空屋敷
竹村
第1話
春のはじめ、風がぬるんできた日の朝、颯太は軽トラに揺られていた。颯太は今度から小学生だ。この春休みが終わったら、ランドセルを背負って学校に通うことになる。
でも、このお出かけは学校には関係ない。父親は運転席、母親は助手席、颯太は荷台だ。荷台には颯太のほか、掃除用具が載っている。ほうきにちりとり、はたきに雑巾、バケツの中に洗剤やスプレー、いろいろなものがある。颯太はわくわくしていた。両親は月に一度程度同じように掃除用具を持って出かけていたのだが、颯太はそのたびに祖父母に預けられていた。初めて一緒に行くのだ。少し大人になった気分を、春の風がくすぐった。
「着いたよ」
車が停まった。走り出していくらも経っていない。もっと風を感じていたかった。つまらなく思いながら、颯太は母親に抱っこしてもらって荷台から下ろされた。
到着したのは古いお屋敷だ。大きな玄関をくぐると、少しひんやりして埃っぽい。
「さ、頑張りましょ」
母親が袖を捲ってくれる。ここは親戚や知り合いなどの家ではない。村の真ん中にあり、どこに行くにも周りを通るが、今は誰も住んでいない。村の人々がかわりばんこに掃除に来るという。
雨戸を開けると日が差し込み、屋敷の中がよく見えるようになった。しかし颯太は明るさが足りないと思い、電灯のスイッチを押した。点かない。
「ここは電気が止まってるんだよ。だから明るいうちに終わらせないとね」
両親は手際よく掃除を始めた。まず背の高い父がはたきをかけ、母がほうきで埃を集めて、そのまま大きな窓から掃き出していく。
颯太は草むしりの係に任命された。張り切って草むしりを始めたが、少し進めると庭にポンプ式の井戸を見つけた。使い方はテレビで見たことがある。金属製の緑の取っ手を押してみる。重たい。両手を取っ手に載せ、体重をかけて下ろした。手を離すと自動的に持ち上がる。二度めは少し軽い。何度か押すと筒の先から濁った水が出てきた。
押せば押すほど水が出てくる。くりかえすうち水はすっかり透明になった。冷たいしぶきが日を浴びてきらきら輝く。
ふと気がつくと足元はすっかり水浸しになっていた。靴下まで濡れている。我に返った颯太は、草むしりをしなければと思い出す。井戸から離れようとすると、濡れた靴がぐちゃっと音を立てた。
草むしりを再開するが、濡れてしまった草は手にまとわりついて離れない。眉をしかめながら点々と生えた草を追いかけていくと、破れた戸の中に続いていた。
軽く引くと、開く。外との明暗の差で少しの間何も見えなくなる。目が慣れると、戸の中は台所だとわかった。かまどのある土間で、調理台が作りつけてある。板の張ってある部分にはうっすらと埃が積もっている。両親はまだここまで来ていないようだ。
壁に窓が開いている。土壁を塗り残して作った室内窓だ。覗き込むと、隣は風呂場だった。タイル張りの床が黒ずんでいる。外への窓もあるからそれなりに明るいが、水場特有の湿ったような雰囲気があって不気味だ。
靴を脱いで廊下へ上がる。窓は遠く薄暗い。開けっ放しのふすまの間から、日の光が長く差し込んでいる。舞い上がった埃が日を浴びてきらきら光っている。
日光の帯を外れると、家の中は急に暗くなる。廊下の脇に木の戸があった。押しても引いても、スライドさせても開かない。と、思ったが、戸の真ん中に横に渡された材が動いた。かんぬきになっていたのだ。
細く開け、中を覗いてみる。真っ暗だ。窓がない。わずかな光で、箱がたくさん置いてあるのがわかる。物置だろうか。
そっと中へ入り込む。奥がほんのり光っている。窓ではない。日光の下ではわからないようなかすかな光だ。誘われるように奥へ進む。そこに、いた。
年のころは二十歳前後の男性、のように見える。颯太が今までに見た誰にも似ていない。テレビの中にもいなかった。その全身が、うっすらと光を帯びている。
颯太はごくりと喉を鳴らした。青年の前には、太い木で組まれた格子がある。閉じ込められている。こんな、誰も住んでいない家に。
父を、母を呼んで来なければ。そう思ったが、青年をよく見ると、痩せても汚れてもいない。救出を、水や食物を乞うているわけではない。ただ静かに座って、颯太に微笑みかけてくる。
颯太は部屋を飛び出した。精一杯の速度で、掃除を続けていた父を見つけて飛びついた。
「なんだなんだ、虫でもいたのか?」
今見たものを説明し、笑う父の手を力いっぱい引っ張って物置まで連れてきたが、奥はただ壁があるばかりで、格子もあの青年も見つからなかった。
その日から、颯太はあの青年のことが頭から離れなかった。
明けても暮れても、ご飯を食べても友達と遊んでも、ずっと上の空で青年のことばかり考えていた。
小学校へ通うようになり、初めての教室、初めての先生、初めての勉強。初めてづくしで忙しいはずなのに、何を見ても何をしても、あの青年の影がちらつくのだ。
お屋敷の掃除は持ち回りのため、今も他の誰かがあのお屋敷に行って掃除をしているはずだ。誰かがあの青年を見つけたらどうしよう。もし連れ出してしまったらどうしよう。
次の掃除当番にも連れて行ってくれ、絶対行く、と颯太は強く主張した。両親は最初こそ、この前行ったときは草むしりもせず遊んでいた、と渋ったが、颯太があまりにも強くしつこく主張するので、わかった連れて行く、と約束してくれた。
ところがいざ当日になってみると、颯太は熱を出してしまった。仕方なく、颯太と父は家に残り、掃除には母だけで行ってしまった。
夕方には熱も下がり、掃除のあとで買い物も済ませた母が帰ってきた。颯太は意気込んで物置の奥を確かめたか聞いてみたが、何もないただの物置だったという答えが返ってきただけだった。元気になったので屋敷に行きたいともねだってみたが、もう暗くなるし今から行くのは面倒だと断られた。
その夜、颯太は眠れずにいた。昼間ずっと寝ていたので眠気が来ないのだ。隣の両親がぐっすり眠っているのを見て、颯太はパジャマのままこっそり家を抜け出した。
夜中に家を抜け出すなんて初めてのことだ。心臓がどきどきする。
お屋敷は夜の闇にひっそりと沈んでいた。
玄関の戸を開けようとしたが、鍵がかかっている。それならばと裏口に向かう。前に来たとき裏口の戸は破れていた。いつから破れていたかは知らないが、もしかしたら今もそのままなのではないか。
果たして、戸は破れたままだった。中へ入り込むと、外よりもさらに暗い。懐中電灯を持ってくるべきだったと思ったが、今家に帰ってもしも親に見つかれば、もう一度外に出ることはかなわないだろう。暗闇に目が慣れるのを待って、颯太は廊下へ上がった。
不思議なことに、台所より廊下の方が見やすかった。光があるわけではない。なぜか颯太の目には、壁も床もくっきりと見えるのだ。
物置の戸は閉まっていた。両親のどちらも、物置の奥はただの壁だったと言っていた。この戸を開けた先に、ただの壁しかなかったら。颯太はどうしたらいいのだろう。
荒くなる呼吸をおさえながら、颯太は戸を細く開けて中を覗いた。奥にかすかな光が見える。あのときと同じ、柔らかな光だ。
一気に戸を引き開け、颯太は奥へ急いだ。
青年がいた。
あの日のまま、格子の向こうに、柔らかな笑みを浮かべた青年が座っていた。
青年は颯太を覚えているのかいないのか、少しだけ首を傾げた。
前に会ってからの悶々とした日々、今日昼間に来ることができなかった悔しさ、ここまでの夜道の寒さと暗さ、やっと会えた安堵。さまざまな感情が颯太の胸にこみ上げ、颯太は泣き出してしまった。
青年は颯太の様子を見て、少しためらった様子で格子の隙間から手を伸ばし、颯太の頭に触れた。
あくる朝颯太の家に、一緒に学校に行く班の仲間が迎えに来た。
「おばちゃん、今日は颯太休み?」
「昨日風邪ひいたって言ってたもんね」
しかし母親は、困ったように首を傾げた。
「颯太って誰だったかな? うちに小学校行く子はいないんだけど」
終
空屋敷 竹村 @takemura_umematsu
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