ふふふこっそり着替えを覗き見する? いやいやいや犯罪は駄目よあたし」
ゆっくりと走り出した馬車は誰も知らない激しい煩悩をも加速させていく。
所変わって国王セオドア・ヘンドリックスの執務室では……。
「……くっ、またか! あんの煩悩の塊め! しかも何だって? 前世の夫? 前世とか、思い込みが激しいな。妄想の男と比べられて堪るか」
アリエルの煩悩はセオドアの実務仕事を妨害していた。サインもハンコも書類の読み込みも、頭の中に変態チックな彼女の声が聞こえる度にいちいち中断してしまってほとんど進まない。何度付けペンを取り落としインクを散らしてしまい書類を作り直しただろうか。
「こんな事なら今日は時間ギリギリまで王宮を出ているんだった」
アリエルの煩悩思考が聞こえるセオドアだが、聞こえるのにも条件があり、一定の距離内に限られている。
正確な値は測った試しがないのでわからない。測るにも周囲に何をどう説明すればいいのか思い付かないので測れない。しかし、例えば王族がバルコニーから演説を披露する街の大広場では、アリエルが広場の一番遠い端にいても聞こえてくる。しかしそれ以上離れると聞こえなくなると言ったおおよその有効範囲は把握していた。離れた相手が豆粒以下の点でも聞こえるのだ。
王宮と教会は思考が聞こえない距離は離れているので安心だが、今日のように聖女が公務で王宮そのものや軍病院などの周囲に併設された施設にやってくる際は仕方がない。そんな危険な日は我慢するか王宮を離れるかしていた。
それでなくとも国王と聖女として定期的に顔を合わせるので、セオドアはよりにもよって面と向かって彼女の心の声を頻繁に聞く羽目になっていた。
まあ、だから先日とうとう堪え切れずに真実を告げてしまったのだ。
正直彼としては、これで少しは自重しマシになるかと思っていた。
だが予想は見事に裏切られた。青年国王は執務机で一人頭を抱える。
「はあ、もうどうしろと……。来たようだし」
そんな聖女の皮を被った痴女アリエルの来室を、彼に一足遅れて何も知らない男性秘書が告げに来た。
国王セオドアと彼の青年秘書の待つ豪華な応接室。
そこに王宮案内の兵士に連れられた聖女アリエルが扉を開けてもらって入ってくる。
彼女の思考スルーの有効範囲内に入ってからセオドアには当然の現象のように煩悩が聞こえてきていたが、ご尊顔を拝めるだの匂いを嗅げるだの今からの面会に期待を寄せるものばかりで、この程度なら挨拶代わりだと感じていた。メンタルが多少タフにはなったと自負する。
だがしかし、実際に面と向かえば比ではないレベルとバリエーションの煩悩攻撃が始まるのが聖女アリエル・ベルという相手だ。対象物を前にすると妄想が爆発するタイプなのだろう。彼は微かな嘆息と共に心を構えてアリエルを見据えた。
「ふふ、案内どうもありがとうございました。王宮は広くていつも迷いそうになるので助かりました」
「い、いえ、自分は当然の務めを果たしたまでです!」
予想外にもセオドアの視線に気付かないアリエルは案内の兵士に極上の猫被りスマイルを向けて労いの言葉を掛けている。微笑まれた若い兵士はデレッとしながらも仕事に戻っていった。
「…………」
我知らずセオドアは眉根を寄せていた。
一方、無言の圧の度合いを強めたセオドアをようやく見たアリエルが不思議そうにする。
「陛下どうかなさったのですか? もう眉間が寄っていますけど」
彼は自分が無意識に半眼になっていたのに気付いてはたと我に返る。いつもはアリエルからの激しい心理的攻撃の末に寄るはずの眉間が初っ端からこれだ。もう、と彼女が言ったのも彼女の方も不可解に思ったからに他ならない。
セオドアは内心で唸った。自分でもよくはわからないが失態を犯した気分だった。
「いや、ここまで頻繁に会って話す必要はないだろうとふと思ったんだ。国王だからと聖女と結びつけようとする気風にはうんざりする」
昔から聖女が結婚するとすればその相手は国王か王族が定番で、当代の二人は二十一歳と十七歳と政略結婚をするにも年齢が比較的近い事もあり、周囲はそれも視野に入れて二人のスケジュールを調整している節がある。彼に未だ妻どころか婚約者の一人もいないので心配しているのだろう。大きなお世話だとセオドアは思っていた。
「むむむ、そんな風に面と向かってハッキリ言わなくてもいいじゃないですか。あたしだって傷付くんですよ」
彼の目の前ではテーブル向こうのソファーに腰かけたアリエルが拗ねてみせる。
ただし、もう取り繕う必要がないので口調は結構砕けたものになっている。セオドアの意向で青年秘書も猫被りをわかっているので気遣いはいらない。秘書は人の好さそうな笑みを浮かべて二人を黙って見守っていた。
「ふああもう最高、その顔だけでディナー五人前は行ける!……とか全然平気そうな声が聞こえてくるなー。一体どこがどう傷付いているんだ?」
「陛下もあたしの物真似だいぶ上手になりましたよね」
しみじみとされてセオドアは顔をしかめた。
「聖女の身で男に媚びるのもどうかと思う」
「媚びる? そんなの陛下にしかしませんよ。ですから安心して下さい」
「無駄な労力だなそれは。……大体、私にしかしていないわけでもないじゃないか」
「え? はい?」
聞こえていなかった部分をアリエルが訊き返したが、セオドアは無視して彼の脇に置いてあった封書を二人の間のテーブルへと置く。
「これは?」
「次に治す者達のリストと日程だ。宜しく頼む」
「ああ、次の……」
アリエルは暫し封筒を黙って見下ろしてから大人しく受け取った。
「これで用は済んだから私は失礼する」
「え、でも会ったばっかりですよ? お紅茶などは……」
「ああ、そうだな。少し待っていてくれ。持て成しはさせるから予定通りの時刻まで寛いでくれて構わない」
セオドアは言いながら立ち上がって、言い終わる頃には部屋の扉を開けていた。
颯爽とした足取り。迷いのない行動の迅速さ。それではな、と一言告げてアリエルが引き留める暇もなく彼は秘書と共に出て行ってしまった。
セオ様が先に退室しちゃうのはいつもの事。
一人取り残されたあたしはしばらく呆気としていたけど、腕組みをして唸った。
「むうぅ、相変わらず手強いんだから」
正式に聖女になって一年足らず。こうして王宮で会うようになって素っ気なくされるのは何もこれが初めてじゃない。
とは言っても今日に限って彼がどうして不機嫌めだったのかはわからない。
「それにさっきの何よねえ。媚びたってぶりっ子だっていいじゃない。好きな人に少しでも可愛く見てもらいたいんだもの。ほんのちょっとだけでもドキッとしてほしいのよ、意識してほしいのよう!」
それで距離が縮まるのなら煩悩が駄々漏れでもいい。恥ずかしいけど彼になら全部知られてもいい。
だけど開き直って直接そう言ってやりたい相手はもう目の前にはいない。
「ま、言っても困らせるだけなんだろうけど、あの態度はちょっと腹立つわー」
封書を胸に抱き締めて、あたしは彼への腹いせに思い切り破廉恥な妄想をしてやった。彼はどうせ聞こえる範囲内にいるだろうからつんのめってでもいるかしらねーホホホ。
でも、どんなに追い払われても引き下がるなんて選択肢はない。
この一世一代の推し愛に人生を懸けたい。だって折角この世界に生まれたんだもの。
幸運にも聖女になれて、彼に手の届く場所にいられるんだもの。
冷たい態度の陛下だけど、故郷では自分を顧みず弟を助けてくれたし倒れたあたしを彼が自ら寝台まで運んでくれたんだって知ってるし、煩悩聖女ってバレたのに聖女失格とか口では言う癖に聖女の資格を剥奪しない。
国王だから真面目で厳しい面が多いけど、本当は温かい面もある。
多忙で疲れて見える日もあって、そんな時はあたしが彼の癒しになれればいいのにって思う。
とは言えざぶざぶ推し愛プールに浸かっているわけにもいかないけどね。
「はあ、とりあえず当面はこのリストの人達を治すのに専念しなくちゃね」
封筒を開けて中身を確認する。
治癒する相手は王都やその近郊に暮らす人がほとんどだったけど、今回のリストには一件王都から離れた場所にある病院が記載されていた。
魔物と戦う最前線の一つに建つ軍の病院で、多少は危険を伴うので王宮から沢山護衛を連れていかないといけないみたい。
何であれ、何事もなく治癒任務を終えられるといい。苦しむ患者を助けたい。
陛下の塩対応に少し落ち込んでいたあたしは窓から外を眺めて漠然とだけど自分への叱咤激励と、そんな淡い願いのようなものを抱いていた。
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